読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か


専制君主制と立憲君主制とはまったく違うアイディアなので、どっちが日本の正しいシステムなのだろう、と日本人の間で混乱が起きた。それが論争になったのが、第6章でも触れた天皇機関説論争です。



機関説派は、天皇憲法のもとでのひとつの役割をになうのだから、いわば国家機関である。その限りで天皇憲法に制約され、憲法に従わなければならない。こういうふうに述べた。当然こうならなくてはならず、明治の国家指導者もこう考えていました。



ところが皇統派青年将校や軍部の一部は、これを認めず、「そもそも天皇は日本を悠久の昔から統治する、超憲法的な存在である。いまたまたま天皇憲法を発布し、それに従っているが、憲法や法律とは無関係に、人民を直接支配するのが本当である」、こう主張したのが、天皇親政説です。



そのための昭和維新を実行しようとして、二・二六事件五・一五事件を起こしました。論争の結果、軍の主流派が天皇機関説を否定したために、機関説派は負けてしまいました。


これが、日本を戦争に追いやったひとつの理由でした。まさに法律の無理解と言わざるをえません。



皇統派のような主張が起こる理由を考えてみると、明治憲法の制定の仕方に原因があります。国民が望んだわけでもない憲法を、スムーズに導入しようと、天皇の権威を最大限に利用した



天皇が、超憲法的な統治権力者であるからこそ、天皇明治憲法の「憲法制定権力」となることができた。教育勅語軍人勅諭も、「超法規的な天皇」の観念を補強した。



明治維新そのものが、そうした天皇の権威によって可能になった。明治の憲法体制は、たしかに、機関説一本で押し切ることのできない構造になっていたのです。



明治の指導者たちの法律感覚

話を戻すと、明治政府がもうひとつ取り組んでいたのは、条約改正問題です。ここで条約とは、日米和親条約ほか、列強と結んだ不平等条約で、関税自主権がなかったり、治外法権を認めたり、日本にとって不利益な条約である。


これは江戸幕府が結んだ条約である。明治政府は江戸幕府に反対して、これを打倒したわけです。その理由は、江戸幕府天皇に断りもなく、勝手に不利益な条約を結んだという点にありました。


だからひとつの可能性としては、江戸幕府にはそもそも外交権がなかったのだから、そんな条約は知らないという態度をとることができたかもしれない。



しかし明治政府がとった態度は、たいへん賢明だったと思うのですが、江戸幕府が結んだ条約であっても、これは日本国を代表して結んだ条約であるので、明治維新によって成立した明治政府はこれを尊重する、そう外国に約束したのです。



そしていっさい、それに違反する行動をとらなかった。そして粘り強く、条約を改正するという努力を続けて行ったのです。明治の指導者たちの法律感覚は、そういう点でたいへん優れていたと思います。



もしその条約を破棄していたら、それを口実に、正統な国家ではないということで軍事力による攻撃を受け、もっとひどい状況になったでしょう。国際常識を理解していたのですね。そういうわけで、条約改正の努力を続けて行ったわけです。




「富国強兵」というスローガンが有名ですが、その次にもうひとつ、「万邦対峙」が対句になっていました。明治政府の目標です。富国強兵はなんのためかというと、西欧列強と渡り合える対等な独立国となるためである。



万邦対峙の反対は万邦落ちこぼれ、つまり植民地ですが、植民地にならないためには、経済繁栄と強い軍事力が必要だ、というように、国家目標がたいへん明確だった。」