「天皇機関説論争
機関説派は、天皇は憲法のもとでのひとつの役割をになうのだから、いわば国家機関である。その限りで天皇も憲法に制約され、憲法に従わなければならない。こういうふうに述べた。当然こうならなくてはならず、明治の国家指導者もこう考えていました。
ところが皇統派青年将校や軍部の一部は、これを認めず、「そもそも天皇は日本を悠久の昔から統治する、超憲法的な存在である。いまたまたま天皇が憲法を発布し、それに従っているが、憲法や法律とは無関係に、人民を直接支配するのが本当である」、こう主張したのが、天皇親政説です。
これが、日本を戦争に追いやったひとつの理由でした。まさに法律の無理解と言わざるをえません。
明治の指導者たちの法律感覚
話を戻すと、明治政府がもうひとつ取り組んでいたのは、条約改正問題です。ここで条約とは、日米和親条約ほか、列強と結んだ不平等条約で、関税自主権がなかったり、治外法権を認めたり、日本にとって不利益な条約である。
だからひとつの可能性としては、江戸幕府にはそもそも外交権がなかったのだから、そんな条約は知らないという態度をとることができたかもしれない。
しかし明治政府がとった態度は、たいへん賢明だったと思うのですが、江戸幕府が結んだ条約であっても、これは日本国を代表して結んだ条約であるので、明治維新によって成立した明治政府はこれを尊重する、そう外国に約束したのです。
そしていっさい、それに違反する行動をとらなかった。そして粘り強く、条約を改正するという努力を続けて行ったのです。明治の指導者たちの法律感覚は、そういう点でたいへん優れていたと思います。
もしその条約を破棄していたら、それを口実に、正統な国家ではないということで軍事力による攻撃を受け、もっとひどい状況になったでしょう。国際常識を理解していたのですね。そういうわけで、条約改正の努力を続けて行ったわけです。
「富国強兵」というスローガンが有名ですが、その次にもうひとつ、「万邦対峙」が対句になっていました。明治政府の目標です。富国強兵はなんのためかというと、西欧列強と渡り合える対等な独立国となるためである。
万邦対峙の反対は万邦落ちこぼれ、つまり植民地ですが、植民地にならないためには、経済繁栄と強い軍事力が必要だ、というように、国家目標がたいへん明確だった。」