「3 法をめぐる日本人の誤解
「官/民」とは何か
明治の国家指導者は、このようになかなかの見識を持っていましたが、政府のもとにいた人民が正しいb法律感覚を持ったかというと、必ずしもそうは言えなかった。それは、政府のせいでもある。
明治政府は、日本人に大変困った法律感覚を植え付けたと思うのですが、明治政府の言い方では、まず「官/民」とふたつに分けてしまいます。
それに対して「民」とは私企業であり、家であり、庶民であり、民間であり、官に比べて一段低いものである。これが常識だということを、明治国家は繰り返し言い続けたわけです。これは明治国家の建前のようなものです。
官は民よりも一段高い、公である。民である個々人は、官を敬い、国家のために献身すべきである。_こういう考え方が、どれほどおかしいものか、よく理解したほうがいい。
私から言わせると、明治国家は、国家でありながら教会のようになっている。これはたいへん奇妙な事だ。ヨーロッパ的に考えれば、国家は教会ではないですね。あくまでも世俗の機関であって、軍事や外交や経済活動はするけれども、人々の内面、精神まで支配するものではない。人々の内面は教会が扱うもので、国家とは独立です。
日本にはその教会がなかった。そのいっぽう、江戸時代のバラバラな三百もの藩をひとつの国家に統合して、地租改正をしてたいへん重い税金を課して、富国強兵、兵役も貸して、国民に大きな負担と犠牲を強いた。
そのためには、国家は大事なのだ、国民は正しいことをやっているのだ、という観念を持つことが必要だから、イデオロギー操作を行わないといけない。
そこで、国家をいわば教会のように組織したのだと思います。
はじめ日本人はこのことを理解しませんでしたが、学校教育を何十年もやっているうちに、だんだん浸透して行って、最後には疑わなくなった。ある意味で公共の観念は根づいたのだが、法律や人間の尊厳に関して、たいへんに偏った考え方を身につけさせることにもなったのではないかと思います。
戦後、これがどうなったかというと、戦前のシステムのせいで、軍人が大きな誤りを犯して、国を滅ぼしそうになった。そこで、「羹に懲りて膾を吹く」ではないが、公、国家、官僚などに対して深い疑いの念が起こって、自分はなるべくそういうものと関わらないで、個人として安穏な一生を送っていきたい、と思ったわけです。
そこで、軍隊を否定する。憲法第九条にそう書いてあるわけですが、そうすると、自分の献身の対象、教会にあたるものが、公ではなくなってしまった。そこでどうなるか。たとえば、その対象は私企業になり、丸紅とか三菱とか、どこでもよいのですが、自分の勤めている会社になる。
自分の所属集団が生きる目標になるようなタイプの人々を大量に生み出したわけです。このことは、戦前と比べてみると、たいへんに明らかです。こうして、明治国家の祟りがまだ続いているのではないかと、私は考えています。」
〇 ここを読んでまた松田道雄さんの言葉を思い出しました。
「私は女性にしか期待しない」の中から引用します。
「「企業としきたり
おごそかな儀式には、集団催眠術みたいな力があります。自分が意識しないで、しきたりのルールを実行してしまうのです。
理性では、ばかげていると思う人でも、しきたりに意識して反対するのは、容易なことでありません。イエの他のメンバーの目が気になるからです。
儀式のあとには宴会があります。これもムラから引き継いだしきたりです。宴会の席にも座る順番がきまっています。女はお酌です。酔っぱらって席が乱れると、平の社員も部長の前にいって、盃を頂戴し、日頃言えなかったことをいいます。それによって、同じ身内だという気持ちを強めます。」
〇 「問題がある、このままではいけない、とわかっている。それは、あの「ジャパンクライシス」でも、繰り返し言われていました。
でも、変えるための行動を起こせない…これは、何故なのか。
今も、虚報・隠蔽・改竄・捏造を繰り返す政府とマスコミの報道を聞きながら、
その一方で、それにもかかわらず、安倍内閣の支持率は増加している、50%を超えている、と言われています。
嘘ばかりついているヒトの言葉を真面目な顔で、「なるほどそうですか」と受け止める人がいるでしょうか。
インチキや不正ばかりしている嘘つきが、真っ当なルールで、公正な選挙や公正な国民投票をする、と真面目に考えるとしたら、その人は愚かすぎます。
でも、今、この国で起こっていることはそういうことです。
私たちは乗っ取られています。嘘つきインチキの権力者に。
このまま、憲法改正に持って行かれるのを、私たちは真っ当な国民だからと、静かに受け入れるしかないのです。やりきれません。