読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「所有と税と法律と

身体の次は、財産の自由があります。
身体の自由に関しては、どこかに制限を設けるにせよ、大多数の論者が一致しているのですが、財産については、リバタリアニズムの論者のなかでもいろいろに立場が分かれています。(略)



通常の学説からすると、それは労働の対価です。労働して、外界の事物が変化して、農作物が獲れたり、製品が出来たりしたら、それはやはりその人のものである。(略)



その人が財産に対する権利を持っている。こう考えるのが普通です。これを認めるところから市場経済が基礎付けられますが、認めない立場もあり、所有権をすべて否定する。そうすると共産主義になります。これはゆき過ぎなので、最低限、身体の自由に加えて、ある範囲の財産権を認める。これを自由の基礎であると考える。



財産権を認めたことを、どうやって他人に対して保証するかというと、法律によるほかないわけですから、その意味でも法律は自由の基礎です。(略)



財産の一部を、有無を言わさず取り上げてしまう。これはふつう泥棒と言われますが、泥棒でないのは税金の場合です。このことがどう正当化できるかが、大事な論点になります。



財産相続の問題

つぎに議論しなくてはならないのは、相続の問題です。
人間は何かを所有していたとしても、死にます。死んでしまうと、その人が持っていた物が無主物の状態になり、宙ぶらりんになります。それを子どもが引き継ぐ。あるいは遺言で指定された誰それさんが引き継ぐ。これが相続という現象です。




相続という現象をよく考えてみると、自分が労働したからその成果は自分のものである、という財産権の正当化の論理に反していて、不労所得です。そうすると、相続を全否定するという考え方が、リバタリアニズムの立場からもありえます。(略)




もしもどうせ国に取られてしまうと思ったら、バカバカしくて、浪費をしたり、ギャンブルでスッてしまったりするのではないでしょうか。それはこの社会にとって、大きな損害になります。(略)



そうすると、相続を否定することも、社会にとっては問題かも知れない。リバタリアンは、こういうことを楽しくいろいろ論争しているわけです。



それから、法人所有や共有財はどうか。

(略)そうすると、そもそも法人は存在していないと考えるべきである、ということにもなります。そういう学説も、法学界の一部には根強かったのですね。



しかし現実問題として、たくさんの株式会社がある。株式会社が何かを所有していないと経済活動に困りますから、株式会社が財産を所有する権利は認める。ところが、株式会社は死なないわけです。



個人は秦で、ほぼ三十年おきに相続が起こり、どんどん相続税を取られる。いっぽう株式会社は死なないので、いったん土地を取得すると、株式会社があるかぎり、ずっとその土地を持っていられることになる。これは不合理です。


東京の土地を見ても、個人所有のものはどんどん細かくなって、猫の額のようになっていますが、法人所有の不動産はずっと残り、三十年とか五十年経つと、ますます多くの土地を報じんが所有していることになっています。このことも問題です。




リバタリアニズムの感触は、おわかりいただけたと思います。自分の自由を、自分の納得できる理由がないかぎり、絶対誰にも渡さない、国家に対しても渡さない。こういう強い覚悟が、リバタリアンにはあります。




これは日本人にとても欠けていたことではないかと思います。
リバタリアニズムは、面白い論点をいろいろと突いてくれ、個々の結論の当否はさておき、面白い考え方なのではないか。もう少し研究してみる必要があるのではないか、と私は思っています。



リバタリアニズムについて、もっと詳しく知りたい方は、森村進さんの「自由はどこまで可能か」(二〇〇一年、講談社現代新書)ほかを見て下さい。」