読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める

〇この本の見出しとして 一章 制度の起源に向って  ―言語、親族、儀礼、贈与

となっています。「言いたいこと」…は、その最初の小見出しです。

正直、ここは、よくわからない…と思って読みました。でも、所々、

確かにそうかも…と思ったので、メモしておきます。

 

 

「大学院のゼミで国語教育について論じる。

国語力の低下が子供たちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえ方」そのものに致命的な誤りがあったのではないかという根源的な吟味も必要だろうと私は思う。

 

「言いたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。だが、この基礎的知見は果たして適切なのか。

 

 

構造主義言語学以後(つまり百年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。

先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。

 

 

より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的な不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。

とりあえず、それがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだまったく「常識」とはされていない。

 

私が何かを書く時(例えば今しているように)、書き始められたセンテンスは前後の文脈や統辞上の制約や私の「書き癖」のせいで自動的に一文をなす。

そうやって自分が書いた分を私は読者になって読み返す。

 

読んで「なるほど」と納得することもあるし、「何か違う」と思う時もある。

たいていは「何かが違う」と思う。あるいは「何かが足りない」とか「何かが過剰である」と思う。その印象に従って、文を補綴し、あるいは削除し、あるいは加筆する。そうやってあれこれいじりまわしているうちに「読んでそれほど違和感のない」文章が出来上がる。

 

そうやって出来上がった文章を「それほど違和感がない」と感じているもの、それが発話主体である。

 

「主体」という語がつい誤解を招いてしまうのだが、「主体」というのは実際には「もの」ではなく、「こと」である。自分が発した言語に違和感を覚えたり、憶えなかったりするという事況そのもののことを私たちは「発語主体」と名付けているのである。」

 

 

〇 この「主体」についての説明が理解できませんでした。

 

「当然ながら、違和感の感知以前には発語主体は存在しない。

「これは私らしい言葉遣いじゃない」とか「これは私が言いたいことと微妙に違う」というような選別を通じて、私が実際に口にし、紙に書いたことの内から、「私らしくない言葉遣い」や「私が言いたいこととは違うこと」が入念に除去された後にはじめて、「言いたいことを言おうとしている(けれど、結局うまくいえなかった)私」という発語の基点が定立されるのである。

 

発語の起点は、発話の起点にあるのではなく、発話が終わった後に遡及的に定位される以外には存在し得ぬものなのである。(略)

 

発話主体がまず存在して、それが何かを発語するわけではない。発話主体は発話という行為の事後的効果なのである。(略)

 

モーリス・ブランショはこう書いている。

作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何者であるかを知らないばかりか、何ものでもない。

作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。(略)

 

国語教育の教科書的理解によれば、まず「言いたいこと」があり、それが「言葉」という不完全な媒介を経由して読者や聴き手に到達する。

そういう言語観が採用されている。(略)

 

「作者は何が言いたいのか?」というのはもっとも頻繁に提示される問いのかたちだが、私はこの問いにどんな意味があるのかいまだによくわからない。

私自身の書いたものは現代文の入試問題に多く採用されている。問題用紙が送られてくるので、たまにそれを読む。そして、「作者は何が言いたいのか?」という問いの前でそのつど立ち尽くす。(略)

 

「私はいったい何が言いたかったのか?」

改めて考えると、私にもよく分からないからである。(略)

 

 

それはまぎれもなく私の文章である。私の好きな音韻と私の好きな字体の文字が私の好きなリズムで書かれている。

書いたことを憶えていないし、何を言いたくて書いたのかもわからないにもかかわらず、「これは私の文章だ」ということは一〇〇%の確信をもって言うことができる。

 

でも、これは不思議な話だ。

作者自身が「自分が言いたいこと」が何であるかには確信が持てないのに、「これは自分の文章だ」ということには満腔の確信を抱くことができる。(略)

 

小学校五年生のときにはじめてエルヴィスを聴いた時に私は思わず小さく震えたが、むろん英語の歌詞の意味はぜんぜんわからなかった。でも、「湯煙夏原ハウンドドッグ」でも「来る」べきものはちゃんと「来る」。

そのことにむしろ驚くべきではないのか。

 

 

だが、国語教育はなぜか「意味」に拘泥する。作品を「作者の意図」に従属させて怪しまない。だが、「ハウンドドッグ」の歌詞カードを読んで、「エルヴィスはこの曲を通じて何がいいたいのでしょうか?」と小学生に訊くのがまるで無意味な問いであることは誰にでもわかる。

 

音楽の命は音の物質性のうちに棲まっている。言語も同じである。言語の命は言葉の物質性のうちに棲まっている。

強い言葉があり、響きの良い言葉があり、身体にしみこむ言葉があり、脈拍が早くなる言葉があり、頬が紅潮する言葉があり、癒しをもたらす言葉がある。現に、そうやって読み手聴き手の身体を動かしてしまうのが「言葉の力」である。

 

言葉には現実を変成する力がある。

そのような言葉に実際に触れて、実際に身体的に震撼される経験を味わう以外に言語のように長じる王道はない。言葉によって足元から揺り動かされる経験に比べれば、作者の意図なんかどうだってよい。」

 

〇ああ、いいなぁと思います。本当にそうだなぁと思います。

 

「たくみな「言葉遣い」になるためには、子どもの時からそのような「力のある言葉」を浴び続けることだけが重要なのである。その経験を通じて、はじめて「諧調」とは何か、「響き」とは何か、「論理性」とは何か、「抒情」とは何かということが実感としてわかるようになる。(略)

 

論理的な文章は「気持ちが良い」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」から、わかるのである。

それを判定するのは身体的な感覚である。

それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いて来た子供が演奏の半音のずれを「不快な音」として聞き咎めてしまうのと同じである。

 

 

論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手立てはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。国語教育とは畢竟それだけのことである。

 

 

江戸期の名書家沢田東江の「東江書話」には次のような言葉がある。

 

学才なき人の書は見るにたらず。いはんや代をさりてむかしを慕ひ、国を隔ててその体を学ぶにおいては、学才なき人は見識もひらけず、その書おのづから俗態をなすもことわりなり。もし詩文をよくせずとも、実に書を好むとならば、その典刑とする法書を見、論譜を読て、古人の心を用ゐたるおもむきをもたづぬべき事ぞかし。

 

 

「古人の心」に現代人は逆立ちしても手が届かない。しかし、源泉を探って遠く先哲の室に参ずるための物質的てがかりはさしあたりその書しかない。そして、そこから遡及して古人の心を訪ねてみても、辿り着く先は一人ひとりばらばらである。

 

別にそれでいいじゃないかと私は思う。そうやって人間はいろいろなことをてんで勝手に学んでゆくことになるのである。

 

リアルなのは言葉だけである。言葉の向こうには何もない。けれども言葉は「言葉の向こう」があるという仮象をつくりだすことができる。

「言葉以上のものがある」と信じさせることは言葉にしか出来ない。それが言葉の力なのである。

              (二〇〇七・六・六)  」