読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

政治運動の喪主

〇「礼について」「ひとはんばぜ葬礼を行うか」「藻の主体を引き受けるということ」

については、読んだのですが、パスします。

 

「政治運動の喪主

 

「月刊ソトコト」(「ロハスピープルのための快適生活マガジン」なんですって)というたいへんおしゃれな雑誌の取材がある。

先般の総選挙に見られた「弱者による弱者バッシング」という倒錯した現象についてコメントを求められる。

 

 

政治的価値というのは最終的にひとりひとりの政治実践者の実存的企投に担保されるものであるから、ネット上で政治的言説を匿名で発信している人間たちが何十万いてもそれが身体性や固有名を引き受けないものにとどまるかぎり本質的な意味での「政治運動」にはならないという話をする。

 

 

若い方々はあまりご存知ないようだけれど、政治運動は社会理論と同じくある種の「生物」に似ていて、「誕生」があり、「成長期」があり、「開花期」があり、それから長い「没落期」があり、最後に「死」が訪れる。

 

 

物理的な時間幅だけ見れば、政治活動というのは、そのほとんどの期間が実は「後退戦」である。櫛の歯が抜けるように、ひとりまたひとりと「同志」が戦列を離れ、振り返るともう誰もついてこない……政治運動というのはその過半が(場合によっては全期間の九〇%が)そういう情けない「落ち目」の局面なのである。

 

 

それでも誰かがこの後退局面を引き受けて、しんがりとなって悪戦を戦い抜き、最後に政治運動が息を引き取るそのときに臨終の証人としてその場に居合わせなければならない。そのときにはじめて、誕生から死までのその政治運動全体の歴史的な意味と価値が確定するからである。

 

 

そのような喪の儀礼を引き受けるのは最終的には固有名を持つ個人である。

 

 

「喪主」が存在しない政治運動、つまり、高揚期が過ぎた瞬間に運動の後退戦の引き受け手がひとりもいなくなってしまうような運動は、弔いをする人間のいない死者が悪霊になるように生腐りのまま放置され、いつまでも悪臭を放って、その運動にかかわったすべての人間にとって刺さったまま抜けない棘のような「恥」となる。

 

 

政治運動にコミットするということからほとんんどの人は、ゼロから運動を作り出してゆく草創期の高揚感と、運動が一気に祝祭的なエネルギーを獲得してゆく瞬間の興奮のことだけを思い浮かべるけれど、それだけでは想像力が足りない。

 

 

政治的主体の果たしうるもっとも重要な仕事はそのような「サニーサイド」にはないからである。凋落する政治運動の「死に水」を取る人間がどれほど誠実にその仕事を完遂あかによって政治運動の真の価値は決定するのである。

 

それは私たちが愛する人の凋落と老衰と死を看取るという経験とほとんど変わらない。

もし、自分の親が健康で収入があるときには親しむが、病気になって貧窮になったら見捨てるという(リア王の子供たちのような)人間がいたら、私たちは「それは人間としてまずいんじゃないか」と言うだろう。

 

 

 

自分の妻が美貌である間は愛するけれど、皺が寄って腹に肉がついたら棄てるという男がいたら、はやり「それは人間としてまっとうなやりかたじゃないよ」というだろう。

親子や夫婦の関係の本当の価値は、「楽しい時代」にどれほどパッピーだったかではなく、「あまりぱっとしない時代」にどう支え合ったかに基づいて考量される。政治運動だってある意味それと同じである。

 

 

落ち目の時に誰がどんなふうにその運動に付き合い、誰がどんなにきちんと「葬式」を出したかということは運動の価値に決定的に関与するのである。

「蔵前一家」がどのような博徒集団であったかということを決定したのは一家の草創期の逸話でも、全盛期の縄張りの版図でも寺銭の総額でもない(そもそも、「蔵前一家の全盛期」というのは「昭和残侠伝」シリーズの中ではついに一度も図像的に開示されることがない)。

 

すべての身内が四散したあとに、最後に残った花田秀次郎(高倉健)がただ一人、蔵前一家の「けじめ」をつけるために「唐獅子牡丹」の旋律に送られて殴りこみに行ったことによって、かつて彼が帰属し、今、彼がその最後の構成員であるところの博徒組織はその名を歴史に残すことになるのである。

 

この花田くんの行為はパセティックな復讐心というよりはむしろ「喪主」としての義務感によって動機づけられているのではないかと私は思う。

 

 

「ある組織の凋落局面における少数者の責務」だけを主題にした「昭和残侠伝」が六〇年代にあれだけの圧倒的支持を獲得したのは、政治の本質が「滅びてゆくもの」の弔いのうちに存するということを、当時の政治少年たちが無意識のうちに看取りしていたからだと私は思う。

 

 

「おとしまえに時効はない」というのはその頃無名の活動家がアジビラに書きつけた言葉の中でもっとも印象的なものの一つである。それが意味するのは「喪の儀礼」を正しく執り行うものが出現するまで、どのような運動も思想も安らかに死ぬことができないということである。そして、運動や思想から後代の人々が豊かな知的・倫理的な遺産を取るためには、正しい「弔い」が済まされることがどうしても必要なのである。

                 (二〇〇五・九・二五)」

 

〇「運動や思想から後代の人々が豊かな知的・倫理的な遺産を取るためには、正しい「弔い」が済まされることがどうしても必要なのである。」という部分が心に響きました。「政治は三流」と言われ、「人間を幸福にしない日本というシステム」と言われて、長い時を経て、今も少しも政治を進化させることが出来ずにいます。

 

後代の人に遺産を残す運動を積み上げて、次の時代にはもっと「マシ」な社会に出来れば、と願います。