読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

原理主義と機能主義

デンマークの新聞が掲載したマホメットカリカチュアに対するイスラム圏からの抗議に対して、欧州の各メディアが「表現の自由」という立場からその風刺漫画を次々に転載したことから、欧州から中東まで騒然となってきた。

 

 

レバノンではデンマーク大使館、領事館が相次いで焼かれ、ノルウェー大使館も被害にあった。シリアでは一万五〇〇〇人のデモ隊が棍棒やハンマーを手にして威嚇的なデモを行っている。イスラムの宗教的指導者たちは鎮静を呼び掛けているが効果がない。

 

隣りのレバノン政府は宗教対立の激化を憂慮しているが、すでにベイルートではカトリック教会が襲撃にあった。イラクでは政府がデンマークとのすべての契約を破棄すると宣言、反米ゲリラの<イスラム軍団>は「デンマーク人を見つけ次第捕獲し、手足をばらばらにせよ」という指令を発した。

 

 

エジプトでもデンマークノルウェーとの国交断絶を求める三〇〇〇人のデモがあった。フランスでは「フランス・ソワール」紙がこの戯画を転載したために、爆弾テロの予告を受け、一時全社員が退避するという騒ぎになった。(略)

 

 

「あなたは怒りっぽい人ですね」と言われた人が「ふざけるな。不当な評言をするな。取消せ」と怒りだした場合にはどういうふうに応接するのがよろしいのか。

「怒りっぽい」とわかっている相手をわざわざ怒らせるというのは賢いことではない。

同じように、「あなたは怒りっぽい人ですね」と言われて怒りだすのはその「不当な評言」が正鵠を射たものであることを進んで認めることに他ならないから、やはり賢いことではない。

 

 

 

こういうのは怒らせる方も、人を怒らせようと思って仕掛けられたことで怒り出す方もあまり賢いとは言われない。

こういうことを書くと、「ふざけたことを言うな。ことは賢いか賢くないかではなく、正しいか正しくないかだ」と力む人が必ずいる。

こういう方たちのことを「原理主義者」と呼ぶ。

 

 

その点、イギリス人はクールだ。

昨日、養老先生から「イギリス人は機能主義だ」という話を伺ったばかりだが、大陸の欧州諸国が「言論の自由」「表現の自由」という大義名分を掲げて、相次いでマホメットの戯画を掲載したのに対して、英国の新聞はこれを自粛し、英国のイスラム系団体もイスラム教徒に自制を求め、騒乱を回避した。

 

 

英国人は「言論の自由」を少しだけ制限することで、当面のガバナンスを確保したのである。

こういうところが英国風である。

高橋源一郎さんは前にこのような英国機能主義を「批評家と詩人」という対比で語ったことがある。

 

 

詩人はね、なまものの言葉を扱ってるんで、言葉ってさ、きょう築地から届きました~とかって、要するにすごいいい加減だったりするわけです。理想と違うわけ、極端なことを言うと。

 

でも、理想と違うからそんな言葉は使わないっていうんじゃ、詩人になれない。詩人というのは、そこにある、今日届いた魚で料理しなければならないと思うんです。とりあえず手元にある材料で料理するのが詩人。

 

こんなしょぼいので作れるわけないじゃないか、と怒るのが批評家。(……)理想とか考えてるんですよ、頭では。でも、手は勝手に魚をおろしちゃう(笑)。

   (竹信悦夫「ワンコイン悦楽堂」情報センター出版局、二〇〇五年、四一〇頁)

 

 

レヴィ=ストロースはこれを「詩人」と言わずに、「ブリコルール」と言った。

 

ブリコルールは様々な仕事をする能力がある。しかし、彼がエンジニアと違うのは、自分の計画のための材料や道具をまず考え、それが揃ってから沿ごとを始めるということをしない点にある。

 

 

ブリコルールの道具的世界は閉じており、彼のゲームのルールは「手持ちの手段」(moyens du bord)、つまりある時点において手元にある限りの道具と材料で、やりくりするということである。(略)

 

 

高橋さんとレヴィ=ストロースが言っているのは多分同じことである。

「これこれでなきゃダメ」というのが原理主義である。

「使えるものがこれしかないなら、これで何とか折り合いをつけよう」というのが機能主義である。

 

 

原理主義者は「リソースは無限である」ということを前提にして、至純にして最高のものを求める。機能主義者は「閉じられた世界、有限の時間、限られた資源」の中で、相対的に「よりましなもの」を求める。(略)

 

 

私は機能主義者である。

私は人の判断や主張が「正しいか正しくないか」ということにはあまり(ぜんぜん)興味がない。私がもっぱら関心を寄せるのはそのソリューションが機能的かどうかである。

 

 

「なまもの」を扱っている人はだいたい機能主義者になる傾向がある。私がこの間お会いして話し込んだ人たちは考えてみたら全員「機能主義者」だった。

 

 

養老孟司先生、名越康文先生、春日武彦先生はいずれもお医者さんである。

解剖のための死体は養老先生が何もしないと今日も明日も明後日も死体のままである。死体とにらめっこしているうちに、「あ、そうか、オレが動かないと何も始まらないんだということにはじめて気が付く」と養老先生はおっしゃっていた。

 

 

名越、春日両先生は精神病院の救急棟で危機的状況の患者と待ったなしで直面するという修羅場を何度もくぐり抜けてきた。そういうときに「こんな症例は教科書に出てなかった」とか、「こういう患者は私の治療理論になじまない」といって逃げ出すことはできない。

 

 

池上六郎先生は人間の身体を相手にする前は船に乗っておられた。船が座礁したときに「誰のせいだ」「どうすれば座礁しないですんだのか」というような原因究明をしても始まらない。

 

座礁した」という事実を与件として、使えるだけの道具と人間的リソースを駆使してどうやってこの窮状から脱出するかを考える。それがシーマンシップだと池上先生はおっしゃっていた。

 

三軸修正法は「どうして患者が治るのか理由がわからない」と池上先生は言われる。

「原理はわからないけど、現に治るんだから、それでいいじゃないか」

これは典型的に機能主義的な態度である。(略)

 

 

だから、「原理主義はダメだ」というようなことを機能主義者は決して言わない。「原理主義はダメだ」というのはもうひとつの原理主義である。「原理主義」は機能主義者にとっては一つの「なまもの」だからだ。

 

 

だから、私がこういうことを書くといろいろ文句を言ってくる人がたくさんいるはずだが、彼らに対して「あなたのいう事は間違っている」というような愚かなことを私は決して言わないのである。

 

       (二〇〇六・二・七)」

〇「機能主義者」の言い方と似てる言い方をする人に「相対主義者」がいるのではないかと思います。それほど、しっかり知ってるわけではありませんが、

相対主義者」は「皆それぞれにそれぞれの立場でものを言っている…その人なりの必然がある」的な言い方をします。

 

いわゆる、「正義は一つではない」などと言ういい方です。

これは一見全てを公正に見ているように思わせながら、実は、「悪」や「不正」を

誤魔化すのに使われていると思います。

 

私は、機能主義者は好きです。私もそうでありたいと思っています。

でも、相対主義者はどこかうさん臭いと思います。

その見分けが出来るようになりたいと思っています。