「少子化問題についてコメントを求められる。
どうして私のような門外漢にそのような問題のコメントを求められるのか、いつも疑問である。(略)
一億三〇〇〇万人が現在の日本の自然環境・社会環境にとって負荷が重すぎ、全員にじゅうぶんな資源を分配することができないということが実感されれば、人々は人口の増加を抑制しようとするであろう。
当然のことである。自然環境は食糧をふくめてまだいくぶんか余裕がありそうだが、社会的資源の分配についてはすでに不満が鬱積している。資源の供給の急激な増加が見込めない限り、分配しなければならない頭数を減らす方向にシフトするのは生物学的にはごく自然なことである。
その限りでは、少子化は「問題」ではなく、問題に対する「解答」である。
少子化がこれほど急激に進行したのには他にも理由がある。
つねづね申し上げているように、一九八〇年代から全般化した「個人の原子化」趨勢がそれである。
親族、地域社会、企業などの中間共同体への帰属を「自己決定・自己実現」の生涯要素とみなし、スタンドアローンで生きることを「善」としたさまざまな言説(広告からフェミニズムまで)にあおられて、日本人は「原子化」への道を歩んだ。
個人の原子化はまず「市場のビッグバン」をもたらした。
というのは、それまで家族単位で消費していた人々が、家族解散によって、個人が消費単位となったからである。四人家族が解散して、ばらばらに暮らすようになると、住む場所は四つ必要になる。ベッドも四つ、冷蔵庫も四つ、什器一切も四組必要になる。(略)
原子化と消費単位の細分化はそのようにしてバブル経済を準備し、下支えしたのである。
原子化は「「自分らしい生き方」を求める個人にとっては、なかなかに快適なものである。
ライフスタイルの全てを自己決定できるからである。(略)
けれども、こういうふうに自分らしい生き方を断固として貫き、あらゆる干渉をはねつける原子化した個人のアキレス腱は、共同体を作れないことである。
というのは、共同体を作るというのは要するに不愉快な隣人の存在に耐えることだからである。
何が悲しくてそのような苦役に耐えねばならぬのか。原子化した個人にはその理由がわからない。
仮に配偶者を求めたとしても、それはあくまで実利を求めてのことである。
高学歴で、高年収で、センスがよくて、社交的で、見栄えのする配偶者を持つことはその人の社会的能力の高さを外形的に表示するための、きわめて効果的な方法の一つである。
子どもも同じである。学力が髙かったり、すぐれたアスリートであったり、芸術的才能豊かな子どもは、その親たちにとっては、自分たちの代においてはたまたま発現しなかった卓越した遺伝的形質の存在を示すための好個の記号である。(略)
勉強ができない子ども、あるいはスポーツや芸能の領域で期待通りの成績をあげることのできない子どもを罵倒したり打擲したりする親がいるが、そのようなおやたちが「子どもの将来に対する懸念ゆえである」と言いつくろっても、私はそれを信じることができない。(略)
もし、家族のそれぞれが自分以外の家族に対して、外形的・数値的に周囲から容易に評価されるタイプの卓越性を要求し始めたら、家庭は「地獄」に等しいであろう。
バブル期以後の夫婦たちは、相互に相手を「道具化」しようと相剋的に戦う、ヘーゲル的な主人と奴隷の弁証法的抗争のうちに巻き込まれた。
そういう時代だったんだからしかたがない。
個人の創意でどうにかなるようなものではなかったのである。
だが、そのような趨勢を阻止するために、日本政府は指一本動かさなかった。国民全員が思い通りの消費行動をとることを国策として奨励したのは日本政府である。
自己決定・自己実現・自己責任、そして「自分探し」イデオロギーを宣布したのも日本政府である。
それらの政策の劇的なる成果として、他者と共同生活を営むことを忌避する日本人が大量に発生した。
少子化は日本政府の三〇年にわたる国策の成果である。そのことをまう認めるべきであろう。
少子化をめぐる政治家たちの議論を聴いていると、その「犯意」が日本政府の要路の人々にまったくないことがわかる。
それが問題なのである。(略)
彼らが少子化を「問題」だと考えるのは、行政のサイズを今のままに維持するには納税者の数が少なすぎるからである。
納税者の数が減るなら、それにあわせて行政機構をダウンサイジングするのが論理的なソリューションであるが、役人は原理的に「行政機構のダウンサイジング」という発想ができない。
「納税する国民が少なすぎる」のか「税金を使う人間が多すぎる」のかは、同一の二つの見方である。後者のような視点を役人は決して採用することができないというだけのことである。
とはいえ、私自身は(いつものことだが)この問題については、実はわりと楽観的なのである。
このまま少子化が進行して、明治末期の五〇〇〇万人くらいまで減少すれば、日本社会は今より住みよくなるだろうと思っているからである。
むろんただ漫然と少子化を拱手傍観しているのも芸がないというのなら、「人間は共同的にしか生きることができない(だから、不愉快な隣人の存在に耐えよう)」という人類学的常識をもう一度国民的規模で再確認するためのキャンペーンを展開してもいい(できれば政府主導でそうしていただきたいのであるが)。
それが成果をあげたら、結果的に「日本人がみんな大人になる」ということであるから、それなら人口が一億五〇〇〇万になろうと二億になろうと、これまた日本列島はたいへん住みよい場所になるであろう。
つまり、どちらに転んでも、日本は住みよくなるので、「少子化問題」というのは存在しない、というのが私の考えなのである。
というふうに申し上げたが、はたしてそのような暴論をメディアが掲載してよろしいのであろうか。
(二〇〇七・九・一一)」
〇 「格差社会などというものは拝金主義によってもたらされているのだから、むしろ各人それぞれの格差を基準にすることで、その呪縛から逃れられるはず」という文章を読んだ時にも感じた事ですが、内田氏は世間の「空気」から超越したところで、ものを考えようとしているんだなぁ、と思いました。
ここでも、「少子化は国策によってもたらされている」と言っています。
「個人の原子化は経済的に利点があるから推奨された」→「共同体を忌避するようになった」→「少子化」
ということですが、私は単に国がそれを推奨したから、そのキャンペーンに乗せられて、「原子化」したのではないと感じています。
それ以前のもっと深い所で問題が起こっているような気がしてなりません。人と人が信じあったり大切にしあったりする「空気」が無くなってしまっているのでは、と思うのです。
人を信じることも大切に思うことも、自発的にそうすることで(少なくとも自分ではそう思うことで)、自分をも相手をも幸せにする心の動きだと思うのですが、そこがちゃんと育たないシステムの中でずっとやってきたのが、私たち日本人なのではないか、と。
「自発的に」が望めないので、「強制的に」「空気を読んで」そうなるように仕向けられて、互いに共同体を続けて来た。でも、「強制」されることの鬱陶しさから、みんなそれを拒否するようになったから、共同体を嫌がる人が増えた。
あの「嫌われる勇気」の中で紹介されていたアドラーの言葉を引用します。
「行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
心理面の目標
①私には能力があるという意識
②人々は私の仲間であるという意識
===========================
何故、そんな目標を掲げるのか…
対人関係のゴールは「共同体感覚」
「共同体感覚とは幸福なる対人関係のあり方を考えるもっとも重要な指標なのです。」」
〇つまり、「共同体感覚」を持つことが幸福に繋がる、と言い切ってもいいのでしょう。
内田氏の言い方では、
「「人間は共同的にしか生きることができない(だから、不愉快な隣人の存在に耐えよう)」という人類学的常識をもう一度国民的規模で再確認するためのキャンペーンを展開してもいい(できれば政府主導でそうしていただきたいのであるが)。」
「人間を幸福にしないシステム」を見直すことで、「幸福にするシステム」に近づけられないものか、と思うのですが。