〇「不快という貨幣」「子供たちの学力はなぜ低下したか」「未来とは他者である」については、パスします。
「不快という貨幣」「子供たちの学力はなぜ低下したか」は以前メモした「下流志向ー学ばない子どもたち 働かない若者たち」と同じような内容だと思いました。
また、「未来とは他者である」は、読んだのですが、どうしてもよくわかりませんでした。いつかわかる時が来るかもしれない、と思いながら、頭の隅っこで、考え続けたいと思います。
「人生はミスマッチ」をメモしたいと思います。
「人生はミスマッチ
リクルートの出している「(R-T)」という冊子の取材が来て、「高校の先生に言いたいこと」を訊かれる。
中高の現場の先生には基本的に「がんばってね」というエールを送ることにしている。現場の教師の士気を低下させることで、子供たちの学力や道徳心が向上するということはありえないからである。
現場の教師のみなさんには、できるかぎり機嫌よくお仕事をしていただきたいと私は願っている。
人間は機嫌よく仕事をしているひとのそばにいると、自分も機嫌良く何かをしたくなるからである。
だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。
それは「心身がアクティブであることは、気持ちいい」ということを自分自身を素材にして子供たちに伝えることである。
「気持ちよさ」は知識や技能を持っているので「まことに便利だ」という仕方で表現しても良いし、推論や想像で思考が暴走するのは「ぞくぞくする」という仕方で表現しても良いし、身体の潜在能力が発現して「わくわく」している状態で表現しても良い。
要するに教師自身の心身がアクティヴな状態にあって、「気分がいい」ということだけが確保されれば、初等中等教育の基礎としては十分なのである。
子どもは「気分がいいこと」には敏感に反応する。(略)
教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。
教育の本義は「子供の欲望」を起動させることである。
今の子どもたちが劇的に学びの意欲を失っているのは、教育する側の大人たちが「欲望」の語義を読み間違えているからである。
現代の大人たちのほとんどは「子どもの欲望」もまた収入や威信や情報や文化資本という外形的なものでしか起動しないと思っている。
だから、「勉強すればいい学校に入れる」とか「練習すれば県大会に出られる」というような近視眼的な目標設定にすがりつく。
だが、本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に着けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである。
いわゆる「目標」なるものは、そのような本源的快楽を上積みするための「スパイス」にすぎない。
教師の仕事はだから「機嫌よく仕事をすること」に尽くされると私は思っている。
日本の教育がひどいことになっているのは、教師たちが構造的に不機嫌にされているからである。(略)
でも、そういうときだからこそ「機嫌よく笑ってみせる」ことが死活的に重要だと私は思う。
というような話をする。
さらにキャリア教育についてお訊ねを受けるので、ここでも持論を語る。
日本の高校や大学でキャリア教育が行われるようになったのはこの一〇年ほどのことである。
そこでは「自分の適性に合った仕事を探すこと」が組織的に勧奨されてきた。
そういう教育を一〇年やったら、離職・転職を重ねる”ローリング・ストーン族”、フリーター、ニート、「自分探しの旅人」ばかり増えてしまった。
私はこれをキャリア教育の不十分さの結果であるとは考えない。
これこそ一〇年のキャリア教育が「達成」した成果であると考える。(略)
だから、「自分の適性にぴったり合ったたった一つの仕事」を探して若者たちは終わりのない長い放浪の旅に出ることになる。
就職産業は、若者たちが最初のマッチングで「適職」に遭遇することよりも、いくら転職を繰り返しても「適職」に出会えないことから利益を上げるようにビジネスモデルを構築している。(略)
この思考は「自分の個性にぴったり合ったたった一人の配偶者がこの世界のどこかにいる」という信憑と同型のものである(だから、就職情報産業は必ずや結婚紹介業も副業でやっているはずである。
これも「何度見合いしてもぴったりした人に出会えない」人が多ければ多いほど利益が上るように構築されたビジネスモデルだからである)。(略)
人生はミスマッチである。
私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。
それでもけっこう幸福に生きることができる。
チェーホフの「可愛い女」はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることのできる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。
チェーホフが看破したとおり、私たちには誰でもどのような環境でもけっこう楽しく暮らせる能力が備わっているのである。
それでいいじゃないかと私は思う。
「自分のオリジナルにしてユニークな敵性」や、「その適正にジャストフィットした仕事」の探求に時間とエネルギーをすり減らす暇があったら、「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とでも楽しく暮らせる」汎用性の高い能力の開発に資源を投入する方があるかに有効であると私は思う。(略)
私が大学で仏文科に進学したのだって、教養のフランス語があmりに出来なかったので(オールCであった)、大学卒業までにせめてフランス語の基礎文法だけでも理解してたいと思ったからなのである。
もっとも適正のないところを選択したら、それが職業になってけっこう楽しくやっているのである。
私の適性は警察官僚とか政治家とか諜報活動とかにおいては間違いなく爆発的に開花したであろうが、私がそのような仕事につかず毒にも薬にもならない文学研究などにかかわって一生を終えたせいで獄窓や窮死から救われた人もきっと多いはずである。
なまじ適性に合った仕事に就いたせいで、世の人々がいっそう不幸になることだってあるのである。
人生はミスマッチ(@平川克美)。
大学三年生の諸君に贈る言葉はこれである。
(二〇〇七・一一・六)」
〇 「教育の本義は「子どもの欲望」を起動させることである。」という言葉、
本当にそうだと思いながら読みました。
そして、「教師の仕事はだから「機嫌良く仕事をすること」に尽くされる」というのも、全くそうだと思います。
もっと言えば、私たち互いが、互いに対して、そうではないかと思います。
あの「共同体感覚」が幸せの基になっているのなら、互いが互いに対して、「機嫌よく」あれば、それぞれの「欲望」は元気に起動して、良い「共同体」が出来るはずです。
「子どもの欲望を起動させる」ことで、思い出した言葉があります。
「シーラという子」から引用します。
「権力争いで私が勝つことは、彼女を活動的にさせ、クラスに参加させることに比べればそれほど大事なことではないのだから。」
この他にも、トリイ・ヘイデンさんは、シーラは実際には3年生ではないのだけれど(もっと小さい)彼女の知的好奇心をフル活動させておくためには、3年生のクラスに入れるべきだと強く主張します。
この、「欲望を起動させる」という考え方が、私たちの社会には足りないのではないかと思うのですが。
子どもだけではなく、人間が幸福であるためには自分のやりたいことをやる自発性がとても大事だと思います。強制されてやる、嫌なのにやる、これではみんな「鬱」になる。鬱になれば学力も下がる、そう考える方が、普通だと思うのですが。