読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「すみません」の現象学

〇 これも読みながら「わからない…」と思いました。パスしようかとも思ったのですが、文章を書き写すことで、ひょっとしたら何か違ってくるかもしれない、と期待して、メモしてみます。

 

「角川から出す新書「態度が悪くてすみません」の「まえがき」を書く。

「態度が悪くてすみません」というタイトルは三日前お風呂にはいっているときに思いついたのであるが、よくよく考えるとなかなかに滋味深いタイトルである。

 

 

「態度が悪くてすみません」と謝罪している私はいったい「何」について「誰」が「誰」にむかって告げている言葉なのであろうか。

「態度が悪い」というのはすでになされてしまった行為について下される評言である。

 

 

「すみません」というのは、その「すでになされてしまった行為」について、現に私が発している言葉である。

この短い文のうちには二種類の時間が含まれている。

 

 

「態度が悪かった」のはむろん私である。「過去のある時点での私」である。「すみません」と言っているのも私である。これは「現在の私」である。

「態度が悪くてすみません」というフレーズには、「過去の私」と「今の私」は、同一の私であるけれども、一方の行為を他方が非として認め、その責任を取ることを宣言している。

 

 

ここに「時間」と「他者」が生成するのである。

わかりにくいことを申し上げてすまない。

「私」というのは「変わらないものである」という考想をかつてレヴィナス老師は「同一者」と術語化された。

 

 

同一者の世界には「未知のもの」が存在しない。すべては「想定内」の出来事である。

「こんなことは織り込み済みです」という言い方は「私は無時間的に同一者である」と宣言しているに等しい。未来はあらかじめ把持され、過去は完全に理解されている。そのような人間の身には「前代未聞のこと」は何も起こらない。この言葉を好んで口にした人物の運命は周知のとおりである。

 

 

老師はこの「未知なるもの」を構造的に排除する知のありかたを「光の孤独」と名づけた。

 

 

光はこうして内部による外部の包摂を可能ならしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇蹟がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来して来るものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。大正はすでに知解された外部から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。

     (「実存から実存者へ」Emmanuel Levinas,De l'existence a l'existant,Vrin,1978,p.76)

 

 

「光の孤独」というのは、すべての出来事が「想定内」「織り込み済み」のものとして出現するような知の絶対的孤独のことである。そのように知にとっては未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しない。

 

 

だが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではない。実のところ私たちは外在的な他者なんかいなくても、けっこうやっていけるからである。ひとりでいても、まるでオッケーなのである。だからこそ、「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけである。

 

 

「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者の居ない世界」が繁昌する。「他者がいなくては困る」というのが本当なら、みんな必死になって他者との出会いを求めるに決まっている。

 

 

みなさんが「他者抜き生活」を過ごされていても、特段の不自由を感じられているようには見えないいうことは、私たちがそれなしではすまされない「本質的他者」、「絶対的他者」というのは通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味している。

 

 

私たちがそれなしではすまされない「絶対的他者」とは(驚くなかれ)「私」のことである。「私ではないんだけど、私」であるような「私」のことである。

私たちは一秒ごとに変化している。(略)

 

 

にも拘わらず、私たちは「同じ人間である」と思っている。

これについて養老孟司先生がいきなり本質的なご指摘をされている。

 

目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち「同じ自分」が戻って来る。一生のあいだに何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回は目を覚ますはずである。ところがそのつど、

「私はだれでしょう」

と思うことは、いささかもないはずである。つまりそのつど「同じ自分」が戻って来る。それなら「同じ自分」なんて面倒な評言をせず、「自分」でいいということになり、いつの間にか「自分」という概念に「同じ=変わらない」が忍び込んでしまう。

         (養老孟司「無思想の発見」ちくま新書、二〇〇五年、三九頁)

 

 

「面倒な評言をせずに」、「そのつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて同一名称で「自分」と呼んでしまう人間の「怠惰」のことをレヴィナス老師は「同一者」と呼んだ。

 

 

レヴィナス老師が私たちに求めたのは、いわば、目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。

目覚めるごとに「私は誰でしょう?」と自問を行う人は、「そう問いかけている人」と「そう問われている人」の間の「ずれ」に引き裂かれる。

 

 

 

その「引き裂かれてある」という事況そのものを「主体性」と呼びませんか、というのが老師からのご提言だったのである。

「私は私である」という自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではない。

 

 

そうではなきうて、「自分が何を考えているんだかよくわかんない」にもかかわらず、

平気で「私が思うにはさ点…」と発語を起動させてしまえるというこの「いい加減さ」である。

 

 

言い換えれば、「私にうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない<他者>が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、それでは、というのでそのような<他者>との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである

 

「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な構造体であるということを意味している。

「単体の私」というものは存在しない。私はそのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれている。

そういう形でしか私というのは成立しないのである。

 

 

私の自己同一性を基礎付けるのは、「私は私が誰であるかを熟知している(あるいは、いずれ熟知するはずである)」ということではなく、「私は自分が誰だかよくわからない(これからもきっとよくわからないままであろう」にもかかわらず、そのようなあやふやなものを「私として引き受けることができる」という原事実なのである

 

 

私の過去と未来には宏大な「未知」が拡がっている。

私たちの未来は「一寸先は闇」で少しも見通せないし、過去は一瞬ごとに記憶から消えてゆき、残った記憶も耐えず書き換えられてゆく。

そのただ中に「私は誰でしょう?」という自問を発する主体がいる。

 

 

その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、朝目覚めるごとに「私は誰でしょう?」と問いながらも、「いつまで寝てんの!朝ご飯よ!」と呼ばれると「はい」と返事して食卓につき、「あなた、ゆうべ寝言うるさかったわよ」と言われたら「すみません」と謝ることのできる「能力」なのである。

 

 

人間の人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」である。

老師が「倫理」と呼んだのは、そのことである。

それは別にとなりの山田君がガラスを割ったのに、「ぼくがやりました」と噓をつけということではない。

 

 

自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことはいくらでもある(というか、それによって私たちの人生は満たされている)。

 

 

それについて涼しく「すみません」と宣言すること。

それは過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることである。

それが倫理という言葉の意味である。

 

 

老師はそのことのたいせつさを教えられたのである。

「絶対的他者」とは、「私がその人のために / その人に代わって「すみません」と言う当の人」のことなのである。

 

「光の孤独」のうちに幽閉されている同一者はそのような意味での他者を持たない。

だから彼らは「すみません」ということばを決して口にしない。

               (二〇〇六・一・三〇) 」

 

〇やはりイマイチよくわかりません。

ただ、「「絶対的他者」とは、「私がその人のために / その人に代わって「すみません」と言う当の人」のことなのである」ということに似ている文章を以前も読んだことがある…と思いました。

 

精神の生活」から引用します。

 

「<考えないこと>と悪との間には何か関係がありそうだということは、我々の
抱えている中心問題とのからみで考えるとどういうことになるのか?

結論としては、ソクラテス的なエロス― 智慧・美・正義への愛― によってかきたてられている人だけが思考できるのであり、信頼できるのだということになる。

いいかえると、これはプラトンの言う「高貴なる本性の持ち主」であり、そのごく少数の人だけが「すすんで悪をなす」ことはないと言えるのである。」

「というのも、この自我は二者性においてのみ存在しているからである。(略)」

 

〇 そして、この「二者性」と山本七平さんが言っていた「教養」が関係あるような気がしますが…。