読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

それは私の責任です

社保庁問題がメディアを賑わせている。

これだけのミスが累積するのだから、構造的にもいろいろと難しい問題がある制度なのであろうが、それにしてもここまで問題を深刻にしたのは歴代の社保庁の役人たちのメンタリティの問題だろう。

 

 

そして、そのメンタリティは悲しいかな程度の差はあれ私たちの社会の全域に瀰漫しつつある。

それは「前任者の不始末をなんで私が尻ぬぐいしなくちゃいけないんだ」という不満に「理あり」とする態度である。

 

 

「この不祥事の責任を問う」という言葉は勇ましいし、合理的に聞こえるけれど、実際には責任の淵源を探ってゆくと、最後に発見されるのは、誰でもやるような僅かな事実誤認や見落としだけである。ほとんどすべてのシステムトラブルは誰でもするようなケアレスミスから始まる。

 

そんなものにシステムをクラッシュさせるような力はない。

システムをクラッシュさせた責任は、「起源」にはない。

このことをみなさんはお忘れであるようなので、ここに大書するのである。

 

 

 

 

システムをクラッシュさせた責任は「誰に責任があるのだ」と声を荒げる人間たちだけがいて、「それは私の責任です」という人間がひとりもいないようなシステムを構築したことにある。

 

 

行楽地で空き缶を捨てようときょろきょろしている観光客がいる。どこにも空き缶が捨ててないと、しかたなくマイカーに持ち帰る。ひとつでも空き缶があると、「やれやれ」とうれしげにそこに並べる。そういう人間「ばかり」だから、空き缶一つをトリガーにして、あっというまにゴミの山ができあがる。

私たちの社会はそういうふうに出来ている。(略)

 

 

「私が来るより前から「こんなふう」だったんです。私はトラブルの起源ではありません」という言い訳が通るとわかると、どんなひどいことでもできる。

それが私たち日本人である。

最初の空き缶をとおりがかりの誰かが拾えば、それでゴミの山の出現は阻止できたのである。だが、「なんで、オレがどこの誰だかわからないやつの捨てたこきたねえ空き缶を持ち帰らなきゃいけないんだよ!」と怒気をあらわにすることが、「合理的」であるという判断にほとんどの人が同意するが故に、「一個の空き缶」で済んだものがしばしば「ゴミの山」を結果するのである。

 

 

社保庁でも事態は同じであったろうと思う。

ミスは四〇年以上前から指摘されていたそうである。そのときの社保庁の人間は「前任者のしたミスの後始末をなんでオレがしなくちゃいけないわけ?」と思った。そして、自分のこの判断は「合理的」であり、国民の過半はこの判断に同意してくれるだろうと信じたのである。

 

 

他人の犯したミスを「私の責任でただします」というようなことを社保庁はその吏員に求めていない。社保庁だけでなく、日本的システムはどこも求めていない。

いったん事件化したあとになって「誰のミス」であるかを徹底究明することには熱心だが、事件化するより先に「私の責任」でミスを無害化する仕事にはほとんど熱意を示さない。

 

 

システムは放っておけばかならずどこかで不具合を起こす。

こお不具合がもたらす被害を限定するためには二つの方法がある。

「対症」と「予防」である。

 

 

「責任を徹底追及して、二度とこのような不祥事が起こらないようなシステムを構築します」という考え方を「対照的」という。

「二度とこのような不祥事が起こらないシステム」などというものは人間には構築できない。

不祥事を阻止できるのはシステムではなくて、その中で働く固有名をもった個人だけだからである。

 

 

 

ここにミスがあるとする。誰が犯したミスだか知らないけれど、放置しておくといずれ大きな災厄を招きかねない。だから、「私の責任において」これを今のうちに片付けておこう。

そう考えるのが「予防」的な発想である。

「予防」はマニュアル化できない。

というのはマニュアルというのは責任範囲・労働内容を明文化することであるからであるが、ミスはある人の「責任範囲」と別の人の「責任範囲」の中間に広がるあの広大な「グレーゾーン」において発生するものだからである。

 

 

 

誰もそのミスを看過したことの責任を問われないようなミス。グレーゾーンにはそのようなミスが構造的に誕生する。

「それは私の仕事じゃない」

これがわずかなミスを巨大なシステム・クラッシュに育て上げる「マジックワード」である。(略)

 

 

だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然にふせぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。私たちの社会システムはそんなふうにしてしだいに危険水域に近づいている。

 

 

「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。

前途遼遠だが、それしか方法はない

 

               (二〇〇七・六・八)       」