読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「おむつ研究」は「コミュニケーション研究」である

「身体知」の共著者三砂ちづる先生と、プチ打ち上げ。(略)

 

三砂先生は研究の外部資金が入ったので、今年は「おむつの研究」で国内外を回られるそうである。

日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている。

母と子が(ねんねこ状のもので)ぴったり密着している文化では、子どもがところきらわずじゃあじゃあ排便すると母親だって困る。

 

 

そのせいで、子どもの排便予兆の微妙な身体的シグナルに対して、母親は敏感になる。

だいたい子どもがおしっこするのは「おっぱいをのんだあと」とか「眠りから覚める直前」とかある程度生理的な規則性がある。その「気配」を母親が察知できれば、「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいいのである。

それならおむつは要らない。

現に生後二週間でおむつを取ってしまう社会もあるんだそうである。(略)

 

 

母親にシグナルが読めればおむつは要らない。

ということを科学的に論証しようとする研究だそうである。

面白そうである。

ところが、この研究に対してすでに微妙な圧力がかかっているそうである。

 

 

「おむつは要らない」ということを論証する研究なのであるから、当然「紙おむつメーカー」にとっては死活問題である。(略)

 

紙おむつメーカーが慌てるのはよくわかる。

もうひとつの圧力原は、ご想像のとおり、フェミニストからである。

「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC「Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛り付けられるべきではない」からである。

 

「母親と子どもとの間には身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権性のイデオロギーなのである(とほ)。

 

だが、よく考えてほしい。

「おむつが要らない」ためには子どもの発信する微妙なシグナルに対する育児する側の感受性が必要である。

このようなシグナルが適切に受信されることは、子どもにとって単に生理的な不快(おしりがぐじょぐじょする)が最小限で済むという以上に重要なことだ。

 

 

それは「私の発信したシグナルがたしかに聴き届けられた」というコミュニケーションに対する信頼が醸成されることだからである。(略)

 

 

いま「私の発信するシグナルは…」と書いたけれど、もちろん鏡像段階以前の幼児に「私」などというものはない。「私」はコミュニケーションが成就した後に、「受信者」が「送信元」として認定したもの」というし方で事後的に獲得されるからである。

つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。

 

 

これがそれから後の子どもの人生にどれほどゆるぎない基礎を与えることになるであろう。どれほどの「余裕」と、「お気軽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになるであろうか。

そんなものよりも、まずもっと確実で、実利のあるものが優先すると言うフェミニストたちの意図が私にはよく理解できない。

 

 

コミュニケーションに対する深い信頼をもっている子どもをひとり育てることは、母親がいくばくかの権力や財貨や情報や名声や文化資本を多少早めに得ることよりもずっとずっと大切な事ではないのか。

 

 

「それはあなたが男で、「そういうもの」を全部あらかじめ占有しているから言うことができるのだ」とフェミニストたちはいつも言う。

何度も言うけれど、それは違う。

男の中にも「そういうもの」をまるで持っていない人間はいくらもいるからだ。どうして、そういう男たちは「男であるだけで享受できるはずの特権」から疎外されているのか、フェミニスト諸君は考えたことがあるだろうか。

 

 

それは、彼らには、どんなときもいつもそばで支えてくれる配偶者や家族や友人がおらず、引き立てる師匠や先輩がおらず、声援を送ってくれる弟子や期待をかけるファンもなく、情報を提供してくれる協力者も、能力を発現する機会を探し出してくれるサポーターも、どれも持たなかったからだ。

 

どうしてそういうネットワークを形成できなかったかと言えば、それは彼らがコミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いているせいである。

 

人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。

コミュニケーションへの深い信頼を持つことのできないものは、それが男であれ、女であれ、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。

 

 

もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」子どもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。

 

 

自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。

三砂先生の「おむつ研究」の成果がどんなかたちで結実するか愉しみである。

                        (二〇〇六・七・二三)   」

 

〇私の子育ての頃は、確か2歳前にはおむつが取れていたと思います。

おしっこしたら教えてね、というと、「チイ」と教えてくれるようになり、

少しずつする前に教えてくれるようになる。そうなると、もう、子どもの

おしっこ最優先で、動くようになる。「チイ」と言われたら、何はさておき、飛んで

行って、トイレに座らせなければならなくなる。

その緊張感は、一歩間違うと、神経過敏なピリピリした空気を生み出す。

私は、そのピリピリした空気がかえって母子関係を良くないものにするので、

敢えて、二歳前におむつがとれなくても気にすることはない、と言っているのだと思っ

ていました。そして、実際排便ってそう単純ではないと思います。

次男はおしっこやうんちの間がしっかりあいていたので、わりとスムーズにおむつが取

れました。

でも、長男はちょっとしたことで、ピリピリする子で、失敗することも多く、失敗する

と、親もピリピリし、それでまた子どももピリピリし…と悪循環にもなります。

そんなに簡単に「おむつが要らない子育て」なんて、出来るだろうか…と思いました。

 

ただ、どんどん失敗しても全然気にしない、おおらかな子育てが出来る

人なら、その「コミュニケーション」の中で子も親も育つので、理想的だろうなぁ、

とは思います。本当はそんな子育てができる「空気」があればいいなぁと思います。