読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

親密圏について

金井淑子さんから「岩波 新・哲学講義 共に生きる」の執筆個所のコピーが送られてきたので読む。

金井さんは今度岩波書店から出す「応用倫理学講義」の「性/愛」の巻の編集責任者で、私はその巻に「セックスワーク」について書くことになっている。

 

その金井さんの論文はなかなか刺激的な考想に富んでいて、私は立ったりすわったり腕を組んだり嘆息をしたりしつつ興味深く読んだ。

そのなかの一つの論点について、私なりに考えてみたいと思う。(略)

 

金井さんの共生論は「新たな親密圏」をキーワードの一つとしている。

近代家族解体論はフェミニズムの基幹的主張だが、この解体論には「強者の思想」あるいは「would be強者の思想」という側面がある。

 

経済的・精神的自立をめざすことを無条件に価値とする場合、自立能力の無い家族メンバー(幼児、老人、障害者、病人)などは近代家族の解体過程で無保護・無権利状態に追いやられることになる。

 

 

もちろん「そういう弱者の面倒は行政がみるべきだ」という考え方もできるだろう。

だが、行政はベッドや食事は提供できても、ひとりひとりを抱きしめ、ひとりひとりに自尊感情や承認感覚を扶植することはできない。

このような弱者への配慮のためには、抑圧的な近代家庭に代わる保護と癒しの場がなくてはすまされない。

 

 

たしかに近代家族は多くの点で抑圧と虐待の温床となっており、おそらく現時点では「家族によって傷つけられる」ことのマイナスの方が、「家族と共にあることによって癒される」ことのプラスを凌駕しているというのも悲しいかな事実である。

 

 

しかし、家族の中で深い傷を負い、自尊感情をはぐくむ機会を失ったものは、家族から離脱して浮遊するだけでは少しも救われない。

金井さんはこう書く。

 

 

自尊感情を解体されたまま不安や嗜癖問題を抱えていることも少なくない彼らにとってこそ必要なのは、彼らの自尊感情を育む場であり、また自己回復のためのさまざまな物語であろう。さまざまな事情で家族と距離をとったり家庭を捨てざるをえなかった者たちの新しい居場所、自己解放の場、疑似家族空閑ともいうべき場と関係性が、社会の中でさまざまなレベルでいま問われているというべきなのだ。

       川本隆史編「岩波 新・哲学講義6 共に生きる」、一九九八年、七七頁)

 

 

(略)

私はこの理路には異論がない。

私は骨の髄までビジネスマインデッドな人間なので、どのような社会制度についても、「この壊死度は、いかなる人類学的起源を有するものか、これまでどのような歴史的使命を果たしてきたのか、現状では、どのような点で制度疲労や機能不全を起こしているか、どの辺を補正すれば使い延ばせるか、どのあたりのタイミングで修理を断念して「新品」に乗り換えるか」というふうな機能主義的な問いの立て方をする。

 

 

私がフェミニズムの議論で不満なのは、フェミニストが家族制度の「人類学的起源」「歴史的使命」にあまり興味を示さないということと、「補正と買い替えの損益分岐点」という計量的な問題を無視しがちなことである。(略)

 

 

金井さんは「革命主義的フェミニスト」ではなく、制度の劇的なシフトによって一挙に公正で平等な社会を実現することを望む綱領的立場には懐疑的なまなざしを送っているように見受けられる。

 

金井さんが「とりこぼし」を恐れているのは、勇ましい家族解体論が見落としがちな、「家庭内弱者の救済」、「女性の身体性」、「子どもを育てる場における性的差異の意味」といった問題である。

 

金井さんはそのような言い方を慎重に避けているけれど、端的に言えばレヴィナスのいうところの「女性的なもの」、柔和さ、ぬくもり、癒し、受け容れ、寛容、慈愛、ふれあい、はじらい、慎み深さ……といった「贈与的ふるまい」の重要性からおそらく目をそらすことが出来ないのである。

 

 

 

それがどれほど近代家族イデオロギーの中で手垢のついてしまった概念であったとしても、やはり親しみの場は、そのような「女性的ふるまい」抜きには成り立ち得ないだろう。

 

このような考想を社会構築主義者たちは「女性性を実体化する本質主義」としてばっさり切り捨てるだろう。だが、私は自分自身が「近代家族」を、一度は子どもとして、一度は親として、営んだ経験から、また「武道の師弟関係」という疑似家族的な親密圏で、学界の競争的人間関係の中で負った心理的な傷を癒された経験から、「女性的なもの」は親しみの場の立ち上げのためには、なくてはすまされないということを確信している。(略)

 

 

「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」である。見返りを求めない贈物のことである。

私は金井さんのいう「親密圏」はこの「無償の贈与」の原理に基礎付けられるものだろうと思う。(略)

 

 

しかし、この「無償の贈与」という考想はいまのフェミニズムからずいぶん遠いものであるように私には思われる。

というのは、「私は無償で贈与する」という主体的な言明は倫理性と親密性を基礎付けるけれども、「あなたは無償で贈与すべきだ」という言明はいかなる倫理性も親密性も基礎付けることができないからである。

 

 

「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言明ほど非倫理的なものはない。

近代家族制度が日倫理的であるのは、「女性的なもの」(許すこと、受け容れること、譲ること、与えること、引き下がることをその本旨とするような存在性格)をある社会的立場の個人に「自然に内在するもの」とみなしたり、「制度的に要求しうるもの」とみなしたことに理由がある。

 

 

「女性的なもの」は中立的な概念ではないし、他人に求めるものでもない。それは経験的性差にかかわりなく、「私」が他者に先んじて引き受けるものである。

そのような根本的な自他の非対称性を前提とした倫理性の原理は、「際の解消」や「完全な平等の実現」の原理とはなじまない。

 

 

どちらがいい悪いといういおとではなく、「すれ違う」しかないということである。

私が金井さんの紹介する性差別と障害者差別、弱者差別についてのフェミニズムの諸理説を一瞥して感じたのは、すべての思想運動が「非収奪感」に基礎付けられているということである。

 

「ほんらい私に帰属すべき社会的リソースが私から制度的に収奪されており、誰かが不当に受益している」という「被収奪感」がすべての「マイノリティ」の権利要求の基本感情をなしている。

 

 

もちろん、社会的公正の実現、正義の成就は人間が人間的であるために必須のものである。

しかし、それは原理的に「喧嘩腰」で語られる他ない種類の言説である。

だから、「正義の実現」が「非収奪感を感じている私」を基体とする限り、いかなる社会理論も、この世界に「親密圏」を立ち上げることは出来ないだろうと私は思う。

 

 

慰めも癒しも「喧嘩腰の言説」によっては基礎付けることができないからである。

金井さんの議論がどこか苦しいのは「正義の実現」と「親密圏の立ち上げ」を同時に遂行できるような理論的実践的水準を探り当てようと悪戦しているからであるように私には思われる。

 

悲しい話だが、正義の実現と無償の贈与は両立しない。

正義は「奪われたものを奪い返す」ことを求める。

だが、無償での贈与は正義に悖る。正義は「赦すこと」を許さないからだ。

 

 

人間の人間性は、おそらくこの「社会的リソースの公平な配分」と「非相称的な贈与」に引き裂かれているという、根源的な矛盾のうちに存する。

収奪は収奪、贈与は贈与である。この二つは論理的に同一次元には存在することができない。

それを両立させるのは、矛盾を矛盾として生き、引き裂かれてあることを存在の常態とするような人間の成熟だけであると私は思う。

 

 

武道の稽古をしていると、不思議なことがいろいろわかってくる。

術において相手の「虚を衝く」とういことが出来るのは、相手と私の間に「親密性の場」が成立する場合だけだ、というのもその一つである。

私と他者が敵対的な個体にとどまっているかぎり、「術」はかからない。

私たちが稽古している「抜き」や「浮かし」や「気の感応」といった術理は、まさしく自他の「親密圏」の創出のためのものである。(略)

 

 

武道はこの擬制された自他の親密性を利用して、相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったときだけである。

相手が私の身体の一部になったとき、つまり私の手足のような、私自身の分かち難い、親しみ深い一部になったときにのみ、活殺自在の術は遣うことができる。

 

 

家族やエロスの場が親密圏であると同時に壮絶な相剋と権力性の場ともなるのは、おそらくこの背理が人間の宿命だからではないか。

ならば、この背理の理論的「解決」をではなく、その背理をどうやって「生き延びるか」という実戦的マナーを吟味することの方が私たちにとってのより緊急な思想的課題ではないのか。

私はそんなふうに考えるのである。

          (二〇〇三・九・二四)」

 

 

〇「親密圏」が必要だと、私も強く思います。だからこの文章を、とても興味深く読みました。

ただ、私は「学問」的にはゼロの人なので、ここで使われている言葉をきちんと

受け容れることが出来ません。

 

レヴィナスのいう「女性的なもの」」=「許すこと、受け容れること、譲ること、与えること、引き下がることをその本旨とするような存在性格」という文章に引っかかってしまいます。

 

このように言われると、まるで女性は「許し、受け容れ、譲り、与え、引き下がる」者だ、と言われているようで、違和感を感じます。

 

昔、よくきいた、「男のくせに 泣くんじゃない!」とか、「女のくせにその言葉遣いは何だ!」という言葉を聞いた時に感じる嫌悪感と同じものを感じてしまいます。

 

何故、「許し、受け容れ、譲り、与え、引き下がる」のを、女性的なものというのか。

もっと違う言葉で言えるはずではないのか、と。

 

 

それと、もう一つ引っかかったのが、

「社会的公正の実現、正義の成就は人間が人間であるために必須のものであるが、それは原理的に「喧嘩腰」で語られる他ない種類の言説だ」

というところです。

 

実態がそうだということについては、その通りだと思います。というのも、公正や正義を理解しない大勢の人を相手に、それを主張する時、「喧嘩腰」になってしまいます。

 

でも、本来、公正や正義はその言葉を認める人であれば誰もが受け入れる「道理」があるものではないかと思うのです。公正も正義もこの世にはない、必要ない、と思っている人も確かにいます。

 

でも、「その言葉はある」「そのようなものはある」と思っている人を相手にする時、

そこに「喧嘩腰」は必要ないのでは?と思います。

 

そして、もし「公正も正義もない」と思う人を相手にするのなら、「親密圏」も作れるはずがないと思います。

 

つまり、何が言いたいかと言うと、親密圏に必要なのは、「信頼」とか「優しさ」とかいうものが、この世界にはあると信じることが根っこになければならないのでは?ということです。

 

もちろん枠組みを作り、その中で「親密」を醸成して行きたいと願うのは理解できますが、一方に公正や正義と喧嘩腰になっている世界がある時、心から「信頼」という言葉を生きることが出来るでしょうか。

 

公正も正義もない世界で、人は信頼し合えるでしょうか。

 

先日の朝ドラで戦友の子どもを引き取って育てることにした父親が言った言葉が、

とても、心に響きました。

「死んでいたのが自分だったかもしれない。今、浮浪児になっていたのが、自分の娘だったかもしれない。そう思うと、この戦友の娘が世間から冷たくされるのが許せなかった。」

 

人は誰もが「被収奪感」を抱き得る。自分が持つ感情は、彼も彼女も持つ。その感覚があるところに、やっと公正や正義があり、公正や正義がある世界にやっと親密圏が出来るのではないかと、私は思います。

 

「正義の実現と無償の贈与は両立しない。」

とあります。

 

でも、今挙げた例で言えば、戦友の娘を引き取った父親の心の中では、

死んでしまった戦友の運命は自分であったかもしれない。→その時、浮浪児になったのは、自分の娘であったかもしれない。→であれば、この浮浪児をしっかり育てるのは、公正なことであり、正義だ、となっていたのでは?

 

だからこそ。無償の贈与が可能になったのでは?

 

無償の贈与は女性的なもので、女性ならそうするものだ…という道筋から

無償の贈与をする人があるとは思えないのですが。

自分の運命はたまたま今、順調だが、これは、たまたまであって、

ちょっとしたことで、彼や彼女のような運命であったかもしれない…

という想像力があって、初めて、無償の贈与や、許すことや受け入れることや譲ること

や与えること、引き下がること、が生まれるのだと思うのですが。

 

しつこいようですが、またあの「夜回り先生の言葉」を引用します。

 

「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。

そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」