「(略)
CSってごぞんじですか?
customer Satisfaction。「消費者の満足」のことである。
これをCS本は「顧客第一主義」とか「顧客中心主義」というふうに訳している。
それは違うだろうという話から始める。
教育の現場でもコンサルの諸君は「大学教職員もCSマインドを持て」というようなことを言い募っている。
これからはお客様である志願者や保護者のニーズを第一に配慮して……。
でもさ、そういうことを言っている当のコンサル諸君は、キミたちの「お客様」であるところの大学人を「第一に配慮」なんかしてないじゃないか。
「食い物」にしているだけでしょ。
自分がやる気もないことを他人に要求するというのはよくない。
「顧客のニーズ」がもし定量的・定性的に把握できるものであって、それにどんぴじゃでジャストフィットするサービスなり商品なりを提供出来たら、それで一〇〇%ハッピーで生産的な取引が成立するというふうにもし考えているひとがいたら、それはビジネスマンとしては幼稚園児レベルである。
「顧客のニーズ」なんか、あらかじめ存在するものではないからだ。
さきほど新聞を読んでいたら、コムスンがらみの記事に「介護を必要とする人間のニーズに対してどうして介護現場で細やかな配慮ができないのか」ということが書いてあった。
だが、この場合の「介護ニーズ」も「介護現場」も「あらかじめ存在するもの」ではない。
介護保険という制度ができて、それから利益を得る介護ビジネスというものができ、介護テクノロジーが開発され、介護技術というものが体系化されてはじめて「介護ニーズ」や「介護現場」が登場したのである。
ニーズは「ニーズを満たす制度」が出現した後に、事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する。
どれほど本人にとってリアルであっても、それを指し示す言語記号や、それを満たす社会的装置が存在しないような欠如は「欠如」としては認知されない。
ニーズはそれを満たす商品やサービスを提供するサプライヤーの側が創り出すものである。」
〇ここを読みながら思い浮かべていたのは、親に虐待されている子どものことです。
最近になってやっと虐待されている子どもは保護されるべきだという「社会的装置」が出来て、やっと「欠如」が認知された。
でも、父親によって性的虐待を受けていた女性は、18歳までは、虐待であると認知されるとしても、19歳になると、虐待ではなくなる。19歳で発覚した時、性的虐待をしていた父親は無罪になる。先日このニュースを聞いて、私たちの国の司法を掌る人々は、マニュアルでお客に対応するコンビニの店員さんのようだと感じました。根源的なものが抜け落ちているのでは?と。
性的虐待を受け、救いを求める女性の「ニーズ」は未だその欠如が認知されない。
「大学院では「子どもたちの学びへの動機づけ」が主題であった。
「学ぶことへのニーズ」である。
もちろん、そんなものは自然現象として子供たちの中には存在しない。
多少は存在するかもしれないけれど、「生ぬことへの欲求」というようなクリアカットな輪郭を持っていない。「食べることへの欲求」や「遊ぶことへの欲求」とごちゃまぜになってうごめいているだけである。
この欲求だけを選択的に分離し、記号化し、そのような「ニーズ」が子供たちの中に存在することに気付かせるのはサプライヤーの仕事である。
だが、どうやって気付かせるのか。
それは「先生はえらい」以来何度も繰り返し書いているとおり、教師自身の内側で「学ぶことに対する欲求」がいきいきと活動していることである。
子どもたちはまだ記号を発明する力がない。(やがて身に着けるけれど)。子供はすでに熟練した日本語話者である母親からの語りかけを通じてはじめて母語を習得する。
同じように、「学ぶことに対する欲求」は「学ぶことへの欲求」を現に生きている教師からしか学ぶことができない。
もし、子どもたちに学びを動機づけたいと望むのなら、教師自身が学ぶことへの動機を活性的な状態に維持していなければならない。
教師自身がつねにいきいきと好奇心にあふれ、さまざまな謎に惹きつけられ、絶えず仮設の提示と反証事例によるその書き換えに熱中していること。
それが教育を成立させるための条件である。(略)
現に、一切の教育的情熱を失いながら、毎日上機嫌で仕事をさぼっている教師というものをあなたは見たことがないはずである。
少なくとも私はない。(略)
暗い表情、生気を失った肌、乱れた頭髪、なげやりな服装、重い足取り、虚無的な言葉 …そのすべてが「学びへの動機づけを失うことがどれほど人間にとって悲痛なことであるか」を全身で表現している。
彼らは彼らなりの仕方で、子どもたちの「学ぶことへの欲求」を失うと人間はどうなってしまうのかを教えているのである。(略)
「私のような人間から学ぶものは何もないよ」という言明は、「どうしてこの人はこれほどの確信をもってこれほど絶望的な自己卑下の宣告をなしうるのだろう?」という深甚な疑問のうちに子どもたちを引きずり込む。
そのときすでに子どもたちのうちでは「学びへの欲求」が活発に動き始めているのである。
先生は「先生であろう」とするときにすでに先生であり、「私はもう先生ではない」と宣言したあともまだ先生である。
「学ぶ」とはどういうことか、「教える」とはどういうことか、自分は果たして今も学んでいるのか、自分にはひとに教える資格があるのか……そういった一連の問いが念頭から離れることのない人間は、それだけですでに教師の条件を満たしている。
「学びへのニーズ」などというものは自存しない。
「学びへのニーズ」とは何か、それはどのようにして生まれ、死ぬのか、ということを専一的に考え抜く「先生」が登場した後にそれは生まれるのである。
だから、もしその語の厳密な意味でのCSというものがあるとすれば、それは「私第一義」「私中心主義」の効果としてしか存在しない。
というようなことを銀行員たちの前でお話しする。(略)
いったい支店長はどのようなメッセージを伝えるための媒介としてこの男を招いたのか……あああ、とわからないよ~いう声にならない悲鳴がラボルテホールに充満するのを後に、私は脱兎のごとく家に逃げ帰ったのである。
(二〇〇七・六・二一)」