読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

変革が好きな人たち

関西電力の「Insight」の取材がある。お題は「変革」。

オバマさんもChangeを掲げて、ヒラリーさんと激しいバトルを演じているので、時宜にかなったご選題である。

しかし。

私は実は「変革には反対」なのである。

 

 

 

とりあえず、現代日本で「根底的な変革を」という言い方をしているひとに対しては不信感をぬぐえないのである。

「根底的な変革」をすることが喫緊の課題であるためには、制度が「根底迄腐っている」ということが前提にある。(略)

 

 

システムのどの箇所が、どの程度の損害を蒙っており、それは今後どのようなかたちで他に波及するおそれがあり、とりあえずどのような補修を必要としているのか。

これはきわめてテクニカルで計量的な仕事である。悲壮な表情で、悲憤慷慨しつつやる仕事ではない。(略)

 

 

例えば、私たちの国のさきの総理大臣は「戦後レジームからの脱却」ということを優先的な政治課題に掲げた。

私はこの課題を聴いて「変なの」と思った。

 

 

というのはこの人は他ならぬその「戦後レジーム」の中で政治的キャリアを積み上げて、晴れて最大政党の総裁になり、総理大臣になった人だからである。彼を国政のトップに押し上げた「レジーム」がもしきわめて不調であり、早急に棄却すべきものであるのだとしたら、それは論理的には「このレジームの中で選ばれた総理大臣はなるべきではない人が間違って選ばれた可能性が高い」ということを意味するからである(実際にそうだったんだけど)。(略)

 

 

もし彼が自分はそのポストに適任であるという自己評価を下していたのであるなら(たぶん主観的にはそうだったと思うのだが)その場合には当然「私を総理大臣に選んだという事実から推して、日本社会のシステムはとりあえず人材登用に関してはきわめて適切に機能している」と宣言すべきだった。

 

 

しかし、彼はその反対のことを言った。

美しい国へ」というのは、「私を総理大臣にするような国は「醜い国」であるから、これを美しい国に作り替えねばならない」ということを意味している。

 

 

かつてグルーチョ・マルクスは「私を入会させるようなクラブに私は入会したくない」と言ったが、安倍晋三の言葉にはそのような諧謔性はない。

彼には自分がナンセンスなことを言っているという自覚がなかったからである。(略)

 

 

どこが機能していてどこが機能していないかというのはかなりの程度までは定量的な問題であり、これについては意見の違う者同士のあいだでもネゴシエーションが成立する。いずれにせよ「あまりちゃんと機能していない部分」を点検して、必要な補修をしましょう、というふうに話は進むに決まっているからである。

 

 

けれども、そのようなピースミール工学的な言葉づかいで社会システムを語る習慣を私たちはもう失って久しい。

人々はややもすると「根底的変革」を求め、「小手先の手直し」では「もうどうにもならないところまで来ている」という重々しい宣言を軽々しく口にする。

 

 

 

使えるものは使い延ばし、消耗部品に交換程度で直せるところをアッセンブリーごと新品に変えるのは控えるというのが常識的なふるまいだろうと思うのだが、そういう言葉遣いによる提案はまるで不評である。まずメディアでは相手にされない。

 

 

しかし、「小手先の手直し」で補修できるところを「根底的変革」することはコスト・パフォーマンス的に無意味である死、「順調に機能しているところ」についてはそもそも変革さえ必要ではない。だとしたら、「どこがどのくらい壊れているのか?」ということが喫緊の問いになるはずである。

 

 

現に、「体制の根底的改革」を呼号するみなさんだって、自分の家の自動車が故障した時に、修理工場で、ろくに故障個所を見もしないで「あ、大丈夫ですよ。ぜんぜん平気です」と言われても「これはもう廃車だけ。新車買いなさいよ」と言われても、いずれにしてもむっとするだろう。どこがどう悪くて、どこの部品を換えればどうなるのか、ちゃんと見てくれと当然の主張をなさるであろう。(略)

 

 

当事者意識があったら、そうする。

そうしないのは当事者意識がないからである。

年金制度にしてもたしか少し前に当時の厚老相は「一〇〇年安心な制度です」と広言した。年金制度のボロが出た時に、当時の総理大臣は「1年ですべてのデータを精査し、最後の1円まで払います」と豪語した。

言っている当人はそれが真実ではないことを知っていて、そう言っていたのである。(略)

 

 

 

制度にガタが来ているときに「制度は一〇〇%健全である」と誇大な物言いをし、制度がいかれてくると「全部リセットします」とまた誇大な物言いをする。

どうしてそのつど「そこそこ機能しているけれど、そこそこ機能していません」という正直な申告をしないのか。

 

 

船が座礁したときにまっさきにするのは被害評価である。

どこに穴が空いて、どれくらい浸水していて、あと何時間もつのか。

そういうときに「この船はまるっと無事です」などと噓を言ってもしかたがない。そんなこと言っているうちにみんな溺死してしまう。

 

 

「この船はもうダメですので、これは廃棄して、新しい船に乗り換えましょう」などと言ってもしかたがない。電話したら新しい船を配達してくれるというような状況じゃないんだから。

 

 

今ある機能不全の船をなんとか補修して、もう少しだけでも航行してもらうしかない。

船の場合も社会システムの場合も同じだろうと私は思う。

けれども、そういうアプローチで社会システムの不調を語る人はきわめて少ない。

誰もが「根底的な変革を」と呼号する。

でも、何が壊れているのか、何がまだ使えるのかを点検しないで、いったいどういう変革と再生のグランドデザインを描くのか?

 

「なんとかしろ」と怒鳴っていると、「誰か」が私たちの代わりに「世の中をよくするプログラム」をさらさらと書いてくれると思っているのだろうか?

そんな「誰か」はどこにもいない。

社会成員の全員が、自分でコントロールし、自分でデザインできる範囲の社会システムの断片を持ち寄って、それをとりあえず「ちゃんと機能している」状態に保持すること。

 

 

私たちが社会をよくするためにできるのは「それだけ」である。

「社会を一気によくしようとする」試みは必ず失敗する。

それは歴史が教えている。

 

 

「社会を一気によくする」ためにはグランドデザインを考えて、それを中枢的に統御する少数(「いいから黙ってオレの言う通りにしろ」)と、何も考えないで上意下達組織の中で「へいへい」と言われたことだけをやる圧倒的多数に社会を編制し直すしかない。

 

 

少数の主人と多数の従順な奴隷たちに社会を二極化して、反抗する人間を片っ端から粛清できるシステムでなければ、「社会を一気によくする」ことはできない。

社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の2つしか方法がない。

 

 

私はあらゆる「一気に社会をよくする」プランの倫理性についても、そのようなプランを軽々に口にする人の知的能力に対しても懐疑的である。

とりあえずメディアは「ただちに変革を」というような定型的な言い方をこそひとつ「ただちに変革」されてはいかがであろうかとご提案するのである。

                    (二〇〇八・一・九)

 

〇 あの3.11の原発事故の後、一方には「ただちに原発をゼロに!」「と叫ぶ人々が居て、他方には、「もっと実際的に考えた方がいい」と言う人がいた。本気で原発をゼロにするためには、具体的にどう動くのがゼロにすることに繋がるかを考える必要があると私も思った。

でも、「直ちにゼロ」と言わない人は、本気で考えていないかのように責められ、結局、反対派内部の亀裂になった。

 

「本気で原発をゼロに」と思う人は、「一気に」という人も「ぼちぼち」という人も力を合わせられるはずだったと思う。

でも、そこに、「口先だけで原発反対派を騙そうとする」「ぼちぼち」の人が入って来るので、議論が成立しなくなる。

 

言葉はなんの力も持たなくなる。言葉の裏を読み、行動の裏を読み、力を合わせようという呼びかけを冷笑するようになる。

 

議論が成立しないので、また、「騙したり」「丸め込んだり」「力づく」以外に人を動かすことが出来なくなる。

議論が成立しない社会。道理が通らない社会。

そんな社会に絶望し、「寄らば大樹の陰」とか「長いものには巻かれろ」という

処世術を持つようになったんだろうなぁと思う。

 

せめて、長いものに巻かれず、大樹に寄らず、頑張っている人、例えば山本太郎さんのような人を応援したいと思います。

 

ここの内容とは少しズレますが、そんなことを思いながら読みました。