読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

奉祝! 五五年体制復活

安倍内閣の総辞職と福田内閣の成立について、毎日新聞東京新聞から取材を受ける。(略)

新聞をぱらぱら読んでいるだけで、テレビのニュースだってほとんど見ない。政治学を学んだこともないし、インサイダー情報も知らないし、政治家の知り合いもいない。

あるいは私が政治評論家ではないから取材がくるのかもしれない。

 

 

 

政治評論家というのはぜんぜん実感を伴わない政治的用語(「国際貢献」とか「構造改革」とか)をまるで「人参」とか「仏和辞典」のような実在物のように語ることができる人のことである。

私にはそれができない。

 

 

 

国際貢献」というものをひもで縛って、包装紙にくるんで、「はいよ」と見せてくれたら、私もその実在を信じるだろうが、そうでなければ信じない。

もちろん「幻想としての国際貢献」や「幻想としての構造改革」が存在することはこれを疑わない。

幻想には固有のリアリティがあり、それで人が死に、都市が焼かれ、文明が滅びることがある。

けれども、それはあくまで幻想であって、実在ではない。

 

 

ある政治的概念が幻想であるということは、同一の状況与件から「それとはぜんぜん違う政治的オプション」を導くことが可能である、ということである。

だって幻想なんだから。

幻想は「風船」と同じで、わずかな入力差でがらりと動きが変わる。それが幻想の危ういところであり、便利なところでもある。

 

 

 

「ひもで縛って、紙にくるんで、「はいよ」と見せられないもの」はあらかた幻想であり、それを扱うときはふつうの「もの」を扱う時とは扱いを変えなければいけない。

ということを非常に切実に感じているという点で、私は政治評論家のみなさんと気質を異にしている。(略)

 

 

 

福田首相が最初に「謝罪」した「政治的空白」は「その謝罪を「謝罪」として受け止める受信者が(民主党の一部議員以外に)ほとんどいない言葉」であった。

別にそれが悪いと申し上げているのではない。けっこうなことじゃないかと思っているのである。

 

 

幼児的で脆弱なメンタリティの首相が一年間迷走している間も、政権を放り出して病院に「ひきこもり」してしまった後も、日本社会はその安定性を少しも損なわれなかった。私はむしろこの「政治的空白」がほとんど社会に不利益をもたらさなかったことに日本社会の成熟と安定を見るのである。

 

 

無能な政治家と腐敗した官僚がこれほど跋扈していながら、国境線は確保され、通貨は停止、法秩序は維持され、環境も保全されている。これは誰が何と言おうと、社会システムがきちんと機能しているということである。

 

 

社保庁の乱脈ぶりが伝えられた時、「これほど腐敗した官僚たちに食い物にされながら、それでもまだ年金支給の原資が残っていた」ことに私は感動した。社保庁にだって、まじめに働いていた人がそれだけいたということである。

 

 

どのような組織にもろくに働きのない人間、いるだけで赤字が増える人間が二〇%くらいいる。だいたい給料分働いている人間が六〇%。利益を出しているのは残る二〇%だけである。

でも、それで十分なのだ。一〇〇%が必死に働く必要なんかない。

社会システムというのは五人に一人くらい「働き者」がいれば十分回るように設計されているのである。それ以上の「働き者」を必要とするシステムは設計の仕方が間違っているのである。

 

 

日本社会は相対的な成熟期・安定期に入ったと私は見ている。

福田康夫麻生太郎の間に政策的な違いはほとんどなかった。政治技法として「正面突破」か「裏技・寝技」かの違いがあっただけである。

 

 

 

それどころか、自民党民主党の間にも政策的な違いはほとんどない。だって、自民党差異は四代続いての清和会で、民主党はおおかたが元・経政会なんだから。二大政党の政策差が、かつての自民党の二派閥間の政策差にまで縮小したのである。

 

 

それだけ政策の選択肢の幅が狭くなったということである。

政策の選択肢の幅が狭いというのは、悪いことではない。

それは社会が成熟して、大きな変化を受け付けなくなったということであり、言い変えれば「誰がリーダーになってもあまり変わらない」ようになったということである。

私はむしろ「安倍晋三程度の人間でも首相が務まった」という点に日本の政治構造の成熟の深みを見るのである。

 

 

これからの日本はだれが首相になっても大過なく職務を全うすることができるようなシステムになってゆくであろう。政策的選択肢がほとんどなく、同一政策をどれくらいの進度で実現するかの時間さがあるだけなんだから。(略)

 

 

つまり、いまこの時期というのは「何もしないで、ぼおっと様子見する」ことが日本の為政者にとってベストの政治的選択なのである。

福田康夫は「背水の陣」といったけれど、別に「後がないので、正面突破するしかない」という攻撃的な布陣をする気はない。これは単に「後がないので、後に下がるというオプションはありません」という「選択肢が限定されているせいで身動きならない日本」の状態を比喩的に形容したものと思われる。

それでいいんじゃないの、と私は思う。(略)

 

 

 

「希望の持てる国に」というのも、なんだか前向きの政策に聞こえるが、「希望が持てる」のは希望のすべてが実現していない場合だけである。人々が希望を持てる国というのは、「ちょっとずつは善くなるが、大きく善くなることがない国」ということである。

 

 

「9条どうでしょう」で書いたように、日本は五五年体制において、日米間の外交的矛盾をすべて「保守対革新」のドメスティックな矛盾に流し込んで「処理」してきた。

アメリカの軍事的属国であるという事実に日本の政治的自由を拘束する最大の要因はある。それを歴代内閣は「国内的な対立勢力の抵抗のせいで、対米協力について政府がフリーハンドをふるえない」という話型に回収してきた。

 

 

 

そうやって、対米的にはリスクとコストの高い軍事協力を逃れ、国内的には「属国である事実」を隠蔽してきたのである。

私はそれを「世界政治史上もっとも狡猾な政治的装置の一つ」と評価している。

福田康夫の登場はおそらくメディアがこぞって書くとおり「古い自民党への回帰」に他ならないのであろう。

 

 

だが、それが「自民民主の猿芝居」によってアメリカとの関係をぐじゃぐじゃにする「新たな五五年体制」の復活をめざすものならば、私はこれを日本国の平和と繁栄のために多としたい。

            (二〇〇七・九・二六)」

 

 

〇 二〇〇七年は、まだ平安だったなぁ、と思いながら読みました。

「ゆでガエル」の例え話で語られた日本の危機。まだこの頃は、

誰もが、危機のことなど考えたくない…と言って考えずにいられました。

 

私もそうでした。第一、危機について、どんなに叫ばれていても、一庶民の私には、

何も出来ません。

本当に、危ないとやっと感じたのは、あの2011年です。

原発が…電力が…というよりも、「これほどおかしな人間が為政者として政治を司って

いる」ということに危機を感じました。

ここで、内田氏は、二〇%のおかしな人間が居ても、この日本のシステムは成熟しているので、大丈夫だ、と言っています。

 

でも、今も更に不安が強まっているのは、おかしな人間が半数を超えているのでは?と

いう疑念があるからです。