読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

そうだ、マルクスさんに訊いてみよう

「「気宇壮大」と「荒唐無稽」のあいだに実定的な境界線はない。

第二次世界大戦以前に「戦後、独仏の同盟関係を基軸にしてヨーロッパ連合ができるだがろう」と予測していた人間はごく少数だった(オルテガ=イ=ガセーはそのような予言をなした例外的な一人であったが)。

 

 

同時期に「日米の親密なパートナーシップが今後半世紀以上にわたって世界戦略の基軸となるだろう」と予測した人間もきわめて少数であった。

これらの「ヨーロッパ連合」論者や「日米同盟」論者は、リアルタイムでは周囲の「リアリスト」たちからは「気宇壮大と荒唐無稽を混同するな」と一笑に付されたに違いない。

 

 

しかし、経験が教えるのは、未来予測に関して言えば、「リアリスト」たちはかれらが自負するほどには高得点を上げられていないということである。言い換えると、国際関係のようなあまりに多くのファクターが関与する複雑な系については、「十分なデータとそれを解析する適切な思考力がある人間は、そうでない場合よりも蓋然性の高い予測をする可能性が高い」とhが言えない、ということである。

 

 

なぜ、そのようなことが起きるのか。それについて考えてみたい。

「十分なデータとそれを解析する適切な思考力がある人間」は「そうでない人間」よりも世界政治の方位決定に関与する力が強いわけではない。

「リアリスト」のピットフォールはそのことを認めたがらない点に存する。

 

 

 

愚かしい幻想が合理的な分析よりも強い力を持つことがある。そして、「ほんとうのリアリスト」は、この「愚かしい幻想」三留のもつ政治的なポテンシャルを決して過少評価しない。「愚かしい幻想」を鼻で笑うのは「三流のリアリスト」だけである。

例えば、マルクスはそういう意味で「ほんとうのリアリスト」だったと私は思う。マルクスは「幻想」の力について次のようなみごとな文章を書き残している。

 

 

人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、あたえられ、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。死せるすべての世代の伝統が悪魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかに見える時、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊おをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。

(「ルイ・ボナパルトブリュメール十八日」伊藤新一・北条元一訳、岩波文庫、一九五四年、一七頁)

 

 

マルクスが一八四八年から五二年までのフランスにおける階級闘争の「リアルな」分析を通じて確証した事の重要なひとつは、人間が「いまだかつてあらざりしもの」をつくりだそうとするまさにそのときに、「過去の亡霊」が計ったように出現する、ということであった。

 

 

すぐれた歴史家はその不思議な「回帰性」のことを知っている。

「すべての世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだ」と看破したのはヘーゲルである。マルクスはそれにこう付け加えた。「一度目はg悲劇として、二度目は茶番いて」

 

 

どうして大きな出来事は「回帰」するのか。その理由を誰もうまくは説明してくれない。たぶん、人間は「自分で思っているほどには創造的でない」のだろう。

いずれにせよ、ある種の「幻想」は回帰する力をもっていることは忘れない方がいい。

合理的ではないけれど起きてしまうことは歴史上無数に存在する。

 

 

フランス革命とナポレオン帝政と王政復古と七月革命という世界史的な変動を生き抜いて、十分な政治的成熟を果たしたはずのフランス市民が選択した政体は、詐欺師まがいの人物を皇帝に頂く「第二帝政」という時代錯誤なものであった。

 

 

第一次大戦の敗北と恐慌とワイマール共和国の破綻と革命闘争の暴発という世界史的出来事に耐えたドイツ市民が選択した政体は、パラノイア的な人物を総統に頂く「第三帝国」というん妄想的なものであった。

 

 

第二帝政」も「第三帝国」もいずれも「荒唐無稽な政治的幻想」であることに私は喜んで同意する。

しかし、「荒唐無稽な政治的幻想であるから、そのようなものが現実化する可能性は低い」という判断には与することができない。現実化してしまったのだから。

 

 

 

そして、私が指摘しておきたいのは、それらがいずれも(「第二」「第三」という名称が示すように)ある種の「回帰性」の幻想に駆動されていたことである。

ロレンス・トーブさんは、近未来に「儒教圏」(コンフューシオ)という政治圏が東アジアに成立することを予測している。そこには中国、台湾、南北朝鮮、日本が含まれる。(略)

 

 

一九四五年から続いた六〇年間にわたる「解離」の時代がひとまず終わって、アジア諸国はふたたび「凝集」の方向に向かっているとトーブさんは見通している。私はそれが持続的な政治圏の構築に至るというところまですぐには楽観的になることはできない。

 

 

しかし、一時的な解離や反発を含みつつ、総体としては「儒教圏凝集」の力学が強く働くという予測を私は支持する。とりあえず理由は二つある。

ひとつは現実的な理由である。

それはアジア諸国の人々が「現状に飽き始めている」ということである。(略)

 

 

 

ふたつめは幻想的な理由である。

政治的状況が流動化するときに大きな力を発揮するのは「回帰性の政治的幻想」である。そのことをマルクスは一五〇年前にただしく指摘していた。

私はトーブさんのいう「儒教圏」はそのような「回帰性の政治的幻想」のひとつでありうると思う。

 

 

一度存在したものは、一度も存在した事のないものよりも現実化する可能性が高い。ものが「幻想」であるから、それが今後どのような消長を遂げるのか、データや数式をもって論じることはできない。ただ、そういう磁力の強い幻想がこれから先アジア圏におけるさまざまな政治的・経済的・文化的な変化に影響するであろうことは間違いない。

 

 

村上龍の「半島を出でよ」には朝鮮半島からきた支配者に嬉々として迎合する日本人の姿が活写されている。

半島からの侵略者たちの侵入経路は二〇〇〇年前にひとりの列島住民が「漢委奴国王」と彫られた金印を受け取った島を含んでいる。

私はここに現代アジアに伏流する「反発を含んだ融合プロセス」の動きを感知した作家的直観を見る。

              (二〇〇五・四・二四)」

 

〇 日本会議の人々は、この文章を読んで、意を強くしたのかもしれない…などと

妄想しながら読みました。