読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

あとがき

「最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。

自分で言うのもなんですけれど、なかなか面白かったですね(今、私もゲラを通読したところなのです)。

 

 

「まえがき」に書いたように、この本のコンテンツはすべてブログ日記から採ったものです。ブログ日記はだいたい毎朝起きてすぐに書きます。コーヒー片手に、ディスプレイの前にぺたりと腰を下ろし、前の日のできごとを備忘のためにメモしたり、新聞記事についてコメントしたり、前夜読み終えた本の感想を書き付けたりしています。

 

 

そういう雑多な書き物の中から編集の安藤聡さんが「教育、家族、国家」といったトピックを選んで編纂してくれたのが本書です。「構造主義的日本論」とありますように(このタイトルは安藤さんが考えたものです)、テクスト選択の基準は構造主義的な「切り口」というあたりにあったようです。(自分の本なのに「ようです」というのも変ですけど)。

 

 

でも、「構造主義的」って、どういうことなんでしょうね?(略)

私の考え方や書き方のどこらへんが「構造主義的」に見えたのか、それについて思うところを述べて「あとがき」とすることにします。

 

 

 

構造主義というのは一九五〇ー六〇年代フランスを発信源としたいくつかの学術分野(クロード・レヴィ・=ストロースの構造人類学ロラン・バルト記号論ミシェル・フーコーの社会史、ジャック・ラカン精神分析など)に共通していた、ある種の知的な「構え」のことです。

どういう「構え」か、一言で言うと、「自分の判断の客観性を過大評価しない」という態度です。(略)

 

 

「自分の判断の客観性を過大評価しない」というのは、言い換えると、「自分の眼にはウロコが入っているということをいつも勘定に入れて、「自分の眼に見えるもの」について語る」ということです。

私たちは全員眼に「ウロコ」が入っています。それが私たちの視覚像を歪め、汚しています。これには例外がありません。ですから、私たちの眼に「世界はそのように見える」ということと「世界は現にそのように存在する」ということは、論理的にはつながりません。

 

 

 

「だったら、ウロコを外せばいいじゃないか」と気楽な事を考える人がいるかも知れませんが、そう簡単にことが済むなら誰も苦労はしません。

「ウロコ」というのは角膜に癒合していて、それなしにはものを見ることができないような仕方で深く身体化された、私たちの世界認識の形式のことです。コンタクトレンズのように「ほい」と外せるなら、そんなものを「ウロコ」とは呼びません。

 

 

私たちは全員がそれぞれの「ウロコ」を通じて世界を認識しています。私は私の「ウロコ」を通じて、あなたはあなたの「ウロコ」を通じて。どちらの「ウロコ」が透過度が高いとか、屈折率が鉢の頭とか論じても、あまり意味はありません。

 

でも、「ウロコ」が目から剥がれないのなら、すべての人間はそれぞれが妄想的に作り上げた虚像を観ており、世界経験に共通の基盤はありえないのだ……と虚無的になるのは早とちりです。私たちの世界像がどのように歪み、汚れていても、だからといって世界はまったく不可知であるわけではありません。

 

 

「私のウロコを通じて見える世界」と「あなたのウロコを通じて見える世界」を突き合わせて、その異同の検証を通じて、直接的には誰も見ることのできないはずの「現実」を、再構成することは(論理的には)可能だからです。

 

 

もし、複数の、いろいろなタイプの「ウロコ」を通じて、高い頻度で同一の像が出現する場合、これは人間たちに「類的」に与えられた像ではないかと推論することができます。区々たる社会集団の差異を超えて、人類全体に共通する「視野の歪み、視像の汚れ」は(「人間世界地域限定」という条件付きで)「あるがままの自然」として取り扱うことができます。

そうですよね。

 

 

 

その逆に、社会集団ごとに見え方の違うものは「地域的なもの」と見なすことが出来ます。

たとえば、「貨幣」というのはかなり汎通性の高い類的制度です。財貨サービスの交換いて、その価値を計量する共通の度量衡を持たない社会集団は知られる限り存在しないあです。

 

でも「通貨」は違います。ある国の通過は他の国では使用できませんし、手形やネットバンキングのようなシステムを持たない社会に住む人々に、数字を書いた紙や電磁パルスが貨幣として機能することを理解させることはほとんど不可能でしょう。(略)

 

 

ですから、私たちが日々用いている「貨幣」のうちには、「広く人間一般に妥当する人類学的な価値」と「特定の共同体内でのみ通用する民族誌的な価値」が重畳していることになります。

この辺がややこしいところです。

 

 

私たちがそれぞれの「ウロコ」を通じて眺めている世界の像のうちには、「みんなにもそう見えているもの」と「自分だけにそう見えているもの」が重なり合っています。

私たちが自分の経験の客観性をつい過大評価してしまうのは、「自分だけにそう見えているもの」と「みんなにもそう見えているもの」の相当部分が「かぶっている」と同時に「ずれている」からです。

 

 

たとえば、野球とサッカーとラグビーというのはぜんぜん違うスポーツです。けれども、これを「ボール・ゲーム」として見た場合には、種別を超えて「繰り返し同一の像」が出現するレベルがあります。

 

 

たとえば「ボールはフェア(生きている)であるかファウル(死んでいる)であるか、どちらかである」「ボールを相手の管理するエリアに送り込むことで「善いこと」(点数)が達成する」「ボールをダイレクトに自チームのプレイヤーに送ってはならない(必ず「相手に干渉されて、奪われる」チャンスを確保しなければならない)」などのルールはいずれの種目にも共通しています。

 

 

とすると、これらのルールは「類的な」水準にあると推論することができます。でも、プレイヤーが九人であるとか一一人であるとか一五人であるとか、グラウンドの形態やサイズなどは種目ごとにいくらでも変更可能ですから、これは「ローカルな」あるいは「民族誌的な」水準に置くことができます。

 

 

つまり構造主義的なものの見方というのは、私たちの日常的な現象のうち、類的水準にものと、民族誌的水準にあるものを識別する知的習慣のことであると言えるのではないでしょうか。

 

 

とりあえず、私はそんなふうに考えています。

この本の中で、私はさまざまなトピックを扱っていますが、基本的な構えはだいたいどれについても一緒です。それは、どのような現象についても、その現象を構成するファクターのうち「類的な水準」に置かれるべきものは何かを問うことです。たぶん、そうなっていると思います。

 

 

もちろん、そのせいでしばしば「針小棒大」「大山鳴動して鼠一匹」ということも起こりますけれども、それはそれ、「コラテラル・ダメージ」ということでどうぞご海容願いたいと思います。(略)

   二〇〇八年五月           

                           内田樹

 

〇最後に読んだこの

「私たちは全員眼に「ウロコ」が入っています。それが私たちの視覚像を歪め、汚しています。これには例外がありません。」

という文章が、今回読んだこの本の中で一番嬉しい文章でした。

 

もし、そう全員が考えれば、世の中の話し合いはどれほど思いやり深い、理性的なものになるか…と思います。でも、こう考えない人もいる。つまり、そう見えるのは、内田氏の眼の「ウロコ」によるもので、私の眼(のウロコ)によるとそのようなウロコはない。私には、世界がはっきり見えている。私の世界観は歪んでも汚れてもいない、という人が出てくるので、議論がかみ合わなくなる。

 

ここを読みながら、思い出したのは、あの「一緒にいてもひとり」の本の文章です。

 

 

「サボテンには別の愛情の示し方があると知って私も大喜びした。

寒々しい孤独を感じていたころ、本当はあなたに大事にされていた。

私にはわからなかっただけ。

サボテンの本はたくさんある。でもバラの専門書はない。

約束しよう、サボテンが何を欲しがり、何を喜ぶのか、あきらめずに

わかろうとすることを。」

 

〇互いに違う見え方がしているのだ、ということを受け入れると、「あきらめずにわかろうとする」努力が始まるのだと思います。

この眼のウロコの話が、とても分かりやすく良かったです。