読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「従ってその実体は最後には、だれにも把握できなくなってしまう。(略)そして激烈な”軍国主義”が軍事力とされてしまうから本当の軍事力はなく、”精兵主義”が精兵とされるがゆえに精兵がいない、という状態を招来し、首脳部は自らの実情すら把握できなくなってしまうのである。

それが最終的にどういう状態を現出したか。小松氏は、的確に記している。


『日本の火力   友軍の火力としては高射砲が三門あるだけで、他は若干の重軽機銃と少数の迫(撃砲)、飛行機からはずした機関砲、旋回機銃位のもので、三十八銃もろくになかった。

自分たちの今井部隊(岡本中佐転任後、今井少佐部隊長代理となり今井部隊となる)は二千名の兵員に対し三十八銃が七十丁という情けないものだった。


全ネグロスの友軍の兵員(陸軍、海軍、軍属、軍夫)二万四千のうち、陸軍の本当の戦闘部隊は二千名そこそこで、あとは海軍需部、海軍飛行場設定隊、陸軍は航空隊、飛行場大隊、航空修理廠、航空通信連帯等の非戦闘部隊が大部分だった。

戦闘部隊の三分の二は高原地の戦闘で失われてしまい、これの補充に航空関係の部隊が当たり、次々と消滅してしまった。


一発撃てば五十発位のお返しがあるので、攻撃の好機があっても攻撃もできず、米軍が大きな姿勢でのこのこやってくるが、どうにもならなかったという状態だった。(略)

こんな調子だから初めから戦争にならず、高原の戦闘は二十日位で終わり、あとはジャングルに追い込められ、逃げる事と隠れることに専念していた。

一度発見されれば、爆撃砲撃でジャングルがすっかりはげ山になるまでやられるのだから、いかんとも処置なしだ。(略)』

確かに総兵力二万四千、しかし戦闘部隊は二千で十分の一以下、さらに今井部隊では兵員二千に対して、明治三十八年式の歩兵銃が七十丁、簡単にいえば、少なくとも全員の九割は戦闘力としてはそこに存在していない。

ただ標的として殺されるために存在しているに等しい。これが軍国主義はあっても軍事力はなく、精兵主義はあって精兵がなく、客体への正確な評価を踏絵にかえ「二十万なら資格あり、三万一千なら資格なし」としつづけた一国の終末の姿である。」

 

 

『南方総軍来る   五月に南方総軍司令部が昭何から何のためか移転してきた。我々十四軍司令部付文官は、大部分南方総軍司令部付に転属になった。寺内閣下はオープンの高級車にヘルメットをかぶり元気な赤ら顔をしてマニラ市内を乗り回している。(略)


総軍がきて比島も決戦場らしくなるかと思ったら、物価は急に騰貴し、三月頃ウエストポイントの半ソデ、半パンツが一組百円前後だったのが千円近くになってしまった。
それにテロ事件は続出し寺内閣下の官邸の前には、毎朝日本人に使われている比人の惨殺屍(体)が裸にされ放り出されたり、真昼間城内の大通りで憲兵とゲリラが撃ち合ったり、又地方でもゲリラの活動は活況を呈してきた。


そのうち南方総軍はマニラを捨てて仏印に移転するということになった。「一体、何をしに寺内さんは来たのか?」「物価をあげにさ」という者もいた。朝令暮改心暗くなってきた。』


『員数   形式化した軍隊では「実質より員数、員数さえあれば後はどうでも」という思想は上下を通じ徹底していた。(略)

又比島方面で〇〇万兵力を必要とあれば、内地で大招集をかけ、成程内地の港はそれだけ出しても、途中で撃沈されてその何割しか目的地には着かず、しかも裸同様の兵隊なのだ。

比島に行けば兵器があると言って手ぶらで日本を出発しているのに比島では十一つない。やむなく竹槍を持った軍隊となった。日本の最高作戦すらこのような員数的なのだ。(略)』


『無理な命令   命令の中には無茶なものがたくさんある。出来ぬと言えば精神が悪いと怒られるので服従するが、実際問題として命令は実行されていない。「不可能を可能とする処に勝利がある」と偉い人は常に言うが?』

 

『歴戦の勇士   歴戦の勇士もたくさんいたが、彼等は「戦い利あらず」の場面に多く際会して、人間の弱点を良く知りつくしているので、自分の身を処するに余りにも利口となり、極端な利己主義になっていて余りあてにすることが出来なくなった』


「結果として一切が水増しとなり、すべての「数」が、虚構になる。それを知った時、最終的には、すべての命令も指示も理論も風化し、人はただ自分の経験則だけをたよるのである。」

 

「『羽黒台退却   死守するはずの羽黒台を一戦も交えず退却することになった。落ち行く先は羽黒台の裏山(三里半後方)のマンダラガン連山の天神山の無名稜線だ。先発はそこへ家と壕を作りに行っていた。』


これはわれわれも同じであった。”死守””死守”と声を大にして言われても、実際には何もできない。(略)」


「以上のことは、実に奇妙な事件、人類史上皆無の事件ではないであろうか。あらゆる船舶を動員し、スクラップ同様の船にまで、船艙にぎっしりと人間をつめこむ。そして、それを制海権のない海に送り出し、死へのベルトコンベアにする。やっとそれをのがれたものは、比島各地に送られる。しかし武器はない。否あったところで三八式歩兵銃だ。


そこへアメリカ軍が来る。対抗する方法は皆無だからただタコツボを掘ってその中にじっとひそむ。相手はここでまた砲爆撃・戦車・火炎放射器でこれを掃滅する。

残った者はまた次の稜線へ下がる…これが、まるでブルドーザーによる開墾のように、順次順次とただくりかえされているのである。


その間、恐るべき多量の言葉が、前線でも後方でも大本営でも浪費される。しかし現実の状況は、上記の順で、すべてはまるで機械仕掛けのように正確に進んでいるにすぎない。従ってアメリカ軍にとっては日課的作業なのである。


『米軍の攻撃は朝八時から砲撃が開始され、十二時になるとぴたりと止めてしまう。そして一時頃から夕食まで猛烈に火砲を以て攻撃し、戦車に歩兵を伴い、どんどん進撃して来る。夜間になると大部分は引き揚げてしまい迫と野砲を時々思い出したように打って来る訳だ。この米軍の戦争勤務時間外が友軍の行動時間だ。』

これが”戦争”と呼べるのであろうか。一方的な、大量虐殺ではないのであろうか?(略)」


〇あの「サピエンス全史」の中で「ベルトコンベア上の命」として、ヒヨコの選別の話がありました。そして、たくさんの動物が人間に食べられるために、どれほど悲惨な一生を送るのか、という話もありました。

ハラリ氏は、「だれもこの動物たちに悪意を持っているわけではない、ただ無関心なだけだ。」と言っていました。

この山本氏のいう「(日本国による自国民の)大量虐殺」にも、
似ているものを感じます。
兵隊を悪意で殺そうと考えた為政者は一人もいないのでしょう。ただ、誰もが「考えず」、ただ成り行きに従い、延々と人間が殺されるのを見ていた。

このような「体質」の国民には戦争をする資格はないと思います。

実は、以前、私は、憲法はきちんと改正したほうが良いと思っていました。、何かあるときには戦争も選択肢に入れる、その想定をきちんとしておいた方が良い。と思っていました。

でも、あの3・11以降、その考えはなくなりました。

この国の人間には、戦争をする資格はない。
あまりにも、為政者のレベルが低すぎる。こんな人間たちに、多くの人命を左右する力を持たせてはいけないと心から思うようになりました。

 

 

『現地自活研究指導班の誕生   有富参謀、鈴木参謀と横穴の中で会談した。有富「もう糧秣はほとんどない。この危機を切り抜けるには密林の中の植物を食べる以外にないと思うが、いかに」 自分「全くその通りと思います。それで、入山依頼この地帯の食用植物の研究をやってきました」(略)


ここでの仕事は食用野草の講習、丸八ヘゴだけを食べた時の試験、黒ヘゴの食用化、ヘゴの立木調査及分布調査等を主として行った。まるで動物実験のモルモット部隊だ。』

『現地物資利用講習要旨  当時の糧秣運搬は米と塩だけに主力をおいていたので、兵隊たちは少しばかりの米だけで副食なしでいた。栄養失調、脚気患者が続出していた。戦力の保持上というより生命維持をするには、どうしても各人が自発的に現地物資をできるだけ多く食べねばならない。このジャングル内の現地利用物資をあげれば次のとおりである。

動物質=渓流のドンコ、エビ、カニ、オタマジャクシ、ウナギ、ニナ、タニシ、トカゲ、トッケイ、オオトカゲ、蛇、蛙、カタツムリ、ナメクジ、猿、鳥類(インコ_その他)、野猪、鹿、犬、猫、鼠、虫類ではコガネムシ、バッタ、蜂の子、コウロギ、カミキリの幼虫、蝉等

植物質=デンキイモ、ヤマイモ、バナナ、バナナの芯、檳榔樹の芯、筍、春菊、水草、サンショウ草、丸八ヘゴ、秋海藻、藤の芯、リンドウの根、キノコ、ドンボイ(紫色の実)等


煙草の代用=水苔、谷渡り、パパイヤの葉、イモの葉

木の皮染め=白シャツ等目に付き易い物を染色するには木の皮をむき煎じ詰めた液に、シャツを浸し灰汁で固定させる方法

焚き付け=雨ばかりのジャングル内の生活で火を焚きつけるのは容易の業ではなかった。アチートン(竹柏ニ似た木)の樹脂は良く燃えるので、これを集めて利用する事


以上の事を各部隊並びに倉敷紡績の連中に講習した。』


「「ドロナワ」「という言葉がある。しかし太平洋戦争とは、圧倒的な敵の攻撃を前にしてイモを植える戦争だった_もしこれが戦争といえるならば。だが、イモを植えれば飢えが解消するわけではない。その間、食えるものは何でも食い、生き残る者だけが生き残るということになる。」

 

 

「私が小松氏の「慮人日記」を読んで、以上の点で思わず考え込んでしまったのが、次に揚げる数章である。

私は、自らの内心を精査してみて、意識的にこの問題を避けたおぼえはない、と誓言できる。だが、自分の書いたものを徹底的に調べてみて、この問題に、今まで一言半句もふれていないことも、また、否定できない。


『暴力政治   PW(Prisoner of war 戦時捕虜の略)には何の報酬もないのを只同様に使うのだから皆がそんなに思う様に働く訳がない。(略)
ところが、このストッケードの幹部は暴力団的傾向の人が多かったので、まとまりの悪いPWを暴力をもって統御していった。

といっても初めはPW各人も無自覚で、幹部に対し何の理解もなく、勝手なことを言い勝手なことをしていたのだが、つまり暴力団といっても初めから勢力があったわけでなく、ストッケードで相撲大会をやるとそれに出場する強そうな選手を親分が目を付け、それを炊事係へ入れて一般の連中がひもじい時彼らにうんと食わせ体力をつけさせた。

しかるに炊事係の大部分を親分のお声係の相撲の選手が占め炊事を完全に掌握し、次に強そうな連中を毎晩さそって、皆の食糧の一部で特別料理を作らせこれを特配した。


そんなわけで身体の良い連中は増々肥り、いやらしい連中はこの親分の所へ自然と集まっていった。為に暴力団(親分)の勢力は日増しに増強され、次いでは演芸部もその勢力下に治めてしまった。一般PWがこの暴力団の事、炊事、演芸等の事を少しでも悪口をいうと忽ちリンチされてしまった。


この力は一般作業にも及び作業場でサボッた人、幹部の言う事を聞かなかった者も片っ端からリンチされた。各幕舎には1人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した。

彼等は米人におだてられるまま同胞を酷使して良い顔になっていた。


彼等の行うリンチは一人の男を夜連れ出し、これを十人以上の暴力団員が取り巻きバッドでなぐる蹴る、実にむごたらしいことをする。痛さに耐え兼ね悲鳴をあげるのだが毎晩の様にこの悲鳴とも唸りとも分らん声が聞こえて、気を失えば水を頭から浴びせ蘇生させてからまた撲る、この為骨折したり喀血したりして入院する者も出てきた。


彼等に抵抗したり口答えをすればこのリンチは更にむごいものとなった。ある者はこれが原因で内出血で死んだ。彼らの行動を止めに入ればその者もやられるので、同じ幕舎の者でもどうする事もできなかった。暴力団は完全にこのストッケードを支配してしまった。一般人は皆恐怖にかられ、発狂する者さえでてきた。』

 

『マニラ組   オードネルの仕事はたくさんあるので、マニラのストッケードから三百名程新たに追加された。この新来の勢力に対してこの暴力団が働きかけたがマニラの指揮者はインテリでしっかりしていたので彼らの目の上のコブだった。(略)


この夜マニラ組全員と暴力団の間に血の雨が降ろうとしたが、米軍のMPに察知され、ストッケード内に武装したMPが立哨までした。(略)


新来者の主だった者に御馳走政策で近づきとなり、マニラ組内の入れ墨組というか反インテリ組を完全に籠絡して彼らの客分とした。これでマニラ組の勢力も二分されてしまったのでその後は完全なる暴力政治となった。親分は子分を治める力も頭もないので子分が勝手なことをやり暴力行為は目にあまるものがあった。』


『クーデター  コレヒドル組が来てからすぐ八月八日の正午、MPがたくさん来て名簿を出して「この連中はすぐ装具をまとめて出発」と命ぜられた。三十名近い人員だ。今までの暴力団の主だった者全部が網羅されていた。(略)

それでこのストッケードの主な暴力勢力は一掃された。(略)PWの選挙により幹部が再編成された。暴力的でない人物が登場し、ここで初めて民主主義のストッケードができた。

皆救われたような気がし一陽来復の感があった。暴力団がいなくなるとすぐ、安心してか勝手なことを言い正当の指令にも服さん者が出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか。』

 

「またマルクス主義自身も、戦争中の学生にとって、決して無縁の存在ではなかった。(略)

そういう人間が、昭和二十一年一月に、戦犯容疑者を入れる第四収容所に入れられたわけである。(略)


給与も非常に改善され、以前のような飢餓感はうすらいでいた。全員が殆ど作業はなかったといってよい。柵外に出して逃亡されることを恐れたからであろう。(略)小松氏は外部から見たここの情景を次のように的確に記している。


『戦犯容疑者、戦犯者ストッケード    我々のいるストッケードの隣は、戦犯容疑者、戦犯者のいるストッケードだ。(略)

それでも時々脱走者があるという。無理もない。山にはまだ日本兵が数千いるというのだから。』


「とはいえ、ここは実に奇妙な「社会学的実験」の場であり、われわれは一種のモルモットだったわけである。

一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保証され、労働から解放され、一切の組織からも義務からも解放され、だれからも命令されず、一つの集団を構成し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるかの「実験」の場になっていたわけである_別にだれも、それを意図したわけではないが。


一体それは、どんな秩序だったろう。結論を簡単にいえば、小松氏が記しているのと同じ秩序であり、要約すれば、一握りの暴力団に完全に支配され、全員がリンチを恐怖して、黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。

そして、そういう状態になったのは、教育程度の差ではなかったし、また重労働のためでも、飢えのためでもなかった。」

 

 

 

「この収容所は、前述のように将官・将校・兵・外国人の四区画に分かれ、各々が自治制をしいており、将校区画は、ほぼ全員が”高等教育”をうけた人で、ジュネーブ条約により労働は皆無だったからである。

従って、暴力支配を、何らかの特別な理由づけに求めることは出来ないのである。(略)


もっとも私は、朝鮮人・台湾人の区画のことは、良く知らない。だが、ここが一番よくまとまっていることは一種の定評があった。(略)

その指導者らしい人が、何かの問題で憤慨し、将校区画の鉄柵の前まで来て、大声で弾劾演説をやったことである。(略)


内容は、もう覚えていない。ただ彼が繰り返し繰り返し強調したことは「……それをわれわれに教えられたのは、あなたがたではないか、そのあなたがた自身がなぜそれを実行しない。このざまはなんだ……」という意味の言葉であった。

だがみながシーンとしていたのは良心の呵責のみではない。小松氏が記している、つぎのような二つの実情のためである。

一つは外面的実情、二つは内面的実情といえるであろう。」


朝鮮人、台湾人   志願兵、軍属、軍夫として、沢山の朝鮮、台湾人が比島に来て戦ったが、敗戦のため、彼らは日本と分かれることになった。それで各人様々の感情にとらわれていたようだったが、段々に落ち着いてくると山の生活中日本軍に協力したにかかわらず、日本軍の将校共から不当の取り扱いを受けたり、酷使され、いじめられた者の内に深い恨みを持つ者が沢山いた。

そしてこのまま分かれたのでは気分が済まず、同じストッケード内に住むを幸い、日本人に復讐することに決め、彼等特有の団結力を利用してこれ等悪日本人のリストを作り、片端から暴力による復讐が行われ出した。

部隊長級の人でもこのリンチに会った人も相当にいた。(略)


一方、山で彼らの世話を良く見た人に対しては、缶詰、タバコ、その他沢山の贈り物が来た。(略)

彼等が帰国する前に、この変な雰囲気のまま別れたのでは今までの交友が無駄になるというので、細野中佐の肝入りで朝鮮人代表を招いて、日本人のおかした罪を謝り彼らと気分よく別れようということになった。当日は多数の出席者があった。

そして日本人の非道を謝し、東亜民族の運命共同体の理念が説かれ、今後は朝鮮はソ連の影響を多く受けるだろうが、仲良くやって行こうと説かれた。最後に朝鮮代表が別れの辞を述べ、この会の目的の一部を果たして解散した。

朝鮮人、台湾人の共通の不平は彼らに対する差別待遇であり、共通に感謝されたことは日本の教育者達だった。彼らは国なき民から救われた喜びだけは持っていた。』

『将校キャンプと兵隊キャンプ   (略)社会人としては全く零に近い人が多かった。実行力が無く陰険で気取り屋で、品性下劣な偽善の塊だった。兵隊だけのキャンプに暮らしてみると前者に比べて思ったことはどんどん言うし、実行力はあるし、明朗だった。(略)


日清、日露の役の当時の様に将校と兵との間に教養武術、社会的地位に格差のあった時代は良かったが、今日では社会的地位、学識その他総ての点に於いて将校より勝れた人物が大勢兵として招集されている。それ等を教養も人間も出来ていない将校が指揮するのだから、組織の確立している間はまだしも、一度組織が崩れたら収集がつかなくなるのは当然だ。

兵隊たちは寄るとさわると将校の悪口をいう。ただし人格の勝れた将校に対しては決して悪口をいわない。世の中は公平だ。』

「結局、以上二つに現れている状態、それが、暴力的秩序を生み出す温床であったと思う。ではこの温床の底にあったものは何であろうか。」

 

 

「人間の本性    人間の社会では、平時は金と名誉と女の三つを中心に総てが動いている。それらを得るために人を押しのけて我先にとかぶり付いて行く。ただ、教養やいろいろの条件で体裁良くやるだけだ。それでも一家が破産したり主人公が死んだりすると、財産の分配等に忽ち本性を現し争いが起こる。


戦争は、ことに負け戦となり食物がなくなると食物を中心にこの闘争が露骨にあらわれて、他人は餓死しても自分だけは生き延びようとし、人を殺してまでも、そして終いには死人の肉を、敵の肉、友軍の肉、次いで戦友を殺してまで食うようになる。(略)


負け戦で皆が飢えている時、部下に食物を分ち与える人、これは千人に一人いるかいないかだ。(略)

現代の武将には皆無と言ってよい位だ。こういう人には自然と部下ができ物質的には不自由しないのが妙だ。だれかが「無一物中無尽蔵」と言ったが正に名言だと思う。この心境に至るには信仰以外に道はない気がする。人間とは弱いものだから。』

「従って、ごれを逆にみれば、そういう状態で打ち立てられた秩序は、否応なしに、その時点におけるその民族の文化と思想をさらけ出してしまうのである_あらゆる虚飾をはぎとって、待ったく「言いわけ」の余地を残さずに。そしてそれが、私が、不知不識のうちにその現実から目を背けていた理由であろう。

確かにそれは、正視したくない実情であった。」

〇つい最近まで、人間はどれほど追い詰められても、人間の肉を、それも仲間の肉を食べたりしないものだと、思い込んでいました。

でも、NHKスペシャルインパール…」で実際にまだ温かい人肉を売り買いしたという話を聞き、当然と言えば当然のことながら、人間も普通の動物と同じだと知りました。

ここでも、また「戦友を殺してまでも食う」話を聞き、やっぱりそうなのか、と思いました。

 

「彼(Oさん)は緒戦当時、英語が上手なため徴用され、米英オランダの民間人を収容する収容所に勤務させられた。そこも似たような状態であり、着のみ着のままの人が、ほぼ同じように柵内で生活し、彼らの好むままに秩序をつくらせた一種の自治であった。

そしてその状況は、今目の前で展開されているこの収容所の秩序とは、余りにも違い過ぎていた。彼らは、自己の伝統的文化様式通りの秩序をつくり、各人の「思想」すなわち自己規定でそれを支え、秩序整然としていたのだから_。


小松氏が記している米軍による暴力団の一層は、ほぼ全収容所で行われたらしい。というのは、戦犯容疑者収容所における暴力団も、同じようにMPによって一掃されたからである。

そしてその後の状態も正に同じであった。Oさんは、この時も嘆いていった。米英オランダ人の収容所に対して、日本軍が、こういう処置を取らねばならなかった事例はなかった、と。

小松氏が記しているように、日本軍を支えていたすべての秩序は、文化にも思想にも根ざさないメッキであり、付け焼刃であった。そして将校すなわち高等教育を受けた者ほどメッキがひどく、従ってそれがはげれば惨憺たる状態であった。」


「私は、この区画から、毎日、設営工場に出勤しており、そこで、捕虜の中から選抜された最も優秀な家具職人や建具職人と過ごしていたので、小松氏が、兵隊の収容所の方がはるかに立派だし、居心地もよい、と書かれているのが良くわかる。

ここの方が、何ら虚飾のない、伝統的文化に基づく一つの秩序すなわち文化があった。特に職人は立派であり、彼らはその技術においてアメリカ人よりはるかにすぐれ、従って何の劣等感もなく、また完全に放置しておいても、すぐに自ら職人的な秩序を作り出していった。

従って暴力的秩序などは皆無であり、そしてそういう場所には、彼らは絶対に入ってこようとはしなかった。」


「なぜ、暴力があれば秩序があり、暴力がなくなれば秩序がなくなったのであろう。

理由は、一言で言えば「文化の確立」なく、「思想的徹底」のないためであったが、もっと恐ろしいことは、人々がそれを意識しないだけでなく、学歴と社会的階層だけで、いわれなきプライドをもっていたことであった。(略)

しかし、各人は、自らの主張に基づく行動を自らはとらなかった。そして自らの行動の基準は小松氏の記す「人間の本性」そのままであった。そのくせ、それを認めて、自省しようとせず、指摘されれば、うつろなプライドを傷つけられて、ただ怒る。」

 

 

「従って日本軍には、「フィリピン人」は存在しなかった。そしてそこにいるのは、「日本人へと矯正しなければならぬ、不満足なる日本人」一言で言えば「劣れる亜日本人」だったのである。」


「それならば相手は別の文化圏に住む者と割り切って、何とかそれと対等の立場で「話し合う」という方向に向くべきだが、自己の文化を再把握していないから、それもできない。


そこで自分と同じ生き方・考え方をしないといって、ただ怒り、軽蔑し、裏切られたといった感情だけをもつ。フィリピンにおける多くの悲劇の基本にあったものは、これである。」


「そしてそれは、まず一方的な思い込みからはじまった。その点、緒戦当時の日本軍の行き方は、一種異様といえる点があり、「自分は東亜解放の盟主だから、相手は双手をあげて自分を歓迎してくれて、あらゆる便宜をはかり、全面的に協力してくれるにきまっている」と思い込んでいる一面があった。


そしてそう思い込むことを相互理解・親善と考え、そしてこの思い込みが、後に「裏切られた」といった憎悪にかわり、「憎さ百倍」といった感じにすらなっていった。」


「これならいっそのこと、全く兵力を残置せず、治安・警備等は一切フィリピンにまかし、全く無干渉で、相手の責任で自治をさせた方が、むしろよい。(略)

というのは、ゲリラが発生すれば、ヴェトナムの場合のように、五十万の米軍を投入しても、これを掃討することは不可能だからである。まして、それよりはるかに広い島嶼群に、三万の兵力を残置して何になるであろう。


だが、奇妙な処置はそれだけではない。日本に降伏して武装を解除されかつ収容されたフィリピン軍捕虜は、ルソン島だけで十五万五千人いたが、これはバターン戦直後、コレヒドール陥落前の十七年四月にほぼ全員が釈放され、残された一部の幹部も、十八年十月十四日、いわゆる比島独立を機に全員が釈放された。(略)

一体、戦争の真最中に、その捕虜を無条件で全員釈放してしまうといった例が、果たして外国にあったであろうか。この奇妙な処置の前提になっていたものが、日本はアジアの解放者なのだから、彼らは日本に協力してくれるにきまっているという、何とも不思議な一方的”思い込み”なのである。」

 

「ミンダナオで、日本軍が、多少とも一種の権威を持っていたのは、昭和十七年五月の作戦終了より九月のモロ族蜂起までの、わずか四か月間だけである。この間はおそらく彼らの、再編成・攻撃準備期間であった。

この蜂起で、まず同島警備隊生田旅団の独立守備第三十四大隊吉岡中隊が、ラナオ州ダンサランで、蜂起したモロ族のためほぼ完全に全滅し、ついでこれに驚愕した旅団司令部が討伐のため、小部隊を残置して各地の警備隊主力を引き上げたところ、その手薄に乗じて、全島一斉蜂起という状態になってしまった。

道路はズタズタ、通信線は切られ、守備隊同士の連絡もとれない。そして、ゲリラは住民と合流し、孤立した守備隊を包囲して、次々にこれをほぼ完全に全滅させていった。」

 

「これに対して、同じアジア人で共に非キリスト教徒だという日本が、しかも彼らを米国支配から解放するために来たはずの日本軍が、このモロ族にまず叩かれ、最後まで彼らを味方としえなかったこと、そこには、考えうべき数々の問題がある。

そしてその問題は、浮ついた「同文同種」「アジアの解放」「東亜新秩序」「共栄圏」等の一人よがりのスローガンがいかに無意味で、自己を盲目にする以外に何の効用もなかったことを物語っているであろう。」

 

「北京在住三十年、北京市庁の観光課に勤務しつつ遺跡の保存にあたり、中国人から非常に尊敬されていた石橋丑雄氏が、「日本軍は、元来は親日的であった中国人まで、むりやり反日に追いやったようなものだ」と言われたが、これと全く同じことが、フィリピンにも言えるのではないであろうか。」

「ここで少し、公的な記録の要約と小松氏の記録とを比較してみよう。同じような状態を記録しても、書く人によって非常に印象が違ってくることが一目瞭然となるであろう。(略)


昭和十八年九月、早くもヴィクトリアス製糖会社から、十八キロ隔たるマナプラ工場に向けてアルコール原料を輸送中の列車が襲撃された。同九月、台湾製糖が経営しているマナプラ工場の日本人通訳が、シライの町から三キロほどのところでゲリラに惨殺された。(略)

これが十九年になると、

(一) 三月二十八日、マタ中佐(ゲリラの隊長)指揮下のバクラオン少佐を長とするゲリラ約七百名がバコロド南方のバゴ町を襲撃、民家十三戸を焼き払い、衣類、食料を強奪し、住民の乗車せる自動車まで襲撃して婦女子に至るまで十数名を焼き殺した。

(二) (略)

(三)ギンバロン町を襲撃したゲリラ隊は、同町警備の中村曹長以下二十名を、あるいは射殺し、あるいは逮捕して耳を斬り鼻や陰部を削ぎ落して殺し、ボロ(蕃刀)で寸断する等、正視できぬほどの残虐な殺し方をした、_という状態になっていた。

だが奇妙なことに、方面軍はこの実情を少しも掌握しておらず、この島を前述のように「ネグロス航空要塞」と呼び、ここから出撃して、レイテのアメリカ軍を叩くつもりでいたらしい。」


『ゲリラの親分と交渉成立   タリサイ酒精工場の復旧も終り製造を始めたが原料糖がほとんど焼けてしまったのでバコロドの砂糖工場から砂糖を運ばなければならなくなってきた。自動車ではいくらも運べんので鉄道を使うことにした。幸いバコロドとタイサイ工場とを繋ぐ線があったので、これを利用することとした。

この運搬を行う兵力、鉄道は保線、警備の兵力は馬鹿にならないほど多く必要なので、神屋氏の発案で、この地区のゲリラの親分に交渉して砂糖の運搬を請け負わせるようにしたらというので、さっそく神屋氏が交渉委員で交渉し三月から実施することになった。報酬は運搬砂糖の三割と言う事で。』

 

「以上が、小松氏がマニラを離れてネグロスに行き、同地の酒精工場の運営を指導し、ついに全工場は爆撃と自爆で損失し、山に入る直前までの記述の抜粋である。(略)

以上二つの記録を一読すれば、だれにでも両者の違いが明らかであろう。」


「一体問題はどこにあるのであろう。戦争中、「鬼畜米英」という言葉があった。事実、線上には”残虐行為”は常に存在する者であり、もちろん米英側にもあり、その個々の例を拡大して相手の全体像にすれば、対象はすべて人間でなくなり、「鬼畜米英」「鬼畜フィリピン」「鬼畜日本軍」になってしまう。

そしてこういう見方をする人たちの共通点は常に「自分は別だ」「自分はそういった鬼畜と同じ人間ではない」という前提、すなわち「相手を自分と同じ人間とは認めない」という立場で発言しており、その立場で相手の非を指摘することで、自己を絶対化し、正当化している。

だが、実をいうとその態度こそ、戦争中の軍部の、フィリピン人に対する態度であったのである。そして、そういう人たちの基本的な態度は今も変わらず、その対象が変わっているにすぎない(略)」


「そして小松氏には、この態度が皆無なのである。氏は、実に危険な、おそらくフィリピンで最も危険な場所におり、しかも全軍がジャングルに引き上げるという直前、別の記録でみれば、到底どうにもならない”残虐状態”の渦中にあるはずなのに、その恐怖すべき相手であるはずのゲリラと悠々と交渉して相互の諒解に達している。」


「そしてそれらの事件の背後には、現地における対日協力者への、あらゆる面における日本側の無責任が表れており、この問題の方が、私は、戦後の反日感情の基になっているのではないか、とすら思われるからである。」


「だがすべての人間に、それがなし得なかったのではない。小松氏だけでなく、同じようなことが出来た人もおり、そういう人々には、フィリピン人から収容所への絶えざる「差し入れ」があった。そのことを小松氏も記している。

従って問題は常に、個人としてはそれが出来るという伝統がなぜ、全体の指導原理とはなり得ないのかという問題であろう。」

 

「象徴的にいえば、太平洋戦争自体が、親米英派を超えて、米英に「痰唾」をはきかけて快哉を叫んだという形であり、従って「暗雲一気にはれた」心理的状態がつづく間と、その後の反動的な志気低下とが、最前線の状態にもはっきりと現れてくるのである。」


慰安所の女を飛行機で運ぶ   ネグロスには航空荘といって、航空隊将校専用の慰安所(日本人女)兼料理屋があった。米軍が上陸する寸前、安全地帯へこの女達を飛行機で運んでしまった。

特攻隊の操縦士等、まだ大勢運びきれずにいるのに。戦闘第一主義は、いつの間にか変わってしまった。これがネグロス航空要塞の最後の姿だ。』


『女を山へ連れ込む参謀   兵団の渡辺参謀は妾か専属ガールかしらないが、山の陣地へ女(日本人)を連れ込み、その女のたくさんの荷物を兵隊に担がせ、不平を言う兵隊を殴り倒していた。兵団の最高幹部がこのようでは士気も乱れるのが当然だ。又この参謀に一言も文句の言えぬ閣下も閣下だ。』


「以上の記述を読むだけで、軍の首脳部自身が、もう戦争にあきあきして、全く「ヤル気」を失っていたことを示している。これは秦郁彦氏も指摘しており、氏は太平洋戦争を「プロは投げて、アマだけがハッスルしていた戦争」と定義しておられる。」

 

「そしてその次に来るものは、決定的な相互不信による、組織の実質的解体である。


ルソン島の話    我々はネグロスで、ルソンには山下兵団がいて相当に武器もあるだろうから、そうおめおめと負けんだろうと思っていた。ところがここへ来てルソンの話を聞くと、初めは大分やったようだが、あとは逃げただけだったことが分かった。

しかも山では食料がないので友軍同士が殺し合い、敵より味方の方が危ない位で部下に殺された連隊長、隊長などざらにあり、友軍の肉が盛んに食われたという。ここに至るまでに土民からの略奪、その他あらゆる犯罪が行われたことは土民の感情を見ても明らかだ。』

『ミンダナオ    ここは全比島の内で一番食べ物に困った所で友軍同士の撃ち合い、食い合いは常識的となっていた。行本君は友軍の手榴弾で足をやられ危うく食べられるところだったという。敵も友軍も皆自分の命を取りに来ると思っていたという。友軍の方が身近にいるだけに危険も多く始末に困ったという。』

『追いはぎ   糧秣のない部隊は解散して各自食を求めだした。そして彼等の内、力のない者は餓死し、強き者は山を下りて比人の畑を荒し、悪質の者は糧秣運搬の他の部隊の兵をおどしあげて追いはぎをやったり、射殺したり切り殺して食っていた。糧秣運搬中の兵の行方不明になった者は大体彼等の犠牲となった者だ。もはや友軍同志の友情とか助け合い信頼というようなことは零となり、友軍同志も警戒せねばならなくなった。』


そして、このようになった組織は、もう二度と、秩序を回復することはない。」


NHKスペシャル「戦慄の記録インパール」では、途中行き倒れて、死んでしまった仲間の肉を売り買いした、となっていました。

でも、ここでは、はっきり、「食べるために殺した」となっています。

 

 

 

「当時私は、自分の収容所から将官収容所に通勤していた。戦後の将官の態度はさまざまであったが、その中で、ごく自然でありながら一種業然たる威圧感を持ち続けていたのは、武藤参謀長であった。私は自分の幕舎に帰った時、何気なくその話をした。
その瞬間、同じ幕舎にいた海軍軍人が「ナンダ、あんな野郎」といった。(略)


武藤参謀長は、かつて陸軍省の事務局長であり、そのとき、「政党は解散すべきが軍の意向だ」という発表をし、これが新聞の一面に、大きく写真入りで出た。彼が憤慨しているのは、実はそのことなのである。

私は最初、軍が政治に介入したのはよろしくないと憤慨しているのかと思っていたところ、実はそうではなくて、海軍を無視して「軍」といったのはケシカランと憤慨しているのであった。」


「盧溝橋事件そのものは突発的事件だから仕方がないにしろ、その後も、海軍とは全く相談なく、ぐんぐん戦線を広げている。そしてどうにもならなくなると、その尻拭いを海軍に持ってきて、しかも対米海戦に躊躇する海軍は腰抜けだという、海軍にしてみれば、全く「踏んだり蹴ったり」の扱いを受け続けて来たと言う感情はどうしても拭いきれない。そしてこれが、事あるごとに出てきた。」


『陸軍、海軍    日本の陸海軍は事々に対立的だった。それでもいざ戦争となると協力するので、仲の悪い夫婦のようだと評した人がいる。それは昼間は喧嘩ばかりしていても、不思議に子供だけは作るからだという。


大東亜戦で陸海が本当に信頼し合って協力シタノハマレイ作戦までで、その後は加速度的に離反していったという。後には陸軍にも海軍ができ(陸軍で軍艦、潜水艦まで作った)、海軍は騎兵まで出来るようになった。

そしtれ陸海の国内に於ける戦争資材の争奪戦は米国との戦いより激しかったという。これも敗戦の大きな原因だ。』

 

「そして、比島戦末期におけるこれらの「陸軍・海軍」すなわち船舶工兵の末路は、だれも語らない一つの哀史である。彼らはまるで、小松氏のいう「仲の悪い夫婦」に認知されぬ陸軍の「私生児」の如く、どこかへ消されてしまった。


そしてその最後は、小松氏のこの記録のほかには、比島側の、”残酷物語”から知る以外ないに等しい。小松氏のいたネグロス島の、ほんの一例をあげよう。

「…ゲリラ隊員である私は、住民の援助で一九四三年の新年にカディス沖の珊瑚礁に難破した発動機船に乗っていた二十七人の日本人を捕らえた。

気も狂わんばかり喜んだ住民は、彼ら日本人十五人をまたたく間に殺してしまった。ゲリラ隊員は残余の者を本部に連れて行った。……住民の中に子供を日本兵に殺された父がおり、復讐を誓った」。つづいて耳を切り落としたり、徹底的に殴打したりのリンチのk時録が長々とつづき、最後に全員がボロ(蕃刀)で切り殺される描写で終わっている。

船舶工兵、特に難破・漂着した者への「事件」の比島側の同様な記録は、文字通り枚挙にいとまないほどあるが、その中で最も大きなものは、米軍上陸を避けて、リンガエンの北サンフェルナンドを出港して北上した船舶工兵第二十五連隊の運命であろう。」

 

「この部隊は転進時は約一千名、上陸用舟艇(いわゆる大発)と機帆船(四五〇~五〇〇トン、おそらく小松氏の絵と同型のもの)数十隻に分乗して、北端のアパリ港(私のいた近く)へ出航したのだが、二か月後に実際にアパリに到着し得たものは、乞食の如き姿になった五十名だけであった。

その間の彼らの運命はわからない。ただ、リンガエンとアパリの中継港クラベリヤで、この期間に、難破上陸した日本兵が全員ゲリラにボロで斬殺された記録があり、それがおそらく彼らの一部であったろうと推定できるだけである。」


〇このような話を聞きながら、想い出すのは、知人の知り合いの中国人が、「研修生」として日本に来て、どれほどひどい目にあったか、という話です。

なぜ、日本の政治は、これほどまでに、弱者を痛めつけるのか、わかりません。
反日」という感情は、大昔のものではなく、今も醸成されている可能性があると
感じました。

 

「戦後三十年、日本の経済発展を支えていたものは、面白いことに、軍の発想ときわめて似たものであった。日本軍も、明治のはじめに、その技術と組織を、いわばあらゆる面での「青写真」を輸入して急速に発展していった。その軍事成長の速さは、絶対に戦後の経済成長の速さに劣らない。否、それより速かったかもしれぬ。

その謎はどこにあったか。輸入された「青写真」という制約の中で、あらゆる方法で、”芸”を磨いたからである。(略)


戦後も同じではなかったか。外国の青写真で再編成された組織と技術のもとで、日本の経済力は無敵であると本気で人びとは信じていたではないか。(略)

以上は、小松氏が指摘した、この面での、精神面における根本的な解決は何一つなされていない、一証左であろう。」

 

「日本人の行った最初の近代的戦争は、「西南の役」である。この戦争の中に、実は現代に至るまでのさまざまな問題が、すべて露呈していると言って過言ではない。従ってわれわれが、本当に西南戦争を調べて反省する能力があったなら、その後の日本の歴史は変わっていたであろう。」

 

「従ってここではまず、軍事面において、日本が、いかに西南戦争への反省がなかったかを、否むしろ、西南戦争における西郷軍的発想が逆に軍部の主流になって、それと全く同じような敗け方をしつつ、どれくらいのひどさで、最後の最後までそれに気づかなかったかを、両者を対比しつつ調べてみよう。」


「従って、まるで大本営海軍報道部長平出大佐が、日本軍は「ワシントンで観兵式、ロンドンで観艦式」を行なうといい、国民がこれに驚喜したように、当時の鹿児島では、西郷軍は即座に東京に入城できるものと思い込んでいたらしい。」

 

「西郷軍は、緒戦で急進撃をなしとげ、一挙に熊本まで来たわけだが、ここで攻撃が頓挫する。理由は、補給がつづかぬこと、攻城用重砲の欠如、および防備には意外の強さを発揮する火力への、認識不足である。いわば西郷軍のインパール乃至はポートモレスビーであろう。

だがさらに、大きな問題は、太平洋戦争の時にきわめて似て、長くつづいた戊辰の役のため、鹿児島県民が内心では強く平穏な生活を求めていて、心底では西郷の挙兵を
支持していなかったことにある。これは、西郷の部下たちが、虚勢と実勢の違いを見抜けなかった、とでも言うべきであろうか。」

 

「一方、西郷軍のガダルカナル田原坂を見ると、西郷軍は、官軍の「物量攻撃」の前に壊滅するのである。そして西郷側は最後まで、「官軍の物量攻撃に負けた。物量さえ同じなら負けなかった式のことを言いつつ、次々に玉砕戦術を繰り返していく。

近代戦において、「玉砕」という言葉が使われたのは、この西南戦争がはじめてであろう。そしてここにあるのが「前提が違えば、前提を絶対視した発想・計画・訓練はすべて無駄になる」ことが、どうしても認識できない太平洋戦争中の日本軍と同じ状態なのである。」


田原坂で敗れて以後の西郷軍の潰乱状態、また奇襲・斬り込みによる自滅的反撃等もまた、すべて、太平洋戦争末期そのままである。そして、このような行動に出るからには、まことにファナスティックな超保守的・精神力日本刀万能の狂信徒の群れかと思うと、その中には村田新八のような海外留学生もいれば、戦死者の中に、英文の日記をつけていたインテリもいるのである。」


「平地を全部官軍に占拠された西郷軍の、最後の、日向から鹿児島への山中彷徨もまさに、比島の日本軍の山中彷徨のままであり、その間の西郷の行動は、後に神格化された大西郷と余りにも違う。」