読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(地獄の輸送船生活)

「それはいずれの時代でも同じかもしれぬ。渦中に居る者は不思議なほど、大局そのものはわからない。従って今なら「戦史」で一目瞭然のことを知らなくても不思議ではない。しかしそれは、前述のような微細な徴候から全貌の一部が判断できなかった、ということではない。

 

昭和十九年六月_これもまた六月だったが_といえば、ガダルカナルの撤退からすでに一年四カ月、アッツ玉砕から一年、マキン・タラワ両島も半年前に全滅し、クェゼリン・ルオット両島の守備隊も、四カ月前の二月一日に全滅していた。とはいえ一方では大陸打通作戦が開始され、インパールへの”快進撃”がはじまり、その陥落占領は「時間の問題」といわれ、報道される全般の戦局は何となく一進一退と言う印象でも、大日本帝国の無条件降伏が一カ年余の後に迫っていようとは、だれも予想しないのが実情だった。


そして”自転”する組織の中で、それが”生活”になっている”一歯車”には、この機構が永久機械の如く続くように思われた。_ふっと「我に帰る」ことが時々あっても。

 

いま考えれば不思議かも知れぬ。しかし人間は習慣の動物、同時に習慣的嗜好の動物である。昨日の如く明日があると、破局の瞬間まで信じている。信ずればすべてはそう見え、そう見るための理屈はどうにでもつく。ガダルカナルやアッツ等の苦戦・撤退・全滅が暗い予兆であったとはいえ、その損害はノモンハン、台児荘、平型間等で受けた打撃と比べれば、確かに微々たるもの。少なくとも軍隊内に居るかぎり、一個大隊の全滅とか、一個師団の大損害は、珍しい事件でないことは知っている。

 


しかも過去においては、そういう損害を受けつつも満州を保持し、中国の戦線も維持して、一応、優勢は保ち続けていた。多少の損害はあっても、占領した地域は保持し続けたのが、昭和六年以来すでに十二年つづいていた実績であり、人々は何となく、この過去の経験の延長線上に現在と未来を見ていた。それは戦後の人が、何回かの不況に見舞われながら急激に回復した過去の経験から将来を予測しているのと同じ状態であろう。そして私も、その例外ではなかった。

 

ただ現場にいる者は、「これは何やらおかしいぞ」といった微細な、しかし見方によっては破局的と思える徴候を、一種の感触でつかみうることも事実。私のみならず多くの人が、敗戦の感触をひやりと膚で感じたのは、十九年五月二十九日、門司で輸送船に乗船した時であったろう。」

 


「軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしに勝るもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。


前に週刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所と言われるラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人当たりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”と言えるのである。

 

前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させて頂こう。「……船中は予想外の混乱也。船艙も三段設備にて、中隊一七六命は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため、上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。


何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導を続けていることは疑問なり」。

 

これ以上の説明は不要であろう。二間に三間は六坪、これを三層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんでは入れるスペースは十八坪、言い換えれば、ひざを抱えた市井の人間を、畳二枚に十名ずつ押し込み、その状態がすでに二週間続いているということ、窒息して不思議ではない。

 

それは一種異様な、名状しがたい状態であり、一たびそこへ入ると、全てが、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵埃と湿度で一種異様な濃密さをもち、真っ暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球迄が、霧に霞んだようにボーッと見え、むーっとする人いきれで、一瞬にして、衣服も身体もべたべたして来る。

 

簡単に言えば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に二週間も押し込められたままなら、人間は、窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出て行く。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。

 

一言でいえば、前述したプラットホームである。
そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所に辿り着くのが、文字通り「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船艙いっぱいに
つめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。貨物船の便所は、当然、その乗組員の数に応ずる数しかない。三千人をつめこめば、三千人用の便所がいる。そのため舷側に木箱のような仮設便所が並び、糞尿は船腹をつたって海に流れ落ちる。

 

だがその数も十分でないから、便所への長蛇の列が切れ目なくつづき、その結果、糞尿の流れが二十四時間続くから、船自体が糞尿まみれて走っている。天気ならまだよい。しかし門司を出てからほとんど雨。順番が来るまで雨でぐっしょり濡れる。その兵士が、寒さに震えながら船艙におりてくる。濡れた衣服と垢だらけの身体と便臭から発散する異様な臭気とむっとする湿気。それはますます船艙内を耐え難くし、そのため人々は、呼吸を求めて甲板へと出て行き、一寸の余地でも見つければそこを占領して動かない。

 

「組織の自転」も不可能、軍紀も何もあったものではない。それでも甲板に出られる人数は、せいぜい三分の一の、千人であろう。
こんな異常な事態は船舶司令部の「居眠り訓辞」などで、どうなる状態ではない。


戦局は到底、内地で想像しているような事態ではない。だがそう思わせたのは、船内のこの状況だけではなかった。バシー海峡までなぜ二週間もかかるのか。南へ向かっているのになぜ雨に濡れた兵士が寒がったか。理由は潜水艦を恐れて前頁の航路をとり、しかもジグザグ行進をするからである。(略)

 

驚いた、「こりゃ、とんでもないことになっている」。すべての者が船内船外のこの実情を膚で感じてそう考えないわけにはいかなかった。

 

人間は、置かれた実情が余り苦しいと、未来への恐怖を感じなくなる。というのは今の状態に耐えているのが精一杯、「どうでもいい」という形で、それ以外の思考が停止するからである。


ラッシュアワーの電車の中で水の配給・食事の配給・排泄まで行いつつ二週間もたてば、「もし衝突したら…」という恐怖を抱く余裕のある者は、一人もいなくて不思議でない。簡単にいえばそういう状態であろう。従って、それまでに聞かされていた「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷二発で十五秒で沈む。三千人のうち助かるのは十二、三名」といった恐ろしい話さえ、実感とはならなかった。」


「太陽が水平線すれすれにまで落ちると、後背部からまともに光をうけた濃紫色の塊が、周囲がすでに薄暗い海と空を背景にぱあーっと金色に光る。それは息を呑むほど美しかった。

 

船に乗って二週間、ある意味ではすでに、すべてを断念していた。どういう状況が現出しようと、逃れる道はない。そういうとき人は、不思議に静かな、ただ「見る」だけの存在となり、食い入るように、その最後の光の中の対象を見る。息を引き取る時も、おそらく同じであろう。この状態はその後しばしば経験したが、最初の体験である、落日の輝くこの七星岩が、いまも一番強く印象に残っている。(略)

 


日は沈む、もう消える。今夜雷撃をうければ、二度と日を見ることはない。「日よ、日よ、お願いだ、もう一度あがってくれ。もう一度その輝きを見せてくれ。もう一度見たい、もう一度見たい」私は内心で叫んだ。

 

言うまでもなくそれは、「今夜が無事にすぎて、明日の太陽が見られますように」という願いだが、不思議にそういう発想にならず、本当に「日よ、もう一度あがってくれ」という感じであった。後にこのことを粕谷軍曹に話すと、彼も内心で同じことを念じていたそうである。


戦後、ミハイル・イリンの著作を訳した時、彼が太陽巨石文化に触れて、要約すると「古代人は科学を知らなかったから、明日も必ず太陽が昇ると信じられないので、”太陽よまた昇ってくれ”と祈るため、巨石の構築物をつくった」と言った意味の文章に突き当たった。(略)

 

彼らには形成されたいわゆる”思想”にも”科学”にも”文字”にも無関係だったがゆえに、文字通りリアルに生を把握しており、それがわれわれが「断念した時の状態」ときわめて近かったからではないか。

 

「自分が死んでも太陽は昇る」という考えは、実は「他人が死んでも…」を「自分」と言い換えただけ、自己の死が実感できず、それを他人事のように見ているときにだけいえる言葉である。本当に死が自己の現実になったとき、それは「自分の太陽は二度と昇らない、永久に昇らない」という形でしか、人はそれを捉えることができない

 

_そこで、「日よ、もう一度昇ってくれ」という願いになり、同時に、沈みゆく太陽に照らされた岩が脳裡にじかに焼き付いてしまう。多くの人が印象深く語る戦場の落日は、おそらく、生の希求のもっとも切実な表現なのであろう。」

 

「運命はわからない。粕谷軍曹はジャングルで死に、私は生きて帰った。そしてこの船団はまるで奇蹟のように一隻も沈められずにマニラに入港した。前掲の石塚中尉の日記をまた引用させて頂く。

 

「六月十三日(月)晴。リンガエン湾を夜間通過す。十六時コレヒドール島の傍を通過す。防潜網のためか方位測定しつつ進む間に、戦跡を船中より望見す。二〇時三〇分キャビデ軍港を見つつマニラ沖着。白亜の建物林立し上陸が楽しみなり。

 

護衛艦の先制攻撃により数度の潜水艦攻撃にも損害を受けず、一隻も損害なしとは殊勲甲なり。(戦後調査するところによれば十九年六月二十二万五千トン撃沈せられ、門司をわが船団より一足先に出発せる高速船団は空母護衛なるにかかわらず敵潜により大損害をうけ、後続船団はまた中国大陸よりするB29の北九州第一回の爆撃隊により損害をうけ、わが船団のみこの間に八ノット(一説には五・五ノット)の低速船団でありながら損害皆無なり)。」


マニラに上陸した時、護衛の駆潜艇の海軍士官も、これを奇蹟だと言った。しかし同時に彼は眉をひそめて、「おそらくどこかがやられるのでしょう」とも言った。(略)

 

私はそれを読み、今まで全く知らされていなかった実情の一端を知り、そして目の前のマニラを見て、しがらく茫然としていた。東亜解放のため血を流しているはずのわれわれは、実は怨嗟の的であったのだ。

 

今ならそれが常識であろう。だが今日の常識も後にこれを振り返れば、同じ程度に危険なものかもしれぬ。驚いたのが私だけなら、私だけが無知だったのであろう。だが私よりはるかにまじめに、あの船内ですでにそれを読んでいた石塚中尉は、その日記に次のように記している。


「六月九日(曇後細雨)五時、爆雷攻撃開始、敵潜一撃沈の勝報に接す……比島情報綴りを借りて一読するに建国直後の満州と同様か口に反日匪賊の多いのに驚く。内地では比島は日本占領後平和な国となっていると思っていただけに、思いもよらぬ情報なり……」」

 

 

(石の雨と花の雨)

「「週刊朝日」49年2月1日号の、森本哲郎氏と田中前首相令嬢、田中真紀子さんの対談の中に、次の会話がある。

森本哲郎   こんどの五カ国訪問旅行の感想を、ひとことで言うとすれば、どういうことになりますか。

田中真紀子  東南アジアと申しましても、みんな違いますので、それを一括して、あのへんはどうだとか、アジアはひとつだとか言えませんね。


森本  絶対に言えませんよ。日本人はすぐ、アジアはひとつだなんて言いたがるけど、ぼくはあの言葉が日本人のアジア観を誤らせてきたと思います。……

この会話の結論は一言でいえば、「日本で言われるアジアなるものはない」ということであろう。「アジアはない」、そう、確かに「アジアはない」。私は、戦後三十年たって、活字になった「アジアはない」という言葉に、やっと巡り会えた。

 

そしてこれを読んだ時、何やらほっとした安堵感とともに、二人にお礼を言いたいような気持になった。だが、この言葉は、誰にも注目されず、消えてしまったように思われる。そして相変わらず横行しているのが、「アメリカはアジアの心を知らなかった」といったような言葉である。(略)

 

三十年前、何百万という人が、入れかわり立ちかわり、東アジアの各地へ行った。私もその一人だった。そして現地で会った人々が、自分のもっているアジア人という概念に適合しなかったとき、

 

「こりゃ、われわれの”見ずして思い込んでいるアジア人という概念”が誤っているのではないか、否、この広大なユーラシア大陸の大部分を占める地に、「アジアといった共通の像”があると一方的に決めてしまうのは誤りで、単なる一人よがりの思い込みではなかったのか?」
と反省することが出来たなら、日本の犯した過ちはもっと軽いものであったろう。


われわれは、否、少なくとも私は、残念ながら当初は、そういう考え方・見方が出来なかった。そして、自己の概念に適合しない相手を見た時、多くの人と同じように私も、いとも簡単に言ってのけた。「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」。ピリ公とはフィリピン人への蔑称である。そして、アジアの各地で、実に多くの人がこれと似た言葉を口にしていたことを、戦後に知った。

 

これはどういうことであろうか。自己の概念に適合しなければ、自己の同胞をすら、「非国民め」と村八分にする精神構造から出た「非アジア人め」という相手を拒否する言葉だと思うが、一体なぜわれわれは、こういう場合、自己の持っている”アジアと言う概念”の方を妄想と思えないのであろうか。(略)

 

海兵隊によるベトナムからの米人引き揚げ作戦の報道は私を憂鬱にした。何万という難民がそのあとについて脱出していくが、石を投げる者はいない。


その記事の一つ一つは、しまいには、読むのが苦痛になった。形は変わるが三十年前我々も比島から撤退した。だれか、われわれの後について来たであろうか。もちろん事情は違う。

 

私は言うのは本当について来てほしいということではない。だれかが、「日本軍のあとについて脱出したい、しかしそれは現実にはできない」と内心で思ってくれたであろうか、ということである。もちろん何事にも例外はある。

 

しかしわれわれは、アメリカ軍と違って、字義通りに「石をもって追われた」のであった。人間は失意の時に、国家・民族はその敗退のときに、虚飾なき姿を露呈してしまうのなら、自己の体験と彼らの敗退ぶりとの対比は、まるでわれわれの弱点が遠慮なく、抉り出されるようで苦しかった。

 

そしてその苦痛をだれも感じていないらしいのが不思議であった。というのはそれは三十年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように私に思い出させたからである。

 

私も同じ体験を記したことがあるが、ここではまずその時点の正確な記述である故小松真一氏の「慮人日記」から、引用させていただこう。

 

「……「バカ野郎」「ドロボー」「コラー」「コノヤロウ」「人殺し」「イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)」憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れが飛んでくる。パチンコさえ打って来る。隣の人の頭に石が当たり、血が出た……」

これは二十一年四月、戦後八カ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落ち着きがあるが、これが二十年九月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中を引かれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、八つ裂きのリンチにあうのではないかと思われるほどであった。

 

だが、サイゴンの市民は、「アジアの心を知らない」米軍に、一個でも、石を投げたであろうか。

 

護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた。考えてみれば、われわれは「護送」において常にここまではしていない。内地でも重傷を負ったB29搭乗員捕虜を、軍が住民のリンチに委ねた例がある。だが、私とて、もし「親のカタキだ、一回でよいから撲らせてくれ」などと言われたら、威嚇射撃でこれに答えることは、できそうもない。

 

だがこの一回が恐るべき状態への導火線になりうる。そしてこれが、後述する日本的中途半端なのである。」

 

「戦争末期、特にレイテ戦の後で、小舟艇でレイテを脱出して付近の島に流れ着いた、戦闘能力なき日本軍小部隊への集団リンチの記録は、すさまじい。
これらについては、もちろん日本側には一切資料はなく、戦争直後に、比島の新聞・週刊誌等に挿絵入りで連載された「日本軍殲滅記」から推定する以外にない。(略)

 

ベトナムの記録を調べても、このように悲惨な、「米兵落ち武者狩りの記録」といったものはない。では、彼らが人道的民族でわれわれが残虐民族だったからか。この図式は、戦争直後は断固たる「神話」であったが、今では「米軍人道主義軍隊神話」など、信ずる人はいるまい。

 

では何からこの差が出るのか。「いやそれは違う、この二つを対比することは土台無理な話だ……」という反論は当然に出るであろう。私自身かつて、一心にこの反論をやったのだから。もちろんその時はまだベトナムはなかった。従って題材はバターンであり、それが論じられた場所は、戦犯容疑者収容所であった。

 

憎悪と投石と罵声の雨の中で、人は平静でいられるであろうか。不思議なほど平静で、彼らの表情とゼスチュアも、奇妙にはっきりと目に入る。小松氏もそう記している。だがこれは平静というより空虚と言うべき状態であろう。心の中は完全な空洞になり、それがまるで筒のようになって、自分を支え、一見、毅然とも思える姿勢をとらせているが、心には何一つない、と言う状態である。


そしてその筒は、硬直した無視と蔑視で出来ており、安全地帯でホッとした時、その筒が微塵にくだけてがっくりする。と同時に、くだけた筒に火がついたように、煮えたぎる憎悪がむらむらと全身に広がっていく。そしてそれが一応落ち着くと、奇妙な諦念と侮蔑にかわる。

 

私があの問題を取り上げたのは、ちょうどそういう心理状態のときだった。そしてその背後にあるのは「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」という、「アジアという妄想」に基づく、抜き難い偏見であった。

 

「どうせやつらは、そういう民族なんだ。骨の髄まで植民地根性がしみこんでやがる。敗者には石を投げ、勝者には土下座する。確かに我々は敗れたさ、だが、やつらにゃ敗れる能力もないくせしやがって、そういうやつらなんだ、石しか投げられないのは……」
呪詛のようにこういう言葉が延々と続く。まるで自分の創口をなめるように。(略)


「違いますぜ、そりゃあ_」。収容所で、私の斜め前のカンバスベッドから、Sさんが言った。(略)
殆ど口をきかず、口を出さず、何か言う時は呟くように言う。温和そのものの人だが、その目には一種の冷たさがあった。

 

その彼が不意に言った。「違いますぜ、バターンの時は違いましたぜ」。私は驚いて彼の顔を見た。当時「バターン」は禁句だった。バターンの死の行進に、何らかの形でタッチしたなどとは、絶対だれも言わなかったし、ききもしなかった。

 

彼は、一兵卒から叩き上げた老憲兵大尉であり、あの行進のとき米軍の捕虜を護送した一人であった。彼は言った。あの行進のことはだれも絶対に口にしない。だからあなたは何も知らないだろう。


石の雨ではない花の雨が降ったのだ。沿道には人々がむらがり、花を投げ、タバコを差し出し、乾いた者には水を飲ませ_それがどこまでも続く。追い払っても追い払ってもむだだった。

 

「全く、あたまに来ましたよ、あれにゃ。でもわかるでしょ。彼らだって別に、いつも敗者に石を投げ、勝者に土下座するわけじゃありませんぜ」
では一体なぜ彼らには花を、われわれには石を_、彼らはマッカーサーの「アイ・シャル・リターン」を先取りしたのであろうか。そうではない。(略)

 

では一体なぜか。(略)
しかし少し調べれば、自分の呪詛が、結局自己を語っているにすぎないこと、言い換えれば、自らの尺度で相手を計っているにすぎないことに気がついたはずだ。というのは、その時点では、フィリピン人ゲリラが、比島解放の”英雄”だったはずだ。だがその時でも、彼らはこの”英雄”を「勝てば官軍”とあがめていない。ゲリラのうちフィリピン人に残酷なことをしたものを、その勝利の暁に堂々と裁判に付している。


一方対日協力者は、対日協力者であったという理由だけで処刑はしていない。従って比島には、厳密な意味での”戦犯”はいない。それが一見きわめて感情過多に見える彼らが、あの戦争直後の集団ヒステリー的状態の中で行ったことなのである.


このことは、彼らには彼らの哲学とそれに基づく規範があり、それがわれわれとは別種のものであることを物語っている。従って花を投げるにも石を投げるのも、彼らには彼らの規準があったのである。」

 

「われわれは、今の人以上に、比島については知っていた。ホセ・リサールやアギナルドの名は、今の「ホーおじさん」ほどではないにしろ、植民地独立闘争の英雄としてよく知られており、少年向きの伝記まで出ていた。

 

従って、一八八八年(明治二十一年)ホセ・リーサルがイスパノ・フィリピノ連盟を組織し、九二年フィリピン連盟を創立、九六年に処刑され、同年にアギナルドが比島独立宣言を発する、しかし新総督の懐柔政策に敗れて香港に亡命する。

 

そして米西戦争勃発と同時に米軍を背景に独立軍の指揮をとり、九八年フリピン共和国を樹立する、しかしパリ条約でフィリピンは米領となったので、全島にわたる激烈な反米闘争を展開する、しかしこれに行き詰った彼は、将来の独立の約束のもとに降伏し、引退した。と言った程度のことは、断片的にはだれでも知っていたと言ってよい。

 

また比島の各市町村の役場には、それに面した教会の前にマリア像が、市役所の前には国父ホセ・リーサルの像が立てられていることも知っていた。だが、当時の新聞、雑誌に描かれたそれらの像は、結局”アジアという妄想”のフィルターを通して、それに適合するように変形され、彼らの姿はまるで、「スペイン名を名乗る維新の志士」のようであって、結局、アジアという妄想に具体性を持たせる役割しか演じていなかった。


そして人々はそれしか知らず、それをフィリピンと信じ、現地に行ってそのイメージに適合しない事態にぶつかると、ただ失望し、期待を裏切られて腹を立て、あげくの果ては「ピリ公なんざぁ…」という言葉を吐くだけであった。いわば「何も知らなかった」以下の状態でありながら、何かを知っていると錯覚していたのである。

 

もちろん私もそうであった。ただほかの人たちと少し違った点があるとすれば、それはフィリピンの大部分がカトリック圏に属していることを知っていたことと、カトリックに対してある程度の常識は持ち合わせていたことであった。

 

ベトナムカトリック教徒もそうだと聞いたが、彼らはそれを受け入れて既に三百年以上を経ており、それは日本が本格的に朱子学を受け入れたより古く、すでに確固たる民族的伝統を形成している、と言った程度のことは知っていた。とはいえそれも、一つの具体性をもつ「現場の知識」ではありえない。」

 

「だが、日本軍の「ヘイタイさんはそれどころではない。何も知らず、通訳もいない。そのうえ作戦上の必要とあれば、日本の存在すら知らない山間僻地に行き、外国人に接したこともない人々の民家に分宿し、「華僑との物交で必需品を入手しても紙幣を見たことがない」人から軍票で物資を購入して生活し、そのうえ、情報収集や道案内等で、住民の協力を得なければならない。」

 

 

「だが何よりも大きな問題は、日本軍に「アメリカと戦うつもりが全くなかった」と同様に、フィリピンという一国を占領し、実質的にこれを統轄するつもりが全くなかったということである。言うまでもなくこの「つもり」は、「だれも知らぬ対米戦闘法」でのべた意味の「つもり」である。

 

一国を占領する、それならばまずその国の兵要地誌はもちろん、歴史・伝統・民俗・言語等々を徹底的に調べて、それぞれの専門家を養成しておくのが順序であろう。


たとえ「どろなわ」でも、アメリカの海軍日本語学校のような速成教育機関をつくればまだよい。だが、そういう準備は皆無であり、むしろ「英語教育禁止」という逆行になり、その情況では、タガログ語の専門家などいるはずもなかった。

 

最近ある雑誌で、ソ連にはタガログ語の専門家がいることを知り、「さすがは…」と感心したが、日本軍では、幹部ですら、タガログ語の存在すら知らなかった。(略)

それでいて参謀本部は、昭和初期から南方方面占領の作戦計画だけは立てており、その際、占領軍が「現地自活」することは、既定の方針だったという。このこと自体が、いかに現地に対して鞭であり、何一つ真剣に調査していなかったかの証拠といえよう。


陸軍は、次章で述べるが、比島の基本的な経済力とその特殊性さえつかんでいなかった。これは全く、正気の沙汰とは思えない。」

 

(現地を知らぬ帝国陸軍

 

「陸軍は、比島派遣軍を現地で自活させるという方針を取りながら、現地の実情には全く盲目であった。そしてその無知はまず基本的な問題「食糧問題」で露呈し、ついでその露呈は、宗教問題・社会問題・男女の問題からあらゆる問題へと及んでいった。

 

おそらく軍は、「南方は食糧の宝庫、年に三回米がとれる。だから、少し指導してやれば、軍の自活は可能だ」ぐらいのことを考えていたのであろう。だがこれこそ「完全なる無知」の表白であって、戦前の比島は、年々約三百万石の米を輸入していた。農業国なのになぜ米を輸入するのか、技術が低いのか怠惰なのか?


そうではない。私は現地で麻のプランテーションをの見て、はじめて「農業国」と言う言葉で日本の農村を連想してはならないことを知った。高名なマニラ麻、かつてこの種の麻の世界市場で九三%のシェアを誇ったプランテーションは、農業と言うより「農産工業」とでも言うべきもので、その広大な麻畑は、繊維しか生み出さないという点では、ナイロン・プラントと変わりはない。(略)

 

そしてそういう状態でプランテーションの中に迷い込めば、畑の真ん中で餓死しても不思議ではない。だがこの「畑の真ん中で餓死しうる」という状態が「農業国」という言葉から浮かび上がってこないから誤解する。
軍の誤解はここにあったと思うが、しかし、この点の認識は戦後の人間も変わりがないように私は思う。」

 


「一方、マニラやバギオ等の大都市は、主として輸入された三百万石で生活しており、輸入先はサイゴンで、十九年の十月頃でもここで食べる米は細長いあのサイゴン米であった。この米を握っているのは華僑、そしてこれが途絶すれば、たちまち食糧暴動が起きて不思議ではない。

 

一方、山岳州には「高地人」のイゴロット族が住み、ここの主食はイモで、自給自足である。私はこの地方を知らないが、ここに撤退した人々の話によると、撤退してきた部落が、おそらく数家族用と思われる山畑のイモを全部食べつくす。すると次に来た部隊はイモの葉を食べつくす。その次の部隊はイモのツルを食べつくす。青々としたイモ畑は、たちまち赤土の山肌に一変する。

 

中国人は皇軍をもじって蝗軍と言ったそうだが、まさに蝗軍である。そしてイナゴが青いものを食いつくして斃死するように、日本軍も、その殆どが餓死した。アメリカの戦史は短くかつ冷酷にこれを記している。
「尚武集団(比島派遣第十四方面軍)の殆どすべては餓死である」と。(略)

 

フィリピン人は、元来は、必ずしも親米ではなかった。むしろ逆であった。だが上記の諸要素が、少なくとも当時迄は非常に強い反米感情をもっていた人々まで、無理矢理「親米」に追い込んだ。そのよい例がミンダナオのイスラム教徒モロ族である。

 

彼らは反マニラ・反米のかたまりだったのだが、大規模な抗日の火蓋を切ったのは、彼らであった。昭和十七年九月ミンダナオ島ダンサランの守備隊一個中隊がモロ族の攻撃をうけ、文字通りに一人残さず殺された。そのあとは全島一斉蜂起である。(略)

 

だが軍はまだ事態の真因がつかめていなかった。妄想と錯覚は余りに強かった。
そして、とんでもないことになったと感づいたのは、十九年に入ってからではなかったろうか。(略)

 

しかし、兵力が増せば増すほど食糧問題と文化的摩擦は激化し、ゲリラは幾何級数的に勢力を増大していく。というのはその勢力は「数」では計れず、日々の生活に忙しいため必然的に中立的になる住民が、どちらに傾くかで決まるからである。」

 

「例を一、二あげよう。たとえばセックスの問題である。確かにマニラに街娼はいるが、この国はカトリック圏に属するから、元来は性に峻厳で、離婚もない。宗教的戒律というものは、本家より辺境の方が厳しくなるものらしく、ローマよりスペイン、スペインよりフィリピン、フィリピンでもマニラより地方の方が厳しいそうである。

 

戦争中、日本人と結婚したフィリピン女性が、戦後、夫の生死が不明なので、離婚を認めてくれるよう裁判所に訴えたが却下されている。また婦女暴行は許されざる罪で、戦後、輪姦をした五人のフィリピン男性がみな死刑の判決を受けている。

 

これは今の日本でも考えられないことだが、当時の日本の農村に残っていた「夜這い」などは、このことを考えればとんでもない結果になる。
だがsろえでいて、当時の日本の女性とフィリピンの女性を比べれば、その態度は、後者の方がはるかに開放的であり、一言でいえば驚くほどセクシーであった。その差は、戦前の楚々とした日本女性と、現代女性との差より大きかったであろう。

 

何も知らない兵士たちは、これをひどく誤解し、「ああいう態度をしてウィンクしたのだから、これはきっとこうなのだ」と一方的に思い込んでしまう。いわば「イタリア男の甘言に弱い日本娘」の逆現象に似ているが、この場合は相手にその気が全くなく、彼女たちとしてはごく普通に振舞っているのだから問題である。

 

しかも一方は性的にルーズな伝統にあって罪悪感はなく、他方は極端なほど峻厳なのだから、問題が起れば解決の方法がない。」

 

「だが問題はこれだけでない。この社会は元来はスペイン人・混血児・現地人でなる階層社会であり、日本のような、純粋培養同一民族社会ではない。そしてそれらに基づく一種の常識の差は、時にはとんでもない事件を起こす。


南方総軍司令官寺内元帥が司令部とともにマニラに移駐して来た時、胴元帥はオープンカーで市内を行進した。それを見たフィリピン人が「あの顔を見るとどうもドイツ人の血が混じっているらしい。そうでしょ。ドイツ人は戦争がうまいから、あの人を雇って軍司令官にしたんでしょ」と何気なく日本人に話しかけ撲り倒されたという話があった。(略)

 

一方にとっては「混血児が元帥」は「天皇の軍隊」への侮辱だが、一方にとっては、戦争とは元来その程度のことdふぇ、戦争がうまいドイツ人との混血児が司令官になって当たり前のことである。」

 

「他の例は除く。確かにこれらは、今でもどうにもならない問題かも知れぬ。だが一国を占領して統治しようというなら、その国の基本的経済機構と、社会組織の実態や男女関係の基本ぐらいは予め徹底的に調べて、それに対策を立てておくのが常識だったであろう。(略)

 

それらの何も知らぬ兵団の兵士が、誤解に誤解が累積した錯覚の連鎖の中で、ただ、あがきにあがいておかした多くの罪過の責任は、彼らの個人個人だけにあるとは、私は思わない。
そしてわれわれは、文字通りに「石をもって追われて」この国を去った。だれもついて来るはずはあるまい。」

 


「日清・日露の勝利と誇らしげに言う。だが当時の清朝は長髪賊の乱以後の清朝、日本と清朝の戦いを中国人は第三者的に眺めている。日露となればこの関係はさらにはっきりしている。


従ってこれらの場合は、相手の戦闘力を破砕すればそれで万事終了であり、そのことと、「ロシア本土でロシア軍と戦う」こととは全く別である。いわばお互いに土俵を借りて戦っているのであり、この場合には、相手を倒した瞬間に観客が総立ちになって自分に向ってくることはない。


だが一国の占領とは、これとは全く別のことなのだ。中国との戦争の苦い苦い体験は
それを日本人に教えたはずなのに_だが迷妄は簡単には醒めない、昔も今も。

 

このことは緒戦当時の対比作戦の跡をたどれば、誰の目にも明らかである。バターンの戦闘が終わり、在比米一個師団を主力とする比島軍数個師団が降伏し、その戦力が破砕されると、日本軍はすぐさま主力をジャワに転用した。残されたのは約二個師団、三万人。

 

だが七千の島々を含む全比島に、警視庁機動隊より少人数の兵員を残して、何の意味があるのであろう。
だがそのうえ日本軍はきわめて”人道的”な措置をとった。すなわち十五万五千人の比島人捕虜をすぐさま釈放し、残した一部も十八年十月の”独立”の際に全部釈放した。

 

だがその時にも、山岳州の米比軍一一四連隊はそのまま残っており、彼らの多くはそれに合流した。そしてこの連隊は米軍再上陸までがんばりつづけている。

 

この処置の背後にあるものは、「戦闘は終わったから戦争は終わった、われわれはアジアを解放に来たのだから、全員が双手をあげて歓迎し、心から協力してくれるはずだ」という、一方的な思い込みであろう。

 

だが本当にそう信じているなら、二個師団を残さず、全部撤退して全てを比島政府にあせ、文官の”弁務官”を置いておけばよいはずである。そして、この政府に日米間の中立を表明させ、比島全域を戦闘区域から除外しておけば、これは歴史に残る「大政略」であり、おそらくわれわれは、変わらざる友邦を獲得できたであろうし、又兵力の転用集中においても有用であったろう。これはいわばイギリス式行き方である。(略)

 

しかし、その決断は、「成規類聚」の権威(?)東条首相にできることではなかったし、また形を変えた似た状況の場合、いまの政治家にできるかと問われれば、できないと思うと答えざるを得ない。


日本には総合的な政戦略が基本だという発想は無かったし、またそれを立案する者も、その案を基に決断を下す者もいなかった。今もいないのであろう。


また徹底的に比島を制圧するつもりなら、それは、スターリンが東欧で行ったような方法しかなかったであろう。「従兄弟集団」で動く混血階層社会を徹底的に分断寸断し、恐怖と懐柔を併用し、KGB収容所群島を創設し、一切の情報を遮断して鉄の規律に基づく徹底的教育を行い、「名親を日本軍に密告するのは立派な事だ」と子供に信じ込ますまで徹底すれば、事態はまた別かも知れない。しかしそれは日本人にとって結局、「言うだけで行えない」ことなのである。


第一、それを正しいと信ずる哲学も伝統も、またそういう戦い方をした宗教戦争と言う歴史も、また各自が心底から絶対化しうるイデオロギーもわれわれにはない。そして自分も信じていないことを、人に信じさせることはできないし、また相手の社会機構を完全に知り尽して、その弱点をつかない限り、この方法は不可能である。

 

”自転”する自軍の組織にさえ介入できない日本人に、どうしてそんなことができよう。
日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついて全てを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。


結局中途半端な者には戦争の能力はないのだ。


われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。
知らないなら「無能」なのが当たり前であろう。そして「戦争や占領統治に無能」であることを何で恥じる必要があるであろう。


そして戦争に有能な民族を、何で羨望する必要があるであろう。なんでその「中途半端なまね」をする必要があるであろう、ないではないか。われわれにはわれわれの生き方がある。


それを探求し、合理化し、世界の他の民族の生き方と対比し、相互理解の接点をどこに求めれば良いかを、自分で探求すればそれで十分ではないか。

 


三十年前われわれは東アジア全域から撤退した。軍事的再進出の可能性を主張する声は「日本軍国主義復活」の掛け声に唱和する声が消えるとともに消えた。だが経済的進出はおそらくまだ続くであろう。


もちろんいずれも進出の時もあれば撤退の時もある。撤退は撤退で良い。問題はその撤退のあとをその地の人々が追うか、あるいは石をもて追われるかの違いだけであろう。」


〇 「日本人に戦争は無理だ。そういうタイプの民族ではない。」というふうに、「自分を知っている」というのは、とても大事だと思います。山本氏は、そのことを具体的な体験を語ることで、知らせてくれていると思います。

この国の政治家に戦争は無理です。
そして、この国の人間が原発を扱うのも無理です。
現実や真実をしっかり見て対処する能力に欠けているからです。


現在、経済的理由で「移民」を大勢受け入れることになりました。既に沢山の外国人労働者が日本国による「酷い扱い」で、行方不明になっているという報道があります。

移民を受け入れるなら、規範や価値観も「世界基準」に倣うものにしなければならないと思います。あらゆる人を人として大切に扱うという基準に。

それが出来ず、日本独自のやりかたでやる、というのなら、移民は受け入れず、縮小した経済でこじんまりと貧しくても穏やかに暮らすという国を目指すしかないと思います。

「中途半端は人を傷つけ、自分も傷つき、何も得るところがなく、全てを失う」
その教訓を肝に銘じるべきだと思います。
今、それがとても心配です。