読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(死の行進について)

野坂昭如氏が「週刊朝日」50年7月4日号で沖縄の「戦跡めぐり」を批判されている。全く同感であり、無神経な「戦跡めぐり」が戦場にいた人間を憤激させることは珍しくない。

 

復帰直後のいわゆる沖縄ブームの時、ちょうど同地の大学におられたS教授は、戦跡への案内や同行・解説などを依頼されると、頑として拒否して言われた。「せめて三十キロの荷物を背負って歩くなら、まだよい。だがハイヤーで回るつもりなら来るな」と。


同教授はかつて高射砲隊の上等兵であった。末期の日本軍が十日近くかかって這うように撤退した道も、ハイヤーなら一時間。「そこを一時間で通過して、何やら説明を聞いて、何が戦跡ですか。その人はその地に来たかもしれないが、戦跡に来たのではない。それでいて何やかやと深刻ぶって書き散らされると、案内などすべきではなかったという気がする」と。

 

その通りである。戦争において、今の人に一番わかりにくいのはこの点ではないかと思う。事情は比島でも同じである。たとえば有名な「バターンの死の行進」がある。これは日本軍の行った悪名高い残虐事件で、このため当時の軍司令官本間中将(当時)は、戦犯として処刑された。


ではこの残虐事件の現場を、ハイヤーで通過したらどうであろうか。おそらくその人には、この事件も処刑の理由も、何一つ理解できないであろう。それではもう「戦」跡ではない。

 

この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全工程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。


武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日ニ十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻政信・私物命令事件」を別にすれば_。


ハイヤーでそこを通過した人は、簡単に断定するであろう。「それは勝者のいいがかり、不当な復讐裁判だ」と。だがこの行進だけで、全員の約一割、二千と言われる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。


三カ月余のジャングル戦の後の、熱地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。まして沖縄での撤退は_確かに、ハイヤーで通過しては戦跡でない。

 

だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われた時の我々の心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的規準では温情をもって待遇したからである。

 

日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのは当たり前であった。そしてこれは単に行軍だけではなく他の面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。


_こういう背景から出てくる本間中将処刑の受け取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄への行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」。


当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。」

 


「この「差」は本当に説明しにくい。子供がレービンの絵「ボルガの舟曳き人夫」を見、その悲惨な姿に「ひどいなあ、これじゃ革命が起こってあたりまえだ」と言う。
私は思わず「ひどいもんか、日本軍はもっとひどい。第一、舟ならエンカンで殴り倒される心配はない」と言う。

 

「エッ、エンカンって何、だれが撲るの?」ときかれただけで、この一事の説明ですら不可能に近いと一種”絶望的”になってしまう。_エンカン、轅稈、それを横だきにしたまま、精根つき果てて放心したように土に膝をついている一兵士の蒼白の顔_それを見たのは、確か昭和二十年の一月中ごろのことであったが_

 


重荷なき百キロが「死の行進」で、三十キロ背負って三百キロが「地獄の行進」なら、そのうえ、三トンの砲車と前車を「舟曳き人夫」のように曳いて三百キロ歩くことは、一体、何の行進と言ったらよいのか。

 

それはもう、それを見た者以外には、想像できない世界である。私は後述する”死の転進”をせず、アパリ正面の陣地に残されたが、その転進がどんな情景になるかは、これから転進しようとする人たちよりも、よく知っていた。

 

部隊はジャングル内の陣地に入ったが、私だけtが後方連絡と補給のため五号道路(国道)ぞいの小家屋に残っていたため、ゴンザガ東方に上陸してバレテ峠へ向かう第十師団の砲兵の「地獄の行進」を、すでに見ていたからである。(略)

 

すでに雨期、しかも昼間は行動不可能、夕方から明け方にかけて、全身濡れねずみになりながら、彼らは続々と南下していく。雨に打たれてさえ、はっきりわかる、若々しい元気な現役兵。すべてがきびきびしており、南方ずれ・戦地ずれしたわれわれの目には、まるで本物の「日本軍」が出現したように見えた。

 

「さすがは関東軍の精鋭だ、おれたちのような員数師団とはわけが違うな」などと言いつつ、彼らを見送っていたが、いつまで経っても砲兵が現れない。


まさか「砲兵抜きではあるまいに」などと言っていたところ、一月中旬の珍しく雨の降らぬ静まり返った深夜、横にいたO伍長がいきなり「砲兵だ」と言った。耳をすますと「コト……コトコト……コト…」というあの独特の車輪の音がする。これは日本軍の砲車が、砲架の下の車軸に木製・鉄環の車輪をはめ込んで止めただけというお粗末なものだったので、動くたびに車輪が細かく左右にずれて留金にあたり、絶えず「コトコト」という独特の音を立てるからである。

 

車輪と軸受けが、原理的には徳川時代の大八車と同じだから、南方では馬はダメだと言っても、すぐにトラックで曳行するわけにはいかない。車軸が焼き切れてしまう。車輛舞台に改編する場合は、ベアリング入りゴムタイヤの四輪トロッコ上に砲車を乗せて引っ張った。

 

車輪の上にまた車輪が乗る、この珍妙な機械化部隊の写真は、古いグラフ誌などに載っているかもしれない。が、そのトロッコも曳行するトラックも、すでにない。だがこの「コトコト」は、当時のわれわれには、懐かしい音であった。(略)

 

彼は言った。「おたずねしたい。この付近で軍馬は徴発できぬか」。「エ、エー」驚いた私は、尻上がりの変な声を出した、「グンバァ」。相手の言っていることが余りに非常識だったからである。


だがそう言ってから、これは余りに失礼と気づき、相手を家に招じ入れた。
暗い灯火の下で、長い船艙生活と今日までの臂力搬送(人力曳行のこと)の指揮で、すっかり憔悴し切った髭だらけ垢だらけの顔で、目だけ光らせながら彼は言った。


船腹に余裕がないから馬は積載できぬ。現地で徴発せよと言われてきたと。だが、ゴンザガ東部の海岸に上陸して見ると、馬はもちろん、人の子ひとりいない。上陸以来、はじめて会ったのが貴官であると。

 

「またか」私は内心で叫んだ。そしてイライラして来た。何度も何度も私自身がこの種の煮え湯を飲まされてきた。比島が、まるで兵器・弾薬・食糧・機材の厖大な集積所であるかのような顔をして、「現地で支給する」「現地で調達せよ」の空手形を濫発しておきながら、現地ではその殆ど全部が不渡り、従って私はもう、何も信用していない。

 

そこへ、「現地で軍馬を徴発せよ」と命じられたのだから「現地で軍馬が徴発できる」と今の今まで本気で信じ切っていた人間が現れたのである。(略)

 

比島には馬はいない。いるのは、人力車に毛の生えたような小馬車をひく特殊な小馬(ポニー)だけで、これを何頭つないだとて、到底十五榴の重輓馬の代用にはならない。だがそれすら、もういない。


「馬がいなくても水牛が使えると聞きましたが……」と彼は哀願するように言った。私は答えた。確かに現住民は、重い車をひくときは水牛を使う。だが、水牛は時間を無視した南方式単距離輸送以外には使えない。


理由は、一日三時間は水に入れてやらねば、すぐ弱ること(汗腺がないため?皮膚呼吸ができないため?)。第二に、濃厚飼料を受け付けず、生草すなわち地面に生えている草しか食わぬ。従って食餌量が膨大なうえ携行は不可能、しかも食餌に長時間を要する。


第三に蹄鉄をつけていないから、堅い石だらけの道路はごく短距離しか歩かせられない。第四に、以上に応じた管理法と馭法がわからぬから、現地人もともに徴用しなければ、すぐ廃牛になってしまうこと。(略)

 

彼は半信半疑で私の言葉を聞いていた。そして、うめくように言った、「せめて後馬だけでも何とかしたい」。
私は黙った。そして彼に対して切り口上だったことを恥じた。彼の言葉がどれほど切実かはよくわかる。この言葉はドライバーが「せめてハンドルだけはつけてほしい」と言っているに等しいからである。」

 


「大きな方向転換はもちろんまず前馬の向きを変えることではじまるが、小さなハンドルさばきは、一に、後馬馭者の鞭と手綱にかかっている。砲車は前車に繫駕(連結)して四輪となるが、その状態は四輪車というよりむしろトレーラーに近い。


この前車の前部の中央から、ほぼ後馬の体長いっぱいに太い頑丈なカシの棒がのびており、先端に鉄鎖が二本ついている。これが最初に記した轅稈で、轅稈端の二本の鉄鎖が、後馬の輓具の胸の付近に連結している。これがこのトレーラーのハンドルで、また急ブレーキである。

 

馬を右によせれば轅稈も右方向へ向き、それによって前車が右へ進むから、砲も右へ引っ張られて行く。左へ曲がる時も同じである。また急停車のときは力いっぱい手綱ひいて後馬に前肢をふんばらす。すると勢いのついた砲車に押されて、轅稈はぐーんと前に突き出る。


轅稈端の鉄鎖が輓具についているから、馬がふんばってくれるかぎり、砲車はとまる。ただ反動でブーンと轅稈端がはねあがり、鉄鎖が千切れそうにピーンとはる。従って後馬は、馬格が大きく力もある最大最強の重輓馬である。(略)

 

 

 


「臂力搬送(人力曳行)は、短距離ならばもちろん不可能でない。このときトレーラーのドライバーは、轅稈端の鉄鎖をでロ-プで轅稈に縛り付け、そこを左わきにかかえ、同時に右手でぐっとこれを押さえて体に固着させ、体ごと左右に移動して「運転」する。そして他の砲手は、砲に曳索をつけて、「ボルガの舟曳き人夫」のような姿勢でひく。

 

豊橋でもこれをやったことがあるが、通常これは訓練よりむしろ処罰であって「気魄がたらん!なんだその動作は。それで将校生徒か!蒲郡まで臂力搬送」と言った場合に行われるのが普通であった。


平坦な舗装道路でも、轅稈端の保持はきつい。道路の凹凸によって前車の右車輪・左車輪が交互に前に出るような形になると、轅稈端は絶えず右へ左へとものすごい力でぶれる。いわば、体ごとハンドルにふりまわされる。これが悪路で一方の車輪がごろんと凹部に落ち込むようなことになると、轅稈端は、人間をはじきとばすような勢いでその方へぶれる。まして一方の車輪が溝に落ち、前車だけがぐるっと六〇度もその方向へ向き、そのとき、ついうっかりして轅稈をしっかり抱いていないと、文字通りに轅稈に撲り倒される。


何しろ、重輓馬二頭で行う方向の維持・転換・制御を一人間がやるのだから_。(略)

 

「せめて後馬だけでも…」そういった彼の部下が歩いて来た道_ゴンザガからドゴの三差路へ出て、五号道路を私の所まで_は、どんな道だったであろう。(略)

従って五号道路はズタズタ。戦車壕・対戦車地雷・対戦車陥穽が左図のように作られ、しかも九月から始まった雨期は、それを、もう道路とは言えないような状態にしていた。(略)

 

この道を、夜間、雨の中で、轅稈を人間が横だきにしながら砲車をひいてくるとは_これはもう拷問とも「地獄の行進」とも言えぬ、それ以上ひどいことで表現の方法がない。


「これから先には、対戦車陥穽はありません、しかし……」と言って私は口をつぐんだ。もっとひどいものがあるのだが、少しはホッとしたらしい彼に、もう、何も言うにしのびなかった。(略)

 

彼は、覚悟をきめた、というより、自己の意志で自らの思考を停止させたように見えた。「思考停止」、結局これが、はじめから終わりまで、帝国陸軍の下級幹部と兵の常に変わらぬ最後の結論であった。そして、私の部隊がバレテ峠へ転進するときの、部隊長・指揮班長の態度も、また最終的にはサンホセ盆地への撤収以後の私の態度も、同じような「思考停止」であった。

 

そして兵士は、それ以前から「思考停止」であった。O伍長以下は、全員で湯をわかして彼らの水筒を満たしていたが、一行が去ってしばらくして、私は、最初なぜ曳索をひく兵の姿が見えなかったかの謎がとけた。


全員が、暑気と過労で下痢をしており、「小休止」と同時に間髪いれず曳索を放り出して、道路わきでしゃがんだからである。そうなるともう動くだけの無感覚人間である。(略)

 

あの行進を知っている私にはこの言葉は少しも不思議ではない。それは、私への悪意ある言葉ではなく、拷問の果てに殺される者が、あっさりと首を斬られて安楽死した者を見て羨むに等しい言葉である。この行進をやらされたら、だれだってそういうであろう。

 

そしてこの「思考停止」は、兵・下級幹部・上級者へと、いわば下から上へと徐々にのぼっていく。


なぜああなるのか、なぜ思考を停止せざるを得なくなるのか。「戦争とは結局そんなもんだ」ではない。今の今まで「絶対にやってはならない」と教えかつ命じていたそこのとを、最後には「やれ」と命ずるから思考停止になる。否、そうせざるを得ない。(略)

 

人は全知全能ではないから、判断の誤りはありうる。指揮官とて例外ではない。従って、それを非難しようと私は思わない。だが今の今まで「絶対にやってはいけない」と判断を下していたそのことを、なぜ、急に一転して「やれ」と命ずるのか_


「戦闘機の援護なく戦艦を出撃させてはならない」と言いつつ、なぜ戦艦大和を出撃
させたのか。「相手の重砲群の壊滅しない限り突撃をさせてはならない、それでは墓穴に飛び込むだけだ」と言いながら、なぜ突撃を命じたのか。


「裸戦車(空軍の援護なき戦車)は無意味」と言いつつ、なぜ裸戦車を突入させたのか。「砲兵は測地に基づく統一使用で集中的に活用しなければ無力である」と口がすっぱくなるほど言っておいて、なぜ、観測機材を失い、砲弾をろくに持てぬ砲兵に、人力曳行で三百キロの転進を命じたのか。

 

地獄の行進に耐え抜いて現地に到達したとて「無力」ではないか。無力と自ら断言した、無力にきまっているそのことを、なぜ、やらせた。


_戦艦大和の最後は、日本軍の最期を、実に象徴的に示している。出撃の時、連合艦隊参謀の説明に答えた伊藤長官の「それならば何をかいわんや。よく了解した」という言葉。


結局これが、その言葉を口にしようとしまいと、上級・下級を問わず、すべての指揮され、命令され、あるいは説明をうけた者の最後の言葉ではなかったか。あの晩、私の説明に対して、あの中尉も、心の中で言ったであろう、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と。「後馬だけは絶対確保せよ」と教え続けた人間が、後馬なしで彼を放り出したのだから。」

 

「確かに、それまで言い続けたことが虚構で、それを主張した本人が自分でそれを信じていないなら、そしてそれで支障ないなら「どーってことない」であろうが、戦争はフィクションではない。だが戦争以外の世界も、最終的に虚構ではない。

 

その証拠に、もし次のようなことが起こったらどうするつもりか。いま多くの団体も政党もマスコミも、平和憲法は絶対守れと教えかつ言い続けている。だが、私は過去の経験から、また「精神力への遠慮」に等しきある対象への遠慮からみて、その言葉を、それが声高であればあるほど信用しない。一番声高に叫んでいたものが、何やら”客観情勢の変化”とかで、突然クルッと変わって、自分の主張を平然と自分で否定する。


それが起らない保証はどこにもない。それでよいのか。そのとき「それならば何をかんや。よく了解した」と言って、かつての我々のように黙って「地獄の行進」を始めるつもりか_方向が右であれ左であれ。

 

その覚悟ができているなら、この問題はそのまま放置しておいてよい。憲法だけは例外だなどということは、ありえないから。」


〇 先日あの「ジャパン・クライシス」を読んで私は言いました。「(官僚たちは何もする気がないらしい。ハイパーインフレを凌ぐ方が楽だからと。)…と言うのなら、私はそれを受け入れる」と。

それは、まさにこの境地です。
でも、私だって、あの3.11の時、日本人はもっと立ち上がるだろうと思っていたのです。そして、その後のあまりにもひどい安倍政権のありように、もっと皆が怒って行動するだろうと思っていたのです。

私の周りの人はほとんど、行動しません。
そして、今も安倍政権は続き、原発は次々と再稼働されています。

みんなで、力を合わせなければ、何も変えられない。
でも、「力を合わせるみんな」はこの国にはいない。


そうなると、もう、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と言って、
「思考停止」して、ただ今日を生きるしかなくなります。


それでも、心の底の希望は、消えそうで消えません。いつか「力を合わせて」みんなでもっと良い国にしようとする、本物の民主主義の国になったらいいなぁ、
人権が守られる国になればいいなぁと願っています。

 

 

(みずからを片付けた日本軍)

 

「指揮官に呼ばれ、ジャングル内の部隊本部に駆け込むと同時に私は言った。「決心変更ですか?」「うむ」指揮班長のS中尉はむっとした顔で私を見た。傍らの部隊副官I中尉は、私の方にちらっと視線を向けてから、だれに言うともなく吐き捨てるように言った。


「全くな。これがオヤジなら、オヤジ黙ってろと言えるし、会社なら辞表を叩きつけりゃすむんだが…これじゃ、敵があがってもまだ片づかん、きっと」
三人は黙って立っていた。

 

私が言った「決心変更ですか?」という言葉は「師団長はまた決心変更したのですか、そのためわれわれは、また、すべてを新規まき直しでやり直さなければならにないのですか」の意味である。(略)

 

全くやりきれない気がした。参謀が図上で線をひき、前線をこの位置まで下げましょうと師団長に意見具申するのは簡単だし、師団長は鷹揚にうなづけばそれで片づく。

 

だが、現場はそうはいかない。私は、前にも記したが、原隊の連隊長が、米軍がいとも簡単に陣地変更が出来るのが不思議だ、日本軍には不可能だ、と言った言葉を「なるほど」と思い出した。

 

そしてそういう実情を知りながら、それがさらに困難な、手足をもがれたに等しいジャングル内で、いとも軽々と移動を命ずる上級指揮官が不思議であった。こんなことをやっていては、兵士はみな、過労で倒れてしまう。なぜそれがわからないのだろう。

 

こういう命令を不思議と感じたのは私だけではない。前に引用した「慮人日記」にも、「命令には無茶なものがたくさんある。できぬといえば精神が悪いと怒られるので服従するが、実際問題として命令は実行されていない……」とある。(略)

 

それがしまいに、実質的な命令拒否すなわち面従腹背の不履行になって行った。
納得できない一番大きな点は、上級指揮官の抱く「米軍」像が虚構ではないのか、という疑念である。


そしてその虚構に対処するため命令を出すが、現実bの打撃の前にその虚構が常にぐらぐらとし、ぐらぐらするたびに決心変更し、そのたびに前の命令を取り消すに等しい新しい命令を出しては、われわれを「奔命に疲らせる」状態にしているのではないか、やっていることはすべて「指揮官の気休め」で、結局すべては無駄ではないのか、という疑念である。


日本軍の首脳が「こりゃ大変なことになったs。われわれの米軍像はおそらく虚構で、その実態は、想像もつかぬとんでもない代物だ」と本当に気づいたのは、おそらく、サイパン陥落のときである。ガダルカナルからサイパンまでは一年四カ月ある。

 

何故この間に実態がつかめなかったのかと人は思うかも知れない。しかし、元来は黒白つけがたい厖大な灰色の対象を、黒か白かに割り切って、その一つの見方が定着した場合には、何か思いもよらぬ事態に接しても、即物的にそれをとらえ、それに基づいてすぐ対象への見方を変えることは、実は、不可能に近いことなのである。


これは現在でも同じであろう。たとえば中国に対してある一つの見方が定着し、ついで、何か思いもよらぬ事態が生じた場合、人々は、それを「今までの見方」の枠内に無理におさめて納得しても、それに基づいて一気に見方を変えることはできまい。

 

従ってそれへの現実的対処は、あくまでも、今までの「見方の枠内」における処理になる。対ベトナムでも対アメリカでも”文革派排除”でもこれは同じで”新事態”は今までの「見方」の枠内に無理やりにでも押し込まれ、その文脈で理解されてしまう。


人は、否、少なくともわれわれは、常に、さまざまに変化しながらも、土壇場までこれを続けていく民俗らしい。
この一年四カ月、その間私は、兵営から、予備士官学校から、あるいは現地の現場の下級幹部の立場からこの「見方の枠内に無理矢理押し込む状態」を眺めつづけて、常に不思議に思ったのは「ある見方を絶対化するその精神状態」であった。どうしてこうなるのであろうか?

 

私の母校の教授で、開戦直前に米国留学から帰った人の中には、徹底したアメリカ嫌いは非常に多かった。だがそういう反米的な人たちのアメリカへの「見方」は当然、軍部やそれに同調する”鬼畜米英的アジテーター」とは同じではない。


ところが同じでないと、これは「親米=異端」に色分けされ、従ってその「見方」は無視され、排除される。

 

また沖縄の八原高級参謀は、開戦の前日まで「ニューヨーク・タイムス」を毎日読んでいた知米家であったそうだが、収容所での「兵隊民話」によると「アメ公の新聞を読んでいるのを見つかって沖縄にとばされた」のだそうである。(略)

 

サイパンの日本軍がわずか三週間で全滅したこと。米軍の進攻は意外に早く、しかもこれに対処する手段が見つからないこと。それは、今まで頑固に保持してきた絶対化えた「見方」をひっくりかえす事件であった。(略)

 


だがそれをわれわれが見ると、絶対化された「アッツ型見方」の崩壊に基づく軍首脳部の心理的右往左往としか見えない。それとよく似たものをあげれば、「スターリン批判」後の、対ソ一枚岩的「見方」の崩壊み基づく進歩的文化人や出版社の右往左往ろう。(略)

 

「見方」が崩壊しては的確な命令も指示も出来るわけがない。そのくせに、否、それゆえに現地軍への批判だけはある。「サイパンでは、将校はあたかも内地であるかの如く、南洋興発の社宅を接収してこれを将校宿舎とし、これより部隊に通勤し……」「戦備は全くなきに等しく、その水際陣地は旧式の塹壕にして、戦闘開始後二十分にして艦砲射撃のため潰滅し……」また「ホランディアにおいては戦闘部隊と飛行場設定隊の連携不備にして…」「レイテの砲兵陣地は海岸に近くかつヤシ樹の掩体なりしため……」等々、それでいて、「ではどうしろと言うのか」という質問への的確な答えはない。

 

大本営はグラグラし、従って現地軍はグラグラし、師団長はノイローゼになる。それはわれわれの目に否応なしにわかる。わかるから「決心変更ですか?」と私が言っただけで、その意にがすぐ通じてしまう。

この状態は米軍側から見ても、奇妙に見えたらしい。」

 

「米軍はおそらく洋上で展開し、このアパリ・ゴンザガ間の前面の海を上陸用舟艇でうめつくして、その砂浜に殺到するであろう。それは、いつかは必ず来ることであり、その時期はもう切迫しているはずであった。

 

それが分かっているなら、なぜ、二十年三月末にもなってから、砲車位置の選定とか観測所の設置などやっているのだ。何をぐずぐずしているのか。一体全体それまで何をやっていたのか_だれでも当然にそう思うであろう。

 


もしわれわれが全滅してなお大本営が残っていたら、本土決戦用所部隊への「戦訓」飼料で、われわれは、サイパンにまさる徹底的な批判を受けたであろう、というより罵詈訕謗の的になっていたにちがいない。だがおそらくサイパンの部隊も、われわれと同じような目にあっていて、事実は、批判している人たちこそ責任を負わねばならなかったのではないか?

 

われわれは、全員が、文字通り夜も寝ないで働いていた。末端の一兵士に至るまで、重労働につぐ重労働、その過重な負担は今の人には空想もできまい。だがその労働の成果は、「決心変更」のたびに、次から次へと廃棄されていった。(略)

 

最初は海岸の砂丘の上に塹壕が掘ってあったそうである。(略)


「これではいかん。サイパンの二の舞になる」で第二案となった。敵を相当深く内陸に引き入れ、艦砲の射程外に戦場を移すという考え方である。(略)

 

従って第三案となった。すなわちアルカラ・ファイレの線から前進して、歩兵の前線を、水田とジャングルの接際部におき、砲兵の観測所はほぼ同位置の最高地の樹上に置いた。(略)


そこで前線をさらに、ジャングルの前端から八百ないし千めーとるぐらい下げ、陣地を犬歯状につくっておき、ここへ米軍を引き込んでしまう。すると、敵は、誤射・誤爆を恐れて徹底的な砲爆撃が出来なくなる。一方、日本側にとっては軽火器と手榴弾・銃剣の威力が発揮できる近接戦になる。(略)

 

この案は、一見まことに立派である。本土決戦においてやはり「観砲車撃を避けるため前線を(住民迄まきこんだ)紛戦・混戦状態にもっていく」という案が、軍の首脳によって討議されていたことは戦後に知った。

 

だが、秀才の作文は結局「作文」であり、気休めは気休めにすぎない。
というのは、米軍は確保した線にしがみつくことはしない。「まずい」と思えばいとも簡単に撤退するし、占領地も放棄する。

 

進撃=勝利、撤退=敗北とは考えないから、わざわざ「転進」などと言う言葉を創作もしない。
一方、日本軍は勇戦奮闘これを撃退したとほっとする。
だがこのとき、ジャングル内の前線の位置は明確になっている。そこへ上空から予備タンクを落してガソリンをまき散らし、焼夷弾と艦砲を併用すればジャングルは火の海。焼き殺されるか、洞窟・タコツボ内で窒息死する。

 

これは彼らにとっては、ニューギニアですでに実験済みの方法であり、ナパーム弾の発想は、おそらくこの実験をもとにしている。
だが結局、そういう恐ろしい事態は現出しなかった。もっと奇妙な、もっと恐ろしいことになったのである。

 

部隊長の”かばん持ち”でラガオからジャングルに入り、数日間その中を歩きまわり、疲れ切って国道沿いの兵器部兼輸送補給の連絡所に戻った時、奇妙な伝言が私を待っていた。

 


独歩(独立歩兵大隊、実質的には連隊)一八〇のN軍曹が、司令部への連絡の帰りに立ち寄り「絶対秘密じゃゾ、少尉殿だけに伝えてくれ、四水後退はウソじゃ、師団はバレテに転身するゾ。だからな、今のうちにその準備をしておいた方がエエとナ」と。

 

N軍曹はノモンハンの生き残り、俗にいう「十年兵の古狸」で、司令部でも「顔」らしく、いつも最新の”情報”をもっていた。(略)


だが今度ばかりは信じられなかった。軍隊とは元来デマの巣だが、バレテ峠転進は、デマとしても無価値に思われた。(略)

 

それは一個師団近い兵員の移動と、このバラバラの長蛇の行進と言う実情が米側に知られないはずはない。左岸のゲリラが5号道路を眺めているだけで、それはわかる。
ではこのバラバラ移動の真最中に敵が「足を濡らさず」アパリに上陸し、一気に背後から襲ったらどうなる。


師団は戦わずして潰滅、同時にバレテ峠の部隊も潰滅する。そんなばかげたことをやる者がはずはない_もう一度言う_これは戦略戦術の問題でなく常識の問題である。(略)

 

「「勝敗は戦場の常」という言葉は、問題は勝敗より「どんな負け方」をしたかにある、という意味でもあろう。軍隊であれ一国民であれ、負けた時に本性をさらけ出す。相手を驚愕させ、追撃を断念させるみごとな負け方もあれば、「ここでも…不思議に…」と、相手が常に首をひねる「富士川の平家」の連続のような負け方もある。

 

両者なじではない。しかしいかに首脳部が血迷ったとはいえ、ガソリンはゼロ、軍馬は全滅の現状において、アパリをがらあきにし、何もかも捨て、砲車と弾薬車(百四十四発積載)を人力で約三百キロ引いてバレテ峠まで来いとは言うまい。たとえ無事ついても百四十四発「打ち終わーり」で一切合財終わりではないか。


「だが……」冷たい汗が私の背を流れた。十師団はそれをやらされたのだ。絶対にあり得ないとは言えない。しかし、と私は考え直した。情況はあの時と違う。前述のように、それすらおぼつかない、もしそんなことをするなら「一刻も早く、しかも手っ取り早く一人残らず全滅させてくれ」と米軍に言っているに等しい。

 

「そんなバカなことが!絶対秘密じゃゾなどともったいをつけて、N軍曹の奴、オレをからかったな」私はそう思った。(略)

 

バレテ転進は行われた。私はアパリ防衛の後衛として、バレテ出発直前に残留を命ぜられたが、転進の結果はもちろん潰滅だった。師団長が永らく行方不明だったそうだから、統一指揮どころではあるまい。


砲兵隊は、本部はオリオン峠、野砲はイラガン付近、自走砲はツゲガラオ付近と、約百キロの間でバラバラになって壊滅した。


一体これをどう解したらよいのか。以上の事を「戦史」がどう書き、どのような合理的説明を加えているか私は知らない。だがおそらく戦略戦術の問題ではない。この間のことを思い出すたびに、私の頭に浮かぶのは、次の古い箴言だけである。「天その人を滅ぼさんと欲せば、まず彼をして狂わしむ」。

 

「狂う」!狂うとは何であろうか。私は、不幸な分裂症の女性と隣り合わせで育ったので、その初期の一特徴を知っている_それは自己の「見方」の絶対化・神聖化であり、身方の違う者は排除し、自分の身方に同調する者としか口をきかなくなる、という状態である。そして自分の「見方」にだけ従って、あらゆる問題を片付ける。

 

そう、たとえ鉄パイプをふるうにしても、確かに何もかも徹底的に片づけている。_他人には乱雑と見えても。

 

「片付ける」、I副官もこの言葉を口にしたが、これは実に不思議な言葉である。(略)

従ってこの片付けの前提は、先験的な枠にはめられた「絶対的な見方」の基礎をなす心的秩序なのである。
その見方を確立するため対象を虚構化する。しかし実態としての対象は、どうしても「心的秩序」通りに片づかない。すると、「社会の壁は厚かった」などと言って自分の気持ちを片付けるわけだが、軍事行動ではこれが、自分を、自軍を、本当に片づけるう形になってしまう。

 

ノモンハン末期の小松原兵団長の行動は、すでに作戦行動とはいえず、「自分を片付ける」という形になっている。レイテにもそれと見える現象があり、また数多い「バンザイ突撃」もそれである。

 

そしてその直前に必ず「今までグラグラして「決心変更」を繰り返したのが誤りであった。もう迷いからは脱却した」と言う形で、出発点の、虚構を絶対化・神聖化した「見方」にもどり、それに基づいて、自己と自軍を片付けてしまう。

 

これが「土壇場までつづく」と最初に記した理由である。
「片づかない」_これは日本人にとっては地獄なのである。だが、中国人にとっても、ベトナム人にとっても、そしておそらくインド人にもアメリカ人にも地獄ではあるまい_


「賽の河原の石積」という永久に「片づかない」地獄絵図は、日本にしかないものだというから_。

 

大きくは太平洋戦争も、小さくはアパリ正面も、結局「賽の河原…」でゃなかったか。
各部隊・各兵という石を積み上げては、新情勢に基づく「決心変更」でこれを崩し、また積み上げ、また崩し、また積み上げ、また崩し、その度に消耗を重ね、ついに耐えられなくなって、自らが三途の川にとびこんで自らを「片付ける」という形の_。

 


N軍曹とは収容所で再会した。古狸らしく生き延びて、収容所でも早速に、何やら役得のある作業についているらしかった。私が彼の予言についてふれたとき、彼は無表情な顔で言った。


「ああせんと片づかんですケンのう。最後はいつもああなりますケン。ノモンハンもああじゃった。ああやらんと、いられんですケン、きっと、エラカ人でも_」


「片づかない」と狂い出して自らを「片付けて」亡びる、それがあの転進の真因だったのだろう。そして、大は大なり、小は小なりに、最後には必ずそうなることを、彼は十年続いた戦場体験で知っていた。

 

一億玉砕はその総括だったのであろう。が人のことはとやかく言うまい。後述するが、最後の土壇場では、私もこれとよく似た心理状態になっていたから_。」

 

 

(一、軍人は員数を尊ぶべし)

 

「移動の時は、身軽な歩兵は砲兵よりはるかに速い。彼らの陣地はバタバタと撤収されて行くのに、砲車はまだジャングルから5号道路まで引き出せない。一方、カガヤン川左岸のゲリラはこちらの動きを察知したらしく、威力偵察らしい”誘い”の攻撃を仕掛けてくる。(略)

 

これでは丁度「師団が宙に浮いた」そのときに、米軍がアパリに上陸することは、覚悟しなければならない。S中尉は暗い顔で言った。「戦争は員数じゃないんだが……」と。だがその言葉には諦めに似た響きがあった。

 

S中尉の言った「員数」という言葉にはその原意とは違った、軍隊内でしか通用しない独特の意味があった。一応これを「員数主義」と言っておこう。このイズムは、もうどうにもならない宿痾、日本軍の不治の病、一種のリュウマチズムとでも言うべきもので、戦後、収容所で、日本軍潰滅の元凶は何かと問われれば、ほとんどすべての人が異口同音にあげたのがこの「員数主義」であった。

 

そしてこの病は、文字通りに「上は大本営より下は一兵卒に至るまで」を、徹底的にむしばんでいた。もちろん私も、むしばまれていた一人である。(略)

 

軍人勅諭には「一(ひとつ)、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」に始まり、礼儀・武勇・信義・質素を説いた「五条の教え」があって「五条の教え、かしこみて…」という軍歌もある。

 


だが五感のほかに見えざる第六感がある如く、書かれざる第六条があり、それは「一(ひとつ)、軍人は員数を尊ぶべし」だというのが「六条の教え」の意味である。これは、軍隊に対する最も痛烈な皮肉の一つであったろう。

 

だが元来は員数とは、物品の数を意味するだけであって、いわゆる「員数検査」とは、一般社会の棚卸しと少しも変わらず、帳簿上の数と現物の数とが一致しているかどうかを調べるだけのことである。従って、問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである。

 

それは当然に「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていればいれば不問」へと進む。従って「員数を合わす」ためには何でもやる。
「紛失(なくなり)ました」という言葉は日本軍にはない。


この言葉を口にした瞬間、
「バカヤロー、員数をつけてこい」
という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。紛失すれば「員数をつけてくる」すなわち盗んでくるのである。この盗みのことを、輓馬隊では「馭してくる」とも言った。


いわば「盗みをしても数だけは合わせろ」で、この盗みは公然の秘密であった。(略)
盗みさえ公然なのだから、それ以外のあらゆる不正は許される。その不正の数々は省略するが、これは結局、外面的に辻褄が合ってさえいればよく、それを合わすための手段は問わないし、その内実が「無」すなわち廃品による数合わせであっても良いということである。

 

員数検査はもちろん命令である。それに対して、「員数があってます」という報告さえできれば十分だということは、とりもなおさず、どんな命令に対しても、形式的に不備のない報告を出せばすむということになる。これが普遍的な意味の「員数」という言葉で、S中尉が口にしたのはその意味である。」

 

「この員数主義の基盤は”組織の自転”であり、その組織の内部に手が付けられず、命令が浸透しないという現実と、後述するもう一つのことに基因していた。これは入営して、虚心、周囲を眺めれば、だれでもすぐに気づいたはずである。

 

例えば私が入営したのは、「私的制裁の絶滅」が厳命されたころで、毎朝のように中隊長が、全中隊の兵士に「私的制裁を受けた者は手をあげろ」と命ずる。中隊長は直属上官であり、直属上官の命令は天皇の命令である。

 

軍人は忠節を尽すのが本分だという。忠節とか忠誠とかいう言葉が、元来は、絶対に欺かず裏切らず、いわば懺悔の対象のような絶対者として相手を見ることなら、中隊長を欺くことは天皇を欺くこと、従って軍人勅諭に反するはずである。

 

だが昨晩の点呼後に、整列ビンタ、上靴ビンタにはじまるあらゆるリンチを受けた者たちが、だれ一人として手をあげない。あげたら、どんな運命が自分を待っているか知っている。従って「手を挙げろ」という命令に「挙手なし」という員数報告があったに等しく、そこで「私的制裁はない」ことになる。

 

このような状態だから、終戦まで私的制裁の存在すら知らなかった高級将校がいても不思議ではない。
いわば、命令と報告の辻褄はコレで合っている。そして合っていれば、それでよい。これが員数主義であり、この主義は、前述のように、全帝国陸軍を上から下までむしばみつくしていた。

 


人間は習慣の動物である。はじめ異常と感じたことも、やがてそれが普通になる。私自身、兵士の時は「員数をつける」ことでは優秀かつ俊敏で、将校になってからは「不可能命令」には巧みな「員数報告」で対応して来た前科があるから他を批判する資格はないわけだし、今にして思えばずいぶん麻痺していたので、多くの、考えられる奇妙なことを見逃していたと思う。

 

従ってここでは、当時の普通の社会人が、何の「馴れ」もなくこの員数主義に接した時の驚きをまず記そう。
今までも時々引用した「慮人日記」の著者の小松さんは、軍事ではなく、軍隊経験は皆無の民間会社の技師で化学者であり、ガソリン代用のブタノールを糖蜜から製造する技術者として軍に徴用され、比島に派遣された人である。この人が、ただただ驚きあきれて、次のように記している。

 

「形式化した軍隊では「実質よりも員数、員数さえ合えば後はどうでも」という思想は上下を通じ徹底していた。員数で作った飛行場は、一雨降れば使用に耐えぬものでも、参謀本部大本営)の図面には立派な飛行場と記入され、又比島方面で〇〇万兵力必要とあれば、内地で大招集をかけ、なるほど内地の港はそれだけ出しても途中で撃沈されてその何割しか目的地に着かず、しかも裸同様の兵隊なのだ。


比島に行けば兵器があるといって手ぶらで日本を出発しているのに比島では銃一つない。やむなく竹槍を持った軍隊となった。日本の最高作戦すらこの様に員数的なのだ…」

 

小松さんが、最初にあきれかえったのは「ネグロス航空要塞」なるものの正体を見た時であった。この「航空要塞」は、当時比島では知らぬ者がないほど有名なもので、「これで米軍を叩き潰してやる」「ネグロス航空要塞が潰れたら日本は危ない」と言われたほどのものであった。


ネグロス島はレイテ島の東にある。これを「不沈空母」にする。
「米軍がレイテに押し寄せたら思う壺だ、相手は可沈空母、こちらは不沈空母、絶対に負けない。敵を上陸させて釘付けにし、空母群をおびき寄せて徹底的にぶっ叩いてやる」
とのことであった。今でも”員数戦記”にはそんなことを書いてあるらしい。だが、ブタノール増産のため同島に急派された一市民の目に映った実体は、一言でいえば、あるのは「員数」だけで、結局は何もない、ということであった。

 

「ネグロス空の要塞というから、どんな物かと思ったらピナルバカン…(ほか九か所)…などに、毎日の爆撃で穴だらけになった飛行場群に焼け残りの飛行機が若干やぶかげに隠されているだけだ。対空火器は高射砲が三門だけという淋しいものだ…これが日本の運命をかけたネグロス空の要塞の正体である……」
だが、慰安所だけは、”員数”でなく、完備していたらしい。

 

「ネグロスには航空荘といって、航空隊将校専用の慰安所(日本女性)兼料理屋があった。米軍が上陸する寸前、安全地帯にこの女たちを運んでしまった。……これがネグロス航空要塞の最後の姿だ」

 

なぜこうなったのか。それは、自転する”組織”の上に乗った「不可能命令とそれに対する員数報告」で構成される虚構の世界を「事実」としたからである。日本軍は米軍敗れたのではない。米軍という現実の打撃にこの虚構を吹き飛ばされて降伏したのである。それを何よりも明確に示すのが、「無条件降伏か本土決戦か」が論じられた最後の御前会議と、あの”聖断”である。(略)

 

本土決戦を主張する阿南陸相は、すでに戦備は完了し、九十九里浜の陣地も完成しているから、ここで米軍に一撃を加えるべきだと強硬に繰り返す。降伏・決戦の議論が平行線をたどって決着がつかず、鈴木首相が天皇に”聖断”を乞うたとき、天皇が言った決定的な言葉は、侍従武官を派遣して調べさせたところ、九十九里浜には陣地などはない、という意味の言葉である。(略)

 

結局これは「員数としてはあるが、実体としてはない」ということであり、「実体としてはない」と言われた時には、降伏しかないという実情を示したことにほかならない。(略)

 

そしてこの員数主義は、銃火による指摘を受けるまではだれも気付かないほど徹底し、麻痺し、常識化し、それが軍隊なるもののあたりまえの状態だと、すべての人が思い込むまでになっていた。私もその一人なのである。そしてこの員数主義は、当然に前述の逆、「実数としてはあるものも員数としてはない」という形にもなっていく。」

〇 この「実数としてはあるものも員数としてはない」という文を読み思い出したのが、「タイガーと呼ばれた子」にあった、斉藤学氏の言葉です。

 

 

「おそらく多くの日本の人々は知っていたのだ。読者本人か、その身近な人に「シーラたち」がいること、ただ彼らには「名」がつけられていないだけであることに。「日本には性的虐待がない、これが日本の文化の特徴のひとつである」(1997年に東京で開かれた国際学会での、ある精神科医の発言)などと言っていたのは人々の実態を見ることを怠った「専門家」たちのゴタクに過ぎなかったのである。」

 

「一方われわれはすでに補給ゼロ。一個中隊や二個中隊が左岸に行ったところで、第一、あの広大な左岸地区の、どこをどう歩きまわればよいのか。カガヤン州の対岸だけでルバング島の十倍はある。そこのジャングルから米比軍の”小野田少尉とその部下”を発見することさえ、ワラの山から針を探し出すほど困難なことだろう。

 

しかも相手は住民と区別がつかない。結局、討伐隊はこの不可能命令に対して員数報告を出す以外にない。すると「員数ではゲリラ、ゼロ」になる。
これが前述の「実数ではある、員数ではない」の例であり、S中尉が口にした「員数」はその意味である。彼らがどういう報告を出したか私は知らない。知っているのは、自らが書いた報告だけである。

 

そういう報告を出す羽目になったのは、師団の主力が転進した一週間ぐらい後だったと思う。アパリ=ゴンザガ正面の広い陣地には、すでに、歩兵一個大隊、砲兵一個中隊しかいない。文字通り閑散として、どこに人がいるのやらわからないほどであった。

 


左岸ゲリラの活動はますます活発になって、米軍の上陸への配慮どころではない。私のいた場所は、川幅が三千メートルぐらいあるのだが、ラフ島という広い川中島があって、これがぐっと右岸に寄っている。そのためラフ島までは四百メートルぐらいである。

 

この島は、長い間、ゲリラと日本軍の間の無人地帯だったが、今では彼らは日中、舟で堂々とここに渡ってきて右岸を掃射し、夕方になると、日本軍の夜襲をさけて左岸に引き上げていく。(略)

 

ゲリラの地形利用は実にうまい。
残置部隊を指揮する支隊長U少将から、このゲリラを「撃滅スベシ」という命令をうけた。当然であって、少しも不思議でない命令だが、そのときはじめて、残されている砲と人員を調べて驚いた。四門のうち使える砲は一門しかない。他は全部故障である。

 

しかもこの一門が十二榴(一二五榴弾砲)という珍しい砲で、全員がそれまで、見たことも扱ったこともない砲である。さらに驚いたのはその砲弾である。それが珍しくも、海軍の砲弾のような弾底信管の砲弾で、何弾というのか私にはわからない。おそらく徹甲弾に類するもので、頑丈なトーチカなどを破壊するための砲弾なのであろう。(略)

 

自分で調べた結果わかったことは、アパリ正面の砲兵一個中隊とは、結局、員数だったということである。どうもおかしいと思ったのは、転進命令が出た時の中隊長たちの動きであった。

 

というのは、一個中隊がそのまま残ったのではなく、各中隊が一個分隊を残し、この残された四個分隊で臨時に一個中隊を編成し、S老大尉が臨時中隊長、本部からは私が残るということになったからである。

 


各中隊は、動かない砲、使えない砲、無用の砲弾、そして歩けない病人を捨てて行ったということであった。そして私が残されたのも、結局、結核の既往症があるから、行軍途中で喀血でもされたら足手まといだということと、後述の私の推定通りの理由からたらしい。

 

員数中隊の実態にはゾーッとした。まさに「ネグロス航空要塞」のアパリ砲兵版である。(略)だが結局私は、面倒なことを支隊長に報告してトラブルを起こすよりも、員数中隊の員数砲弾で、員数砲撃をして員数報告を書くことにした。


それが日本軍の常識であった_このことを表沙汰にしても、今さらどうにもならない、そしてもしこの実情に支隊長閣下が憤激すれば、砲兵隊長の責任問題になりかねない。部隊長には本当に世話になった、あの部隊長の面子はつぶしたくない、きっと、こういう場合「山本ならうまくやってくれる」と思ってオレを残したのだろう、その期待を裏切りうない等々々_これが結局、私の本当の動機であり、従って、憤激するS大尉をなだめさえしたが、それが”組織の自転”と員数主義の基盤であった。

 

だが私は小松さんと違って、その組織の中で麻痺した一少尉だったから、自分がそうすることをごくあたりまえと考えても、良心の呵責はもちろん、何の違和感もなく、あらたまった決心といった気持ちさえなかった。

 

もし支隊長に実情をぶちまけようと決心したら(そんなことはありえないが)、それこそ、一晩も二晩も悶々として眠れなかっただろうが_。

 


この考え方の底にあるものは何だっただろう。それは、今、目前にある小さな「仲間内の摩擦」を避けることを最優先する、という精神状態であろう。戦争中のさまざまな記録を見ると、日本がずるずると落ち込んだ過程に必ず顔を出すのが、この精神状態である。

 

「双眼鏡で眺めれば、ラフ島には人影は見えず、島の北端のラフ町はうす汚れた無人の廃墟となり、屋根の落ちた煉瓦建ての教会堂だけが、くっきりと見える。島の西端から、点のような一隻の小舟が左岸へ進んでゆく。行く先は明らかにあの隠れた入り江で、そこからかすかに煙があがっている。川はすべてを無視したように、全く無表情に流れて去って行く。


戦場で、一種、やりきれない気持ちになるのは、こういう風景を見た時だ。(略)

 

観測機材皆無のヤマカン射撃だから、初弾がどこに落ちるか見当もつかない。従って二人で地域を分担して肉眼観測をする以外にない。
準備完了!「撃て」、轟音とともに砲車が跳ね上がり、砲身は後退し、無事に復座した。ほっとした。この十二榴が本当に無故障なのか、あの奇妙な砲弾は本当にそのまま撃ってよいのか、分隊全員が一瞬で死ぬ恐ろしい腔発事故(砲身内での砲弾爆発)が果たして起こらないですむのか、私には見当もつかなかったからである。

 


従って射弾より砲車に注意を奪われていた。
弾着は大体十秒後だから、砲車の「異常ナシ」を確認してからその方を見ても十分に間に合うのだが、何やら慌てていたらしく、どこにも弾着が確認できない。そのときA上等兵が「少尉殿、ア、あれ!」といって指さした。見て私も驚いた。

 


高さが電柱の何倍もあるような垂直の濁水の柱が、隠れた入り江のはるか上流に立っている。次の瞬間A上等兵が「アッ、日本海海戦だ!」と言った。
以下はその夜の笑い話である。彼はなぜ「日本海海戦」と言ったか。当時の人間はだれでも、「日本海大海戦」の絵を見ている。その絵には必ず、海に落下した砲弾が立てる巨大な水柱が描かれている。(略)

 


危急のとき、人が思いもよらぬことを口走る例は、戦場では珍しくない。結局、弾底信管では、深く水中にもぐった砲弾が尾部から破裂して、上へ円筒上に水を噴き上げる形になるからであろう。だがそういう砲弾をジャングルや河岸の軟らかい土に打ち込めば、砲弾は深く土中にもぐり、円筒状に上へ土をはねあげるだけのことであったろう。

 

だが私はまじめに射弾修正をしつつ、この砲撃を約一時間つづけた。あの小舟は驚いたらしく、急に速度を早めて入り江に入ってしまった。(略)

 

おそらくゲリラは、最初は驚いても、なぜこんな効果のない砲弾を一心に撃ち込んでくるのかと、こちらの真意をはかりかねて首をかしげたであろう。日没とともに砲を撤収し、夜、立派な「報告」を書いた。翌日、その砲の位置は米機の猛爆を受け、一木一草まで一掃された。

 

効果があったとすれば、米軍に無駄な爆撃をさせたことぐらいであろう。そして皮肉なおに、これが私が指揮した最後の砲撃であった。結局、砲兵としての私の職務は、員数で終わったのである。

 

一体この員数主義はどこからきたのであろうか。これが日本軍の宿痾であったことは、各人が身に染みて知っていたので、前述のように、収容所でも話題となった。」

 

「おかしいよナァ、実戦なんだから。軍隊だけは、絶対に員数主義があってはならんはずなのだが……」
なぜこうなったのか。ある人は、陸軍ご自慢の委任経理(実費経理でなく、一定金額を委任してやりくりをさす経理方式)がその元凶だと言い、これに対して経理将校が「冗談じゃない」と顔を真っ赤にして反駁する一幕もあった。(略)

 

またある人は、陸軍創設時に原因があると言った。当時の日本人は、当然のことだが、国という意識より藩の意識が強かった。従って「国軍」という意識が希薄なので、「殿様の密命で武器を横流しする」恐れがあった。

 

また西南戦争、竹橋騒動なども、これに似た危惧を抱かせた。小銃に菊の紋章を刻印し、これを家紋つきの「天皇家所属の兵器」と明示し、また「兵器は神聖なり」として、徹底した員数管理を行った理由はそこにあると。(略)

 

確かに帝国陸軍には多くの欠陥があったが、兵隊が小銃を売り飛ばして一杯飲んでしまったといった事件は、おそらく皆無であろう。
だがそのことと、それが員数主義と言う形式主義に転化していくこととは、別のことであり、この主義の背後にあるものは、結局、入営したその時に感じたこと、「二個大隊」と言わず、「近衛野砲兵連隊、一個大隊欠」と言いたがる一種の事大主義的発想ではなかったか。


そしてネグロス航空要塞も九十九里浜の陣地も「ある、しかし九九%欠」だったということであろう。
そしてこれが、すでに消滅した日本軍だけのことなら、その原因を今更探求する必要もないであろう_彼らはバカだったのだと言えば、それですむ。

 

確かに軍隊は消え、「五条の教え」は消滅したが、「六条」は果たして消えたであろうか。

 

_自転する官僚組織の上に乗った大臣の、言葉の辻褄だけをあわせた国会の「員数答弁」、数字の辻褄だけを合わせた粉飾決算という「員数決算報告」、員数数字が貸借双方に増えていく両建て預金_不可能命令と員数報告で構成する虚構の世界は、いたるところにあるのではないか。

 

比島から還ってある老舗のデパートに就職したKさんは、そこが大資本に無条件降伏したとき私に言った。「日本軍と同じですよ。重役の不可能命令と下部の員数水増し報告で構成された虚構の世界が崩れたということでネ。それだけです」と。

 

そして旧軍隊そっくりの員数主義がそのままに出ているのが、昭和五十年の春闘共闘委の西野事務局長次長の言葉である。氏は動員数二十万が虚構の数字ではないかと記者に突かれ、それに対して、


「つまらんことを聞きに来るんだねえ。二十万招集したわけだがら、ま、二十万人集まったと発表した。ただそれだけのことですよ」と言ったと「週刊新潮」に記されている。一言でいえば「二十万、ただし何万人かが欠」なのである。


これが陸軍だった。


「ネグロス航空要塞を造れと命じた。ネグロス航空要塞はできたと報告が来た。だから、ま、ネグロス航空要塞はあると言った。ただそれだけのことですよ」


「私的制裁は絶滅せよと命じた。私的制裁は絶滅したと報告が来た。だからない、と言った。ただそれだけのことですよ」であって、両者とも実数・実体は問題外としている。そして記録に残り、歴史に残るのはこの数すなわち「員数」なのである。

 


それでいいのだろうか?ある人は私に次のように言う。
「いまに日本は、国民の全部が社会保障を受けられますよ。ただそれが名目的に充実すればするだけインフレで内実がなくなりますからね。きっと全員が員数保証を受けながら、だれ一人実際は保証されていない、という状態になりますよ、きっと。健保がすでにそうでしょ。ガンになると、命がなくなったうえ三百万とられるそうですよ。


高校全入も員数くさいし、大学も員数だけはふえてるけど、教育というその内実はネエ……。結局、すべてが日本軍なんですなあ」

 

確かに「軍人勅諭五条の教え」は消えたが、「六条」だけは生き残ったらしい。その基本にあるものの一つは、事大主義とともに前述の「目前の仲間うちの摩擦」を避けることを第一義とする精神状態であろう。

 

そしてそれは、奇妙な「気魄」という演技で威圧される精神状態を生み出し、同時に、それに基づく「言いまくり」という「私物命令」を横行させた精神と同じもので、その基礎をなしていたであろう。これについては次章で記すが、これらが克服できなければ、結局、全日本が、第二の帝国陸軍になるだけのことではないのだろうか。」


〇 私は現在年金で生活しています。生活は切り詰めて、多少のアルバイトもしているけれど、でも、なんとか暮らしていかれます。ありがたいと思っています。
ここで言われているような、「員数保証」ではない、と言っておきたいと思います。

ただ、現実にはほとんど暮らして行けないくらいの年金しかもらえない人も周りにはす。
あの「ジャパン・クライシス」の中で橋爪氏が言っていた、「(ハイパーインフレになったら)全ての老人に一万ドル」のように、最低額の年金が全ての人に保証されるようになるのが、理想だと思います。