読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(私物命令・気魄という名の演技)

天皇の軍隊で、”上官の命令は直ちに天皇の命令”なら、たとえどんな”無茶な”命令でも、命令一下、全軍がすぐさま動き、たとえ”員数作業”でも命令遂行の辻褄だけは合わせるはずである。

 

従って、われわれが「その命令が本物か否か」を、常に、最後の最後まで疑い続けていたと言えば、不審に思う人もいるかもしれない。だが、この天皇の軍隊に、今では忘れられている一つの言葉があった。それが「私物命令」である。


軍隊における「私物」と言う言葉は、すべてが官給品、原則として一切に所有権を主張し得ない状態の中で、ごく限られた範囲で許されている自己の「所有物」を意味する言葉であった。(略)

 

従って「私物命令」とは、官給品の支給のように系統的に上から末端まで下がって来る命令出ない”命令”、いわば上官個人が命令権を私有化し、その私有化に基づいて示威的に下す命令の意味だが、内容的に分ければ二種類あった。

 

一つは次のような場合である。(略)
H大尉は贅沢で、隊内で支給される煙草「ほまれ」で満足せず、市販の「光」を毎朝三個買って来いとこの経理少尉に命じた。ところが、当時は煙草はすでに配給であり、一般社会では軍隊における「ほまれ」ほど煙草が潤沢でなく、戦局が悪化するとともに、いかに奔走しても、「ヤミ」でもなかなか「光」は手に入らなくなった。

 

彼はこの大隊長の私用に疲れ果て、「光」の買い出しをやめてしまった。そしてついに「光」三個が、大隊長室の机に並ばず、「ほまれ」が並ぶ日が来た。
H大尉は怒った。「光」を買え、と命令したはずだ、なぜ命令に従わないか」。さすがの彼もむっとして言った。「命令とは思いませんでした」(略)

 

「よし、ではこれから大隊長命令を出す!」。H大尉は堂々と、「光」を毎朝三個ずつ「購入スベシ」という正規の大隊命令を出したという。これが通常いわれる「私物命令」で、部下の”私的使用人化”である。これは若いエリート将校ほどひどく、まじめ一点張りの老将校が眉をひそめるような例は、決して少なくなかった。

 

だが、この「私物命令」は、これからのべる第二の型と比べれば、実害ははるかにすくなかったであろう。

 

第二の型とは正規の発令者が全然知らないのに、堂々たる命令として、時には口達で、時には正規の文書で来る命令である。戦後の戦犯問題で、形式的には堂々と発令しておきながら、「そういう命令はだしていない」と証言したため、「部下に責任を転嫁して助かった卑怯な指揮官」と決めつけられている人は決して少なくない。もちろんその例もあったであろう。だが次のような例もある。

 


それは、フィリピンでマニュエル・ロハス大統領を助けた神保中佐(ミンダナオ独立守備隊幕僚長)が語る次のいきさつの中に明確に出てくる。これはるミニコミ紙に掲載された氏の談話の一部で、それをそのまま引用させていただく。

 

_当時(昭和十七年)六月中旬マニラの軍司令部や軍政部、憲兵隊からロハス氏を処刑せよ、と言ってきていたらしい。マライラバイ(収容所の所在地)では処刑できないなら、ダバオ警備司令部の神保のところへ送れ、ということになったらしい。ダバオのオボサ市長が古川さん(居留民)に相談し、古川さんが(ロハス助命の相談に)おれを呼んだわけだ。(中略)


そこへ生田司令官から電話がかかって来てすぐ帰って来い、という。帰って見ると、生田さんが「神保君、たいへんなことになった。こういう命令が来ているんだ」と一通の文書を見せてくれた。それは正式の命令書で「マニラ軍司令部参謀長発。貴官ノ部隊デイマ逮捕シテイル前財務長官・下院議長マニュエル・ロハスヲ即刻処刑セヨ。

 

処刑シタナラバ電報デナク書類デ林軍政部長ニ報告、軍司令官本間雅晴ノ命ニヨッテ移牃ス」という内容だった。

 

その時、ふと思ったのは、バターン作戦終了時に第一線の部隊に捕虜を殺せ、という軍命令が来たことだった。あれは誰が出したか当時はついにわからなかった。今度は口頭命令でなく筆記命令であるにせよ、あの時と同じように、だれかが勝手に作った命令じゃないか、日本聖戦の意義と国際人道精神に反するとそう感じたんですね。


「この命令はほんものでしょうかね。ロハスを一時どこかに隠しましょうか」と言ったら、生田さんも「軍命令だけれども、なんとか助ける方法があるんじゃないかな」と言う。(中略)


ところがマニラへ出張していた将校が返って来て「軍司令部ではロハス処刑の報告が来ない、と怒っている。やらないのなら、神保中佐をマニラに呼んで取り調べると言っていました」と。

 

翌日になると、ダバオ軍政支部長が司令部にやって来て「マニラ軍政部から、生田支隊が押さえているロハスの身柄を引きとり、軍政支部の手で処置せよと命令して来た」と申し入れて来た。


そういうしているうちに、司令部の空気もだんだん変わって来た。「一人の捕虜のために軍紀違反で軍司令部の感情を害し、生田閣下がにらまれたら大変だ」と言い出す者も出てくる。(中略)


……事態がここまで表面化した今となって、逃がすわけにもゆかない。いろいろ手を打ってみたが、だめだ。残る手立ては、マニラに乗り込んで直接軍司令官の本間閣下に直訴するほかないがそれには生田さんの許可がいる。生田閣下は寛容で、おだやかな人ですよ。しばらく考えておられたが、よし思うようにやれと許してくれた。

 

マニラの軍司令部では、ちょうど本間軍司令官が更迭されるところでごたごたしており、本間さんに会えない。仕方なく二階の和知参謀長の部屋に行った。「日本軍が軍政的にフィリピンを掌握するためには、ああいう衆望をになっている人物を生かして使うべきで、殺しては逆効果だ、なんとか助けてやって下さい」と言った。

 

ところが和知さんは、「おれはそんな命令を出した覚えはない、命令の日付の六月二十二日には東京へ出張していて留守だった」とこういうんですな。自分が知らないうちに参謀がやったことだとしても軍命令として正式に出ておれば、すぐ撤回するわけにも行かなかったのでしょう、「ロハスは当分宣撫工作に利用すべし」という命令を出してくれた。(中略)

 

氏の生命は助かったが、処刑命令が取り消されたわけでないので、その後もたびたび彼は危険な目に会っているんです。とにかく私はダバオに飛んで帰り、生田閣下に報告すると、生田さんも非常に喜んでくれた。(中略)(だがそのため私は)左遷懲罰ですな。軍司令部の参謀や憲兵隊ににらまれておったからなあ。(下略)

 

これは貴重な証言であろう。幸いロハス氏は処刑されなかった。処刑されなかったから和知参謀長が「おれはそんな命令を出した覚えはない……」と言っても、彼を「部下に責任を転嫁した卑怯者」とはだれも言うまい。

 

そして参謀長が知らないことを本間軍司令官が知っていたとは思えない。だが、もしロハス氏が処刑され、そのため和知参謀長が責任を問われて戦犯となり、そのとき氏がこの言葉を口にしたら、人々は何と言うであろう。

 

氏が真実を口にしても、だれも信じないであろう。そしてこの恐るべき「私物命令」を出したその本人は、一切、責任を問われない_というのは、第一だれだかわからない、またわかったとしても参謀には指揮権はなく、この文書も「……軍司令官本間雅晴ノ命ニヨッテ移牒ス」となっているから、「あいつがやった」と内部的には陰で指名できても、本人が、自分は関係ない、ただ命令を文書化しただけだと言えば、それでおしまいである。」

 

〇 「嘘」がおおっぴらにまかり通る組織。指揮権にまで、嘘が入り込んで、嘘をつく人間がとがめられない。軽蔑されない。社会的に失脚しない。こんな組織で運営される国は、文明国ではないと思います。

今の私たちの国がまさにそうです。
もう一度、改めて、この言葉を引用します。

「そしてこれが、すでに消滅した日本軍だけのことなら、その原因を今更探求する必要もないであろう_彼らはバカだったのだと言えば、それですむ。(略)

これらが克服できなければ、結局、全日本が、第二の帝国陸軍になるだけのことではないのだろうか。」

 

 

「神保中佐は正式の文書が来てもなお、一種の第六感で、「だれかが勝手に作った命令(すなわち私物命令)じゃないか」と思った。そしてそのヒントは前記の引用に傍点を付した部分※、 すなわちバターン戦終了時に、どこからともなく発せられた捕虜殺害の”軍命令”実は「私物命令」だったわけである。


現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻政信中佐であったことが明らかである。以下に記すのは「戦争犯罪」(大谷敬二郎著)の中の記述だが、このことの大要は戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。


従って私などは、戦後のはなばなしい辻政信復活に、何ともいえない異様さと絶望を感じたことは否定できない。この奥には何か、日本軍も戦後人もともにもつ弱点があるはずである。次にその部分を引用させていただこう。」


「……このとき((昭和十七年四月九日・バターン米軍降伏のとき)、大本営参謀の肩書を持つ、マレーに戦った作戦参謀辻政信中佐は、シンガポールから東京に赴任の途中、ここに現れて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各級指揮官に”捕虜を殺せ”と督励して歩いた。


第十六師団長森岡中尉もこの勧説をうけたが、もちろん相手にしなかった。だが、辻参謀はその第一線に出向いて、これを督励する。当時第十六師団法務将校であった原秀男氏はその状況を、


(その参謀は)現地に行って直接連隊長以下各隊長に”全部殺せ”と指示する始末。渡辺参謀長は、師団司令部から副官をその有名な参謀に付けてやって、その参謀の言うことは師団長の命令ではないと、いちいち取消して廻る騒ぎだった」(出陣における捕虜の取扱知識」「偕行」四五年九月)


と書いている。また、この戦闘に奈良兵団の連隊長として参加した今井武夫少将も、その著「支那事変の回想」の中に、この四月十日朝からの捕虜の状況を、次のように描写している。


「わが連隊にもジャングルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を超えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。

 

とくに、連隊長を指令した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予想し緊張して受話器を取った。付近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。

 

電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、「バターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。

 

その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元に居る米比軍投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ」というものである」と書いている。

 

今井は、投稿捕虜を一斉に射殺さよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。

 

そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ、だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
もちろん、この命令も辻参謀の私物命令で正直な松永参謀が大本営命令と信じたのであろう。


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神保中佐が言っているのは、この事件のことである。戦争直後から小野田少尉まで、何と言っても敗戦を信ぜず、なかなかジャングルから出てこようとしなかった例は少なくない。これらはしばしば「神州不滅・大東亜百年戦争」を信じ切っているのだとか、「戦陣訓」のためだとかさまざまに断定され、「軍国主義教育の恐ろしさ」の証拠とされつづけた。

 

だが、「出て来ない」原因は決してそのように一律だったとは思えない。おそらく千差万別であろうが、その中の多くに、実際には、戦場を横行するデマと”命令”への不信が大きな要素であったろうと私は思う。というのは、神保中佐であれ私自身であれ、本当の命令かどうか、まず疑う習慣がついていたからである。

 

と同時に後述するように「本土決戦の捨石」と自ら信ずることによってその苦難に耐えていた者にとって、不意に来た「終戦・降伏」の命令は、口頭ならもちろんのこと、たとえ文書で来ても、一瞬、疑いの目をもって見られて不思議でない。従ってこれらの前提は決して、単純に割り切れないのである。」

(つづく)

辻政信は「ノモンハン」の実質的責任者でありながら、なんの責任も追及されず、太平洋戦争においても、「ノモンハン」の時と同じような力を発揮していたようです。また、戦争に一役買った人が復活する問題については、「私は女性にしか期待しない」でも、触れられていました。

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「けれども、それからの40年は、また昔の教育への逆戻りでした。しきたりに合わない民主主義をいやがる人たちの力が強かったのです。政府にも、戦争をするのに一役買った人が返り咲きしてきました。」

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※ 「あれは誰が出したか当時はついにわからなかった」「おれはそんな命令を出した覚えはない」と言う部分に傍点

 

 

「事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。


ではその方言的”私物命令”の背後にあったものは何であろう。いったい何のためにロハス処刑の私物命令を出す必要があったのか、また何が故に、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取消して廻るといった騒ぎまで起こるのか。


陸軍刑法第三条にははっきり「擅権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権千犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。

 


そのくせ巻頭に勅語を掲げた「作戦要務令」には次のように明確な命令への規定があった。「軍隊ノ指揮ハ統帥ノ大権ニ根源ス、各級指揮官ハ厳粛ニ之ヲ承行シ……」「命令ハ各級指揮官之ヲ作為シ……」と。


指揮官以外は指揮できず、従って命令は出せないのである。これらから見れば、辻参謀の行為も、神保中佐への「私物命令」発令者の行為も、最も厳格に処罰されて然るべき行為だったはずである。


しかし、左遷という実質的処分を受けたのは逆に神保中佐であっても、「私物命令」の発令者ではなかった。それだけでない。その多くは戦犯に問われず、戦後も何の処分も追及もうけず、辻政信のように、その行方不明まで、戦前と同じような権威と社会的地位を保持しつづけている。


あのままで行けば辻内閣ができても不思議はない。何ということであろう。何がこれを起こすのか?いやいったい、こういう人たちが常に保持し続け得た”力”の謎は何であろうか。それは一言でいえば、ある種の虚構の世界に人々を導き入れ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である。そしてその演出力を可能にしているものが二つあった。

 

その一つ、演技力の基礎となっているものを探せば、それは”気魄”という奇妙な言葉である。この言葉は今では完全に忘れられているが、かつての陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。そして一下級将校であれ一兵士であれ、「気魄がないッ」と言われれば、それだけで、その行為も意見もすべて否定さるべき対象で、「あいつは気魄がないヤツだ」と評価されれば、それは無価値・無能な人間の意味であった。

 

では一体この「気魄」とは何んなのか。広辞苑の定義は「何ものにも屈せず立ち向かっていく強い精神力」である。これは、帝国陸軍が絶対視した「精神力」なるものの定義の重要な一項目でもあったであろう。だが、実際にはこの「気魄」も一つの類型化された空疎な表現形式になっていた。


どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊張感をみなぎらせ、静脈を浮き立たせて大声を出して、”機械人形”のような節度あるキビキビした動作をし、芝居ががった大仰な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気魄」のある証拠とされた。

 

従ってこれを巧みに上官の前で演じることが、兵士が言う「軍隊は要領だよ」という言葉の内容の大部分をしめていた。内心で何を考えていようと、陰で舌を出していようと、この「演技・演出」が巧みなら、それですべてが通る社会だった。戦場に送られまいとして、この演技力を百パーセント発揮して、皇居警備の衛兵要員として連隊に残った一兵士を私は知っている。その彼は陰では常に「野戦にやられるくらいなら逃亡する」と言っていた。」

 

「将校にももちろんこれがあった。そして辻政信に関する多くのエピソードは、彼が「気魄演技」とそれをもとにした演出の天才だったことを示している。そしてロハスを処刑せよとか、捕虜を全員ぶった斬れとかいった無理難題の殆どすべてが、いつしか習慣化した虚構の「気魄誇示」の自己演出になっていた。

 

そして演出はひとつの表現だから、すぐマンネリになる。するとそれを打破すべく誇大表現になり、。それがマンネリ化すればさらに誇大になり、その誇大化は中毒患者の麻薬のようにふえていき、まず本人が、それをやらねば精神の安定が得られぬ異常者になっていく。

 

確かに人生には、そして特に戦闘には「何ものにも屈せず立ち向かっていく強い精神力」が要請される。だがこういう意味の精神力と”強がり演技”にすぎないヒステリカルな「気魄誇示」とは、本来、無関係なはずであった。

 

真のそれはむしろ、静かなる強靭な勇気と一種の自省力のはずであり、この本物と偽物との差は、最後の最後まで事を投げず、絶対に絶望せず、絶えず執拗に方法論を探求し、目的に到達しうるまで試行と模索を重ねていけるねばり強い精神力と、芝居ががった大言壮語とジェスチュア、無謀かつ無意味な”私物命令”とそれへの反論を封ずる罵詈讒謗の連発との違いに表れていた。

 


精神力とは、これらの気魄誇示屋の圧迫を平然と無視して、罵詈讒謗には目もくれず、何度でもやりなおしを演じて完璧を期し、ついに完全成功を克ち得たキスカ島撤退作戦の指揮官がもっていたような精神の力であろう。そしてこの精神が最も欠如していたのが「気魄誇示屋」なのだが、あらゆる方面で主導権を握っているのが、この「気魄誇示屋」というガンであった。

 

それはどこの部隊にも、どこの司令部にも必ず一人か二人いた。みな、始末に負えない小型”辻政信”、すなわち言って言って言いまくるという形の”気魄誇示”の演技屋であった。結局、この演技屋にはだれも抵抗できなくなり、その者が主導権を握る。

 

すると、平然と始末に負えない「私物命令」が流れて来る。そしてこれが、何度くりかえしても言い足りないほど「始末に負えない」ものであった。というのは彼らが生きていたのは演技の世界すなわち虚構の世界だったが、前線の部隊が対処しなければならないのは、現実の世界だったからである。

 

その上さらに始末が悪いことには、彼らはその口頭命令に絶対責任を持たなかったのである。まずくなれば「オレがそんなこと言うはずがあるか」ですむ。「筆記命令をくれ」という理由はそこにある。しかしその筆記命令ですら、彼らが責任を負わないことは、神保中佐が証明している。」


〇 安倍首相のことを思い浮かべながら読んでいます。

 

「そしてこの、何万人を虐殺しようとなんの責任も負わないですむ気魄演技屋にどう対処するかが、前線部隊にとっては、実は、敵にどう対処するか以上の、やっかいきわまる問題だった。
特に、部隊本部付で司令部との連絡係をやっている将校にとっては、この種の参謀との折衝は、文字通り、神経を消耗しつくし、木が変になって来そうな仕事であった。


帝国陸軍の下級将校の多くは、敵よりも、これに苦しめられ、そして戦況がひどくなって現実と演技者のギャップがませばますほど、この苦しみは極限まで加重していった。


「こりゃもうダメだ。K参謀ならともかく、かのN参謀までがこう言いだしては。もうどうにもならないんだな。」十九年の九月末、バギオの司令部を出て、二日がかりで部隊の駐留地イギグまで帰る途中、便乗した師団の連絡車のトラックの上で、私は考えつづけた。

 

もちろんその背後には、N少佐参謀から、「キサマ、それでも砲兵か」とさんざん怒鳴られて、どうにもならなくなった耐えられぬ不快感と敗北感があったことは否定できない。問題は、観測機材が皆無のこと、砲弾の輸送が不可能なこと、そのため砲兵は何もできないで日を送っているのに、一方では司令部から米軍の上陸はすでに、二、三カ月後に迫っているのに「砲兵ハ一体ナニシトルノカ」と、まるでののしるような口調で、戦備完了を日夜督促されていること。

 

だが、いくら督促されても、「できないことは、できない」こと。
「だから、何とかしてくれ」と頼みに行ったわけである。ところがその返事たるや「ナンだと。機材がないからどうにもならんと、砲弾が輸送できんからどうもならんダと。どうにもならんですむか!キサマそれでも将校か。ここをどこだと心得トル。

 

ここは戦場じゃぞ。これがないこれがないから出来ません、あれがないから出来ませんでは戦はできんのだ。将校たるものがそんな気魄のないことでどうなる。砲弾は人力で運べ。住民がいるじゃろう。それを組織化して戦力に役立たせるのがキサマの任務じゃろう。任務を完遂せんで何やかやと司令部に言って来オル。

 

このバカモンが!砲を押して敵に突撃するぐらいの気魄がなくてナンで決戦ができるか。この腰抜けが!……」延々と無限につづく罵詈雑言。
悲しいとか口惜しいとか言うのではない。むしろ何ともいえない空虚感であった。そしてこういうとき不意に思い出されてくるのが、衛生兵を志願した木村さんの颯爽たる印象であった。

 

結局私も、その場その場の摩擦をさけている一人にすぎなかった。それがこの状態を招来したにすぎない。そしてその感じが空虚感になった。(略)
やがて起点のキャンプワンであろう。そのころになって、私はやっと少し落ち着いたのであろう。「N参謀だったから、あれだけのことを言ってもあれですんだんだな。あれが小型”辻政信”のドロガメ参謀だったら、今ごろは歯が四、五本折れて、顔が変形していただろう」と思い返した。

 


だが落ち着きを取り戻し、部隊長の顔を思い出すと急に心配になってきたのが「住民を組織化して運べ」という参謀の言葉が、単なる言いまくりのための放言か、一種の「口達命令」かわからなくなってきたことである。

 

それは、辻政信の「言いまくり」がそのまま”命令”となる「私物命令」の世界では、当然の危惧なのだが、「帝国陸軍統帥権絶対神話」が今も生きている日本、そのため真の元凶、真の責任者が平然と復活し、活躍し、権威と名声をほしいままになし得た戦後の日本では、今も人が信じない一つの事実なのである。」