読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(組織と自殺)

「自殺の原因や動機はさまざまであろう。また実際には他殺に等しい、強要された自殺もあるであろう。多くの場合、自殺の真因は不明だが、その中で最もわかりにくいものは、この両者の中間にある自殺、いわば本当に自分の意志なのか、実際は他人の意志であったのか不明の場合の自殺である。

 


自殺は本人の責任だから、その死に対してだれも責任を負う必要はない。では強要された自殺はどうなるのか。それは他殺ではないのか。戦場にもさまざまな自殺はあった_もっとも自決と呼ばれていたが。

 

その中には明らかに強要された自殺、言い変えれば強要した人間の他殺、自殺に仮託した純然たる殺人もあった。ノモンハンでも多くの将校は自殺した_離れた天幕に連れて行かれ、拳銃を与えられて、人々は去る。最後まで抵抗した人もいたそうである。


そしてその殆どは、無謀な作戦計画と放言参謀の支離滅裂な”私物命令”のため、あらゆる苦難を現場で背負わされた責任者であった。その苦難の果てに、彼らは、強要されて死んだ。そして彼らを殺した殺人者「気魄演技」の優等生たちは、何の責任も問われず戦後も生き、その「演技」によって民衆の喝采をはくしつづけた。」

 

 

「こういう例、「自決という名の明確な他殺」で、糾弾されざる殺人者の名が明らかな例も、決して少なくない。しかし、自己の置かれた位置が、必ずここに至ることを予見し、その屈辱の死を恐怖して、その前に自殺してしまった場合もある。

 

これが自殺・他殺の中間、本人の意志か他人の意志かが不明な場合である。結末が明確な場合、多くの者は、「屈辱プラス死」よりも単純な死、名目的名誉が残っている死を選び、自己の死屍への鞭と遺族への世の糾弾だけは避けようとした。


こういう場合、今ではもっぱら帝国陸軍の非人間性が非難されている。しかし人々が忘れたのか、覚えていても故意に口にしないのか私は知らないが、もう一つの恐ろしいものがあった。それは世間といわれる対象であった。

 

軍が家族を追求することは絶対にない。では、母一人・子一人の母子家庭、その母親でさえ、兵営に面会に来た時わが子に次のように言ったのはなぜか。「お母さんがかわいそうだと思ったら、逃亡だけは絶対に、しておくれでないよ」_彼女が恐れたのは帝国陸軍ではなく、世間という名の民間人であった。その「後ろ指」なるものは、軍より冷酷だった。_少なくとも、正面から指ささぬので「指さした人間」が不明だという点で。


こういう場合、本人を死まで追い込んで行ったものが、果たして帝国陸軍なのか世間なのかといえば判定は難しい。それらは現在、新聞等で「組織の重圧に耐えかねて……」とか「組織内の人間関係に悩んで……」とか定義されているケースと似て、複合するさまざまな個人的・社会的・組織的原因に分けて解明することが、不可能と思われる場合である。

 

さらにこれに、戦場という異様な環境が加わる。肉体的に疲労の極に達すれば、人は、単に「動くのはもういやだ」という理由だけで自殺しうる。また精神的疲労の極に達すれば、その一切から逃れたいという欲望だけで、自らの命を絶ちうる。

 

また自殺のように見えて、実は、一杯の水、一服のタバコ、一片の青空に自分の命をかける場合もある。そういう状態にあって、精神的・肉体的疲労の果てに、いま自分が歩いている道の先にあるものが確実に「屈辱の死」なら、人は疲労を押して、わざわざ、その「屈辱の座」まで歩き続けようとはしない。

 

殺されるとわかっていながら、そこまで歩いていく場合も確かにある。だが、少なくとも自己の手に拳銃がある場合は、歩いてそこにつくまでの時間を、その場にすわっているのが普通である。

 

「それが普通か。ではきくが、それならお前はなぜ、あの日、サンホセ盆地を歩いていたのか?」。あの日と全く変わらない周囲の風景が、私にそう問いかけているように見えた。(略)

 

そこは、永遠に日が差すことがないように暗く、じめついている。目を転じて南東を見る。そこはサンホセ盆地の南の部分、ダラヤ地区と呼ばれたところである。ルソンは同一地名が多く、サンホセもダラヤもサンタフェも、何か所もあった。」

 


硫黄島からの例外的生還者が語った死者の最後の言葉、その中で最も胸を打つのは青空をもう一度見て死にたい」という、十数日間の洞窟戦の果てに死を迎えた人々の言葉であった。(略)

 

もちろん私は、その時そのことを意識したわけではない。また「青空を見て死にたい」と、サンホセ盆地へと歩き出したわけでもない。しかし、鬱蒼としたジャングルの中の、じめじめしたビタグの隘路の横穴から、陽光のおどる盆地へと誘い出されたことも、事実であったろう。

 

だが青空も陽光も、ジャングル内の夢想とは違っていた。しかしそれも、前夜一睡もせず、文字通り疲労の極にあった私の目に、ただ生理的に光が痛く、疲れ切った足は重く、異様な神経の高ぶりのためすべてが「生なき機械仕掛けのパノラマ」のように見えただけかも知れぬ。

 


S上等兵は、黙って私のあとをついて来た。銃爆撃の心配はほとんどなかったが、撃たれて死んでも一向にかまわなかった。沖縄はすでに落ち、米軍の主力は本土を目指している。」


〇 山本氏は砲を破壊したことの責任をとらされ、いずれ自決に追い込まれるとわかっていた。それでも自殺はしなかった。言葉にはならない、出来ない、気持ちがあったのだろうと想像します。

 

「余りに急激な変転は、現実への実感を失わせる。自分のことが他人事のようにしか思えない。
「こりゃきっと悪夢なのだ、こんなことがあるはずはない。目がさめたら自分の部屋で寝ていたのだ」と感ずる。本当にそう感じたことは、それまでも再三あったが、バガオの突破だけは、何年たっても現実感がわかず、戦場の仮睡でみた悪夢のように思える。

 

支隊長U少尉のところへその報告にやらされなかったら、私はこれを、いまなお悪夢だと信じ込んでいたかもしれない。

 

パラナン川の渡河点で、四人の兵士を十歩ほどの距離で横隊に並べ、その一人が綱の橋をもって、対岸にわたった。水は胸まであったが、流れは思ったほど急でなく、四十歩ほどの幅で、川底も固いことが確認できた。渡り終わると綱を引いて、「渡河可能」の合図をし、杭を打って綱の端を固定し、その杭に目印の火縄を結び付けると、合計五人は一列縦隊でバガオを目指した。

 

バガオを偵察し、そこに敵のいないことさえ確認すれば、砲車をひいてバガオ道を最大速度で走って大丈夫、この闇と火事の火光はわれわれの味方だという気がした。(略)

 


暗黒のバガオ道を索敵するよりこの方がはるかに確実、それを確認し、突破不能と判断したら、青木参謀の指示に従って回れ右をすればよい。「そうなりゃ、命令違反」と言われる恐れもない、と思うと、幾分気も軽くなった。(略)

 

E曹長の選抜してくれた四人は、優秀なベテランであった。彼らは一列で私のあとに続きつつ、二人が右前方と後方、他の二人は同じように左前方と後方を、それぞれ分担して警戒しつつ、灌木の点在する草原を姿勢を低くして足早に進んだ。暗闇に、納屋らしきものがすーっと視界に入ってまた消えて行く。

 

その数はしだいにふえ、火はますます近づき、燃え盛るさまや吹き出す煙が手に取るように見えて来た。私は合図をして四人をとめた。「おかしい、この燃え方は爆撃じゃない」私は内心で呟いた。考えてみれば爆撃のはずはない。爆撃なら昼間のはずだし、ニッパヤシの家が多い田舎の町は一瞬に吹き飛んで、もう焼け落ちているはず。(略)

 

判断がつかない。判断がつかない以上、バガオの町に入ってみるほかはない。だがそのときの私の感じは、九十九パーセント敵はいない、ただ万が一のため確認しておく、の程度であった。私たちは割合に気軽に町に近づいた。そして近づけば近づくほど火勢の方が気になり、注意はそちらに奪われた。

 

というのは、フィリピンの田舎のニッパハウスは、屋根だけでなく壁もニッパヤシの葉だから、実に派手に「油紙に火がついたように」一気に燃え上がるからである。その構造は、太い木の柱と桁で囲まれ四角い壁面に、目の粗い割竹の格子を組み、それに、ニッパヤシの葉を少しずつずらして籐で結び付けたような形、屋根もほぼ同じ構造で、通常床だけが板だが、貧しい家は床も竹であった。簡単にいえば、夏の海岸のヨシズ張りの脱衣所が古びたような感じである。


黒ずんだ枯葉の集積のような外観はすこぶる貧相で、「貧しさ」の宣伝写真には絶好の被写体だが、南方で生活するなら、何と言ってもこのニッパハウスが最快適であった。」

 

「何もない。やはり敵はいない。「フン、またデマか、時間を無駄にさせやがって…」と思った瞬間、焔の少し先の道路にチラチラと動く黒い人影が見える。「オヤッ」と思い、四人が反射的に銃をかまえた瞬間、すぐうしろで「ピーッ」という呼子とも指笛ともつかぬ音がし、同時に、ダダダダッというものすごい機銃の発射音が耳もとでした。「伏せろ!」しまった、前後に敵が_だが、銃弾は私たちの方に飛んで来なかった。

 

あとでわかったことだが、偶然に偶然が重なると、「ありえないはずの事故」に似たことが起る。大体こちらが斬り込みに行かない限り、暗夜に米軍と鉢合わせすることは絶対にないと言ってよい。


だが万が一にも鉢合わせしたら、次の瞬間、彼らはそれを斬込隊と思い込み、恐怖のあまり、異様な反応を示して不思議でない。私も見たあの黒い影を、彼らは、ビダグの隘路から出撃して来た斬込隊と誤認したのであろう。それが、「恐怖の応酬」となり、その真ん中に、それとも知らずに私たちがまぎれ込んだわけである。ところがこの黒い影は、塩をとりに来た貨物廠の老招集兵たちで、斬込隊ではなかったのである。(略)

 


彼らは後方部隊だから私たちよりはるか近距離から出発したのだが、塩の重みと体力欠如のためにおくれにおくれ、私たちが「天の岩戸」を出た頃に丁号道路を出て、歩兵の渡河点をわたってバガオへ入ったわけである。

 

そこですぐにビタグの隘路に入ってしまえば何でもなかったのだが、十数日もジャングル内を歩きつづけて来た者には「家への誘惑」は実に強い。疲れ切った彼らは塩を下ろして家の中で一休みし、禁じられた火をたいて衣服などを乾かしていた。

 

そのとき、軽戦車(?)を先頭にバガオに突進してくる米兵が見えた。たまげた彼らは、何もかも放り出してビダグの隘路に逃げ込んだ。米軍は、一発もうつことなく無人のバガオに突入したわけである。(略)

 

ところが、逃げ込んだ老招集兵の方は、支隊長にこっぴどくどやされ、「塩を奪還してこい、塩なしで生きて帰るな」と厳命された。そこで彼らは、深夜を待って、米軍に見つからぬように、恐る恐るバガオんびもどって来たわけである。(略)

 

老招集兵たちは、おそらく恐怖が先に立ち、最短距離を夢中で直行し、ただただ塩をひっかついで逃げようとした。それが命取りになった。
だがもちろん、その時それがわかったわけではない。否、気が動転して、何が何やらさっぱりわからず、全員、反射的にピタリと伏せ、体をよじって向きを変え、重機の発射音の方向に銃をかまえた。


背後から不意に射たれるのは異様な恐怖で、反射的にろを向いて銃をかまえるという点では、日米両兵とも差がない。だが、その結果私たちは、火を背にして暗闇に対抗する結果となった。


「しまった、火が廻ってきたら、こちらの姿が見えるが、相手は見えない」と思うとますます気があせる。頭に血が上り、脱出路はないかと反射的に闇の中を探す。だが、銃弾が自分の方に来ず、ほっとして、少し落ち着くと、彼らが目標をつかんでいないことはわかる。(略)

 

まことに妙なぐあいに私たちは、ビダグから出撃して至近距離に迫った斬込隊のような位置にいた。だがこの脱出方法をとれば、私は「砲と部下を捨て、自分だけが安全地帯に逃げ込んできた砲車小隊長」という位置に立たされる。これは、絶対に許されざる位置であり、死と屈辱の座であった。

 

そのため本能のように、砲車の方へ脱出しようとする。その行為を「あくまでも砲車小隊長の責任を遂行しようとした」「責任感旺盛な模範的将校」とすれば「美談」ができる。それで戦死すれば勲章かもしれぬ。「爆弾三勇士」をはじめとする戦争中の美談を読み返すと、私はいつもこの日のことを思う。

 

こういった美談の主人公が陥った状態とそれへの対応は、決して「美談通り」ではなかったはずだと。みな「屈辱の座」への恐怖から反射的に行動したはず、それは「責任感に基づく意志」の結果よりもむしろ、交通信号通りに進んだりとまったりする、条件反射的行動に似ていた。」

 

「いきなり逆に伏せたので、私の前の溝に四人の兵士が一列に伏せている形になっている。私はすぐ前のS上等兵に行った。「右へ匍伏し、河岸に出て、砲車の位置まで突っ走れ」
彼はうなずくと順々に前の者に逓伝した。ベテランの四人はすぐ指示を理解し、溝を這い出し、静かに徐々に右へ右へと匍伏前進をした。

 

敵はすぐ目の前だが、かえって気づかぬものらしい。そのとき、ドーンという発射音がした。「砲兵が来てやがる」と思った瞬間、シュルーッという弾道音が頭上でした。砲弾の速度と音速とはほぼ同じだから、発射音が聞こえた時に生きていれば、大体、至近弾ではない。

 

「どこを射ちやがる」と思って後ろを振り返ると、照明弾であった。(略)

 


夜になると、彼らは必ず安全な位置に下がり、最前線に候敵器、第二線に赤外線遮断装置をおく。候敵器は精巧な集音マイクロフォンで、しのびよる斬り込み隊をまず音で捕らえて大体の位置を知り、赤外線遮断装置にかかったところで集中射をあびせる。


だが装置には必ず盲点があるもので、われわれのように、背後からそれと知らずつい入り込んでしまったものは、目の前にいても逆に気づかない。彼らがいつまでも射撃をやめなかったのは、候敵器について教育をうけなかった老招集兵が、射弾と火事の中で方向を失い、候敵器の付近を無我夢中で逃げ回っていたからであろう。(略)

 

ビダグの隘路に逃げ込んで屈辱の座につくつもりはないから、ここに砲弾が雨注するのはかまわない。が、パラナン川への出口と河岸の通過を封じられると、脱出路をなくして袋のネズミになってしまう。敵の盲点に入って、いまは一応安全とはいえ、いずれ近寄って来る火事の火光から完全に遮断された位置ではないし、多少移動して隠れても夜が明ければおしまいである。

 

確かに理屈はそうで、それはわかっているのだが、人間は不思議なもので、完全に闇に包まれ、恐怖の対象が見えず、「いま」これで安全だとその位置を動けなくなる。奇妙な落着きとも諦めとも言えるような、また何かの理由で情勢がそのまま好転するのを期待しているような、妙な気持ちになり、じたばたせずに、そこにじっとしていた方がいいような気もちになる。

 

それでいて、内心のどこかで、それがダメなことは知っている。」


〇この状況と今の日本の置かれている「ジャパン・クライシス」で説明されていた状況とが、同じだと感じました。

このままではダメだとわかっている。でも、とりあえず「いま」なんとかなっていると動けない。

「クライシス回避のポイント


1  毎年の財政収支を約七〇兆円、改善する必要がある。これは、消費税率を三五%に引き上げるということ。

2  消費税率アップにあわせて、低所得者の救済措置を講じる。

3  消費税率三五%のコストは意外に小さい。増税分が、社会保障などで還元されるからである。


4  ハイパーインフレは、消費税増税よりも社会的コストがはるかに大きい。

5  増税をためらう官僚や政治家に、国民は財政再建を求めなければならない。」

 

「私はこの妙な気持ちを、収容所で海軍の老下士官に話したことがあった。彼は、「そうでしょ。特に夜ですな。艦が沈むときもそんな気になります。すぐ沈むと理屈ではわかっていても、白波の波頭だけがかすかに見える真っ黒な海に甲板から飛び込むのは、何となく尻込みしますなあ、甲板でじっとしていた方が安心なような、一分でも余計に、そこにいたいような、案外、沈まないで持ち直すんじゃないかといったような気がして……」と言った。(略)

 


火の手が迫るのにまだ少し時間がある、そのうちに射撃もやむかもしれぬ、といった空頼みが、心のどこかにあったのであろう。だが、不意に左手がパーッと明るくなった。ニッパハウス群の火事は、どこに飛火するのか見当がつかない。反射的に火光から逃れようと五人は右後方へ匍伏した。

 

その瞬間、敵は何かに感づき、余りの近さに動転したのであろう。重機は一気にこちらを向いた。発射音が、ガガガという一本の轟音になり耳が麻痺して音にならず、ただ、すぐそばで連続的に鞭を振られるような、パシッ、パシッ、パシ、パシという、音とはいえない一種の震動感だけが伝わって来る。

 

銃弾が「ピュッ」と感じられる間は「逃げろ」と反応できるが、パシッ、プスッが来ると、鞭で身体がすくむ動物のような状態になり、体がちぢんだようになって動けなくなる、「射ちすくめられる」とでも言おうか……。

 

そうなった瞬間、反射的にN兵長の言葉がひらめいた。「私の中の日本軍」で記したが、彼は、私の部下がトラック輸送の最中機銃掃射で全滅したとき、足に盲管銃創をうけながらただ一人生き残った運転手、トラックとともに歩兵部隊から転属して来た十年兵であった。

 


この老兵は涙を浮かべつつしみじみと私に言った。「あげんコトなりますと、身がすくんで動けんですケン。だがそこを、死にもの狂いで、ハイつくばっても射線から身をはずさんと、結局ヤラレますケン。(略)

 


私は、歯をくいしばって、右後方へ右後方へと匍い出した。そして体が動き出した瞬間、逆に、一瞬も早く逃れたいという異常な恐怖になり、頭に血がのぼって何もかもわからなくなり、立ち上がって駆け出しそうになる自分を抑えるのが精一杯だった。(略)


そしてただ「念仏」のように、「射線から直角に」「射線から直角に」と内心で言い続けていた。弾丸が来ると、人は反射的に反対方向に逃げるが、これは無意味だからである。

 

どれくらい匍伏したか、それはわからない。(略)_ふと我に返ると、砲撃以外の射撃はやんでいた。ホッとすると、悪夢からさめて身を起こしたときのように全身から力が抜け、一瞬茫然とした。全射撃時間もわからない。十分ぐらいとも思えたし、数時間にも感じられた。

 


振り返ると、ついて来たのはS上等兵だけ、そして何と、左前方に見えるはずの火の手が右後方に見える。右へ右へと匍っていたのがいつしか半円を描き、またバガオの方向で、半ばビタグの方を向いている。慌てて反転し、S上等兵と二人で、「今のうちに」と身をかがめてバラナン川の方向へ小走りに走った。

 

ほんの少し走った瞬間、ピュピュピュピュッと銃弾が身辺で風を切り、間髪入れずダダダッという発射が聞こえる。「しまった候敵器にひっかかった」。ぱたりと伏せ、夢中で匍伏する。少し離れ、脱出の可能性が出てくると余計に恐怖がひどくなり、狂ったように、小走りに走ったり、伏せたり、匍伏したりをくりかえす。

 


それはもう、目標を持つ人間の行動というより、ワナから身を振り離そうとあがきにあがく獣に等しかった。(略)

 


「死ぬか」「いよいよダメか」「おれも今日死ぬのか」「何日だったか今日は」「おれは何歳だったっけ」………不意に何やら空を踏んだと思った瞬間、排水溝とも地隙ともつかぬ、深さ一メートルぐらいの壕に、もんどり打って転げ落ちた。S上等兵はまだ私について来ている。(略)

 


少し落ち着き、壕からあたりをうかがって驚いた。火が後方に見え、それにかすかに照らされて前方にバガオ道の終点らしきものが見える。夢中になると結局、本能的に銃弾の逆方向に逃れようとするのであろうか?

 

私はいつしかバガオの東はずれの、ビタグの隘路への入口に近くまで来ていたのであった。夜明けはもう近い。一まずビタグ付近のジャングルで昼を過ごし、脱出路の見当をつけておいて、明日の夜に突破しよう。私はそう決心し、身を屈めて壕の中を歩きだした。

 

砲撃えは、コンベアで砲弾を送るように規則正しく継続していたが、それ以外の射撃はやんでいた。少し歩くと、S上等兵が私の背中を突いて警戒の合図をした。じーっと前を見ると、壕が終わるらしいところに、明らかに二名が伏せ、その背中らしいものが見える。

 

米兵か?まさか_では、単なる土民か?日本兵か?米軍の尖兵のゲリラか?S上等兵は、銃の安全装置をはずしてかまえた。私も拳銃を取り出した。二人は息を殺し、気づかれぬように近づいた。

 

近寄って声をかけ、反応の仕方で即座に射撃するつもりだったが、それは、塩の袋をい、半ば放心したように前方を見ている貨物廠の老招集兵であった。この二人も運よく壕に転げ込み、ここまで来た。しかしすぐ前方の隘路で規則正しく炸裂する榴弾を見て、途方にくれていたのである。

 

私は、隘路を越えてサンホセ盆地に入る気はなかった。砲を捨てて砲兵だけが逃げ込んだことが、不問に付されることはあり得ない。だれかが責任を問われる。私がいなければ、その責任は当然に臨時中隊長のS大尉がかぶる。(略)

 

わかり切っていたからこそビタグへ逃げ込もうとせず、今の今までバガオの近傍を、三人の部下を見殺しにしてまで、のたうちまわっていたのだ。部下を殺しても、ビタグに入ることはできない、ここで死ぬか、砲車の位置にたどりつくか、私にはもうそれしか道はない。

 

それだけ、それだけである。それは知っている。知っているからこそ「あの位置に立つこと」への恐怖は、米軍の銃弾への恐怖より強かったのだ。そうでなければ、だれが、のたうちまわってもビタグを避けようとするか。私が必死で逃れようとしたのは、米軍の銃弾よりその「位置」だったのだ。

 

前方に落ちている砲弾は、夜が白むとともにやむであろうし、弾幕といえるほどのものではないから、突破しようと思えば今でも不可能ではない。砲撃には必ず休止があり、何発目で何分休むかは、注意して射弾を数えればわかる。従って、ビタグを突破いない理由は、私にとっては、米軍の砲弾ではなく帝国陸軍の掟であった。」

 

「「S上等兵」私は、故意にきびしい声を出した。それはむしろ、自分に決心をさすためであった。「二人を指揮して、サンホセ盆地へ行け」。彼がどんな返事をしたかよく憶えていない。私はおっかぶせるように言った。「命令だ、行けッ」。二人の召集兵は驚いて何か声を出した。

 

沈黙がつづいた。やがてS上等兵は落ち着いた声で言った、「少尉殿、弾着点を突破するまで、自分たちを指揮して下さい」。本当にその必要があったのか、彼が本心からそのこと自体を欲したのか、ただ私をここに置いて去るにしのびなかったのか、それはわからない。(略)

 


だが私は、一兵卒から叩き上げたS大尉こそ大儀名分に従って自己正当化する名人だったことを忘れていた。私が思ったぐらいのことは、疾うの昔に彼が思いついていて、当然だっただろう。(略)

 

彼らは弾着点を突破して来た私を見、一瞬、つづいて砲車も来るものと錯覚し、危険を逃れたと思って歓声をあげた。こうなるともう方法はなかった。ここまで来たことが明らかになり、しかも黙って報告せずにバガオの方向に去ったら、それは戦場離脱・敵前逃亡に等しいとされるであろう。

 

その結果私は罪人のようにS大尉の前に立ち、U支隊長に一部始終を報告の上、処置について指示を仰ぐようにと命ぜられた。処置とは何であるか私は知っていた。それがあの日、S上等兵と二人で、サンホセ盆地をダラヤ地区の方に歩いていた理由であった。

 

だが、すべては過ぎ去り、生者は理由もなく生き、死者は理由もなく死んでいた。それに対して、私に何ができただろう。家の向こうから、あの「死のリフレイン」が、騒がしく、暗く、うつろに聞こえて来た。「出発!」二世の声であろうか。下手な号令が聞こえ、人々はのろのろと立ち上がった。

 

私は再びダラヤ地区の方を向いた。あの日と全く変わらぬ風景が見え、それは「あの日、自殺しないで良かったな。だがな、お前が死のうが生きようが、自然は関係ないんだよ」という言葉をつづっていたように思えた。そして私は戦場を去った。」