読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(敗戦の瞬間、戦争責任から出家遁世した閣下たち)

「おかしな話だが、米軍将校は私を芸術家と誤認していた。事実誤認は先方の勝手だし、誤認に基づいてタバコや缶詰という報酬をくれるなら、別に断る理由はあるまい、また極端な栄養失調状態から来るこちらの放心と無気力と怠惰を、芸術家のメイ想だと勝手にご誤解して放置してくれるなら、それも大変に有難いことだと思っていた。(略)

 

彼らは将校クラブなどで、自分の入手したゲイジュツ品を自慢気に見せびらかしていたらしく、これが、しまいには下士官・兵にまで伝染して来て、捕虜のゲイジュツ家を見ればすぐさま、「宝石箱をつくってくれ(メイク・ミー・ジュウリィ・ボックス)」を繰り返して密かに報酬を押し付ける者まで現れた。

 

その風潮が、私まで芸術家と誤認された背景だが、この有難き誤認を維持するため、水牛の置物の製作やら宝石箱の蓋の細工やらを少しはやっていた。
利点はそれだけではなかった。「慮人日記」にも記されている収容所内の暴力団支配から、全く自由だったことも余得であった。

 

まことに奇妙な話だが、米軍の指導下での民主的自治管理機構と平等な衣食住の支給は、収容所内に平和をもたらさず、逆に暴力支配を生み出したのである。そして暴力による恐怖政治が行われると、あらゆる秩序は完全に確立するが、一方、みな息をひそめて暮らしている。

 

それが全員、ジャングル戦生き残りの”勇士”だから不思議である。そして米軍の手入で暴力団が一掃されると、人々はその”解放”を大喜びするのだが、すぐさま秩序にガタがくる。この、旧軍隊の私的制裁から収容所の暴力支配、さらに内ゲバ、リンチ、虐殺の森、鉄パイプによる殺し合いに至る暴力支配の系譜は、実に大きな問題だが、今回はその事実を指摘するにとどめよう。いずれにしても、彼らは、米軍人と特別な関係にある”ゲイジュツ家”には手を出さなかった。

 

従って通勤とは言え、徹底した三ズ主義「遅レズ、休マズ、働カズ」、無束縛でヤミ報酬があり、しかも暴力団から安全なのだから通勤自体は決していやではない。しかし行先が俗にいう「将官幕舎」であることが気が重かった。

 

もっとも将官とは元来は雲上人であって、終戦の十一カ月前に少尉になった下っ端の私とは無関係な存在なのだが、実は私は、奇妙な縁で師団長とは面識があった。これは一つには師団長が砲兵出身なので、参謀たちが、砲兵隊に関する決裁をしたがらず、


細かいことまで「砲兵隊は閣下の所轄じゃ」などといって私を師団長へまわしてしまったこと、もう一つは師団長がやはり砲兵の運用には自信と関心があり、「直接ワシが指導してやる」といった気持ちがあったらしく、「連絡将校が来たら、必ずわしのところへ寄こせ」と言っていたためであったらしい。(略)

 

とはいえ、私はこの師団長に悪感情をもったことは一度もなかった。否、むしろ好感を抱いていた。一言でいえば、この師団長は、階級を考えねば、本当にまじめな良い人であった。

 

人間の性格が幼児に決まるものなら、同じ軍人という鋳型にはめこまれても、各々、千差万別であって当然である。ただ問題は、他の社会また他の時期なら、異常性格者として、当然に指導者になりえなかったと思われる人物が、日本軍のゆえにまた戦争と言う異常状態のゆえに、指導者となりえたという点にあったであろう。

 


高木俊朗氏が描くアキャブ正面の花谷師団長は、だれが見ても正常な人間ではない。これは辻政信参謀にも言える。そしてこのタイプは、多くの兵団の中枢部に一人か二人いて、不思議なことにその人間がイニシアティブをとる。問題はそういう人間がいることよりも、なぜそのタイプが実質的に主導権を確保してしまうかにあった。」

〇 私がずっとなぜなのか…と思っているのもそのことです。昔は日本人は愚かでバカだったのだ、と思っていました。でも、現在の日本人は?
経済大国を成し遂げ、ノーベル賞の受賞者をたくさん出しているこの国で、ここで挙げられているような「正常とは思えない」人間が政治を牛耳っている。何故あんなにも、スキャンダル続出で、犯罪者であることが明らかな安倍政権の面々が今も、政権にあり続けていられるのでしょうか。

 

 

 

「もちろん司令部に行くと、典型的なそのタイプが控えていて、シメあげる相手を待っていた。「ドロガメ」というあだ名のK少佐参謀で、これはもう箸にも棒にもかからず、到底常人とは思えず、全ての人が疫病神のように嫌いかつ恐れている人物だった。


何しろ、わけのわからぬことを一方的に言いまくり、何かが気に障れば遠慮なく暴力を振い、将校を撲り倒すのが唯一の趣味で、罵詈讒謗を加えたことが自分おん偉大さを証明するかの如くに思い込んでいる人間だから、始末が悪い。

 

多くの被害者がいた。私が被害を受けなかったのは、一に「砲兵隊は閣下の所轄」のおかげであったから、一夜漬けのツメコミ勉強ぐらいは不平をいえた義理ではない、と後に思うようになった。だが奇妙なことに、司令部内の主導権を握っているのは、彼だと言われていた。


なぜそうなるのであろう。師団長の顔を思い出せば、その理由は見当がつく。彼らはみな専門家であり、責任者である。そして、あの「決心変更」の繰り返しを見れば「どうやっても、もうだめだ」ということは内心でわかっている。

 

実情はもう決戦どころではない。敗滅しかない。何をやってよいのやら、それすら本当はわかっていない。こういうときに、この種の人物がのさばり出す。

 

それは軍隊だけではない。会社の倒産のときも同じだが、私のようなOL的存在は冷然としていられるのでこの種の詐欺的人物の無知無能ぶりはすぐわかるのだが、幹部クラスはノイローゼ的状態の為かえって実態が見抜けない。

 

その状態は、一方では、神がかり的言動と暴力で超能力的雰囲気を振りまく大言壮語的言いまくり型人物への心理的依存となり、もう一方では、自分の専門分野に細かく介入させるという形の逃避になってくる。

 

それが細かいことまでうるさいが、主導権はこのタイプに握られる理由であり、従ってこれも、敗滅の一現象であろう。花谷師団長が大本営で高く評価されていても不思議ではない。

 

そしてそれは最終的には、どちらが上級者かわからないような形にさえなる。「慮人日記」には次のような例がある。「兵団の渡辺参謀は妾か専属ガールかしらないが、山の陣地へ女(日本人)を連れ込み、その女の沢山の荷物を兵隊に担がせ、不平を言う兵隊を殴り倒していた。


兵団の最高幹部がこのざまでは士気の乱れるのが当然だ。又この参謀に一言も文句の言えぬ閣下も閣下だ」。これに似た話は、収容所には腐るほどあった。いや、ありすぎてうんざりするほどだった。」


〇 なぜこうなるのか…その疑問に対する答えを探しながら、色々な本を読んでいます。そして、その答えに近いのではないか、と思ったのが、河合隼雄著「中空構造日本の深層」の中のこの言葉です。

「つまり、ここでまず強調したいことは、アメノミナカヌシという、明らかに中心的存在であることが名前によって窺われる神が、神話体系のなかで、ツクヨミと同じくまったくの無為な存在であるという事実である。」

「以上の考察によって、それぞれの三神は日本神話体系のなかで画期的な時点に出現しており、その中心に無為の神をもつという、一貫した構造を持っていることが解る(次ページの表参照)。

これを筆者は「古事記」神話における中空性と呼び、日本神話の構造の最も基本的事実であると考えるのである。日本神話の中心は、空であり無である。このことは、それ以後発展してきた日本人の思想、宗教、社会構造などのプロトタイプとなっていると考えられる。」

〇 私は、なんら専門的な基礎を持たないただの一般人ですが…
自分なりに、あれこれ考えてみました。


中心に「無」や「空」を置く事で、無限に崇高で完全なイメージを各自がそこに託すことが出来る。

中心にあるものは、その「無限に完全であること」を自らにも課すし、
他からも求められる。
だから、その「完全さ」に耐えられないものは、いつも周りから追及を受け、
その立場から追い落とされるから、むしろ、何もしない、ただ、立場だけを
現す「役職だけの人」だけがそこに立つことになる。

「中空構造日本の深層」には、このような言葉もあります。

「日本においては、長はたとい力や能力を有するにしても、それに頼らずに無為であることが理想とされるのである。」


〇 あまりにも完璧であることを求めるし、求められるから、「無為」であることが理想になる。
そして、「無為」であるから、危機の時には、何もできないし何もしない。

あの「ジャパン・クライシス」の中で、小林慶一郎氏は、

「あとで「間違っていたではないか」と人から指摘される可能性があるようなことは、思っていても口にしないのが学者の処世術です。」

と言っていましたが、そのような考え方では、誰も何も出来なくなるでしょう。

太古の昔からずっとこのやり方でやって来たのが、この日本なのですから、
今さら変えるのは難しいかもしれない。

でも、このように中心に「無」「空」を置くからこそ、混乱の時、危機の時に、恥知らずの詐欺師的人間にその場所を占拠されてしまうのではないかと思うのですが。

 

「部下を殺し、国を滅ぼし、生きて虜囚となった、きっすいの帝国陸軍軍人_少なくともこの時点までは、たとえその人にどのような責任があろうと、彼に対して私が好意を持つ限り、その人から顔をそむけることが、その人に対する唯一の礼儀であり、好意の表現であるように私には思われた。と同時に、砲の処置が自決に通じた帝国陸軍において、たとえ戦後とはいえ、そのことを語るのも気が重かった。(略)

 

それなら勤務をやめればよいはずである。(略)理由は、卑しㇺべきことかも知れぬが、前述の役得の「現物給与」、米軍人による私的なヤミ支給を失いたくないからである。(略)

 

だが私同様に骨と皮の人はいくらでもいる。その人たちが一日一二〇〇カロリーの薄いカユの三食に耐えているのを見た時、自己の行為に一種のやましさといやしさを感じないわけにいかない_(略)これは結局、誘惑に抵抗できぬ自分への自己釈明にすぎなかった。

 

理由の第二は、昭和十七年以来、「一人になれるのは便所の中だけ」という軍隊生活・収容所生活を強いられてきたかつての一学生にとって、「一人の時間」の甘美さは、一度それを手に入れると、もう絶対に手放したくない宝物のように思えたからである。そして一般収容所は、その便所すら、一人用ではなかった。


理由の第三は、収容所を支配している暴力団と、それが醸し出す異様な雰囲気から逃れられることであった。”ゲイジュツ家”は直接に暴力を振われることはないと言っても、それを目にし、目にしながら見て見ぬ振りをすることによって自分も間接的に統制されていることを否応なく思い知らされ、同時にそれによって受ける一種の威圧感ないしは「恐怖政治」的被支配感には、かつての内務班にも似た耐え難い不快さがあり、同時にそれをどうもできない自らの不甲斐なさが、それからの卑怯な逃避の誘引となった_だが、これについては、後述しよう。」

 

〇 こうして読んでくると、山本氏は、本当に恵まれていた、と感じます。
私がもし男で、戦地にいたら、以前山本氏も書いていたけれど、
何よりもこの「リンチ」が恐ろしかっただろうと思います。

当時、召集された人々も、軍隊よりも何よりも嫌だったのが、リンチだった、とありました。

「当時多くの者が何とかして兵役を逃れたいと内心思っていた現実的な理由は、このリンチの噂であった。従ってこれを「軍民離間の元凶」としたのは正しい。

多くのものは、軍隊そのものよりも、むしろリンチを逃れたかったのである。」(「私の中の日本軍 上」より)

 

「あてがわれた小幕舎の仕事場は、私一人の専用であった。机があり、その正面に窓があった。そこからは、乾ききった地表に炎熱の太陽が反射している、ひびわれた”運動場”が見え、そのはるか先の正方形の小幕舎が、将官たちの幕舎だった。


右隣は炊事、左隣は医務室。私は椅子にかけ、L米軍中尉からたのまれた未完の宝石箱を机上におき、彫刻刀を手にはしたものの、放心したように、ただ、ひびわれた地表を眺めていた。静かだった。本当に静かだった。時々、隣の幕舎から、海軍出らしいひょうきんな軍医さんが来て、その静寂を破った。


軍医さんは、ヘビースモーカーらしく、煙草の欠乏に悩まされていた。捕虜には酒・煙草の支給はなかったからである。彼は入口で必ず「ネ、山本さんよ、タバコについて、少し語ろうや」と言って入った来た。私は”ゲイジュツ品”の報酬としてのタバコを取り出し、半分に切って、それぞれ手製のパイプに差し、二人いっしょに、最後のいっぷくまで深々と吸い込んだ。(略)

 

時刻になると、この広い運動場を閣下たちは三々五々に食堂の方へ来る。(略)


私はその末席で、時々閣下たちの方を見ながら早めに食事をすますと、急いで自分の幕舎に引き揚げた。
何とも言えない違和感を感じ、二度と閣下たちを見たくない、という気がしたからである。

 


というのは、米軍支給の軍衣をつけ、二列に並んでもぐもぐと口を動かしている閣下たちは、前夜、私が想像していたような、打ちひしがれて懊悩しているような様子は全く見えず、何やらロボットのように無人格で、想像と全く違ったその姿は、異様にグロテスクに見えたからである。


といってもそれは閣下たちが、無口だったということではない。否むしろ饒舌であり、奇妙に和気藹々としていた。その日、マニラの戦犯法廷か”未決”(一コン)からここへ送られた新入りの閣下がいた。

 

その人は、「ヒエーッ、こんなご馳走を食べてよいものか」と頓狂な声を出した。
その食事は、今の規準ではもちろんご馳走でなく、学校給食よりややましな缶詰食であったが、確かに、一般収容所や囚人食よりはるかによい「人間の食事」の水準の食事であった。

 

また終戦間際のジャングル戦の段階では、閣下とてやはり、イモの葉の水煮しかたべられない人もいた。」


〇 この「饒舌で、奇妙に和気藹々としていた…」という閣下たちの雰囲気について、私はもちろん、何も知らないのですが、その違和感については、少し分かるような気がしました。

というのも、NHKスペシャルノモンハン」の一シーンが思い浮かんだのです。
この番組の中で、当時の帝国陸軍の軍人がノモンハンの作戦について振り返るシーンがありました。その人たちの実際の「会話のテープ」を聞くと、まさに和気藹々と世間話でもするように、昨日のお天気の話でもするように、軽い声で話していたのにびっくりしました。

何故なら、その少し前には、ロシアの戦車隊に向って、日本兵は、「ヤァーッ!」と叫びながら銃剣を振り上げて飛び込んで行き、次々と射殺されていた…という話を聞いたのです。
食糧や弾薬の補給もなく、もうこれ以上戦いを続けるのは無理だと、そんな突撃を取りやめる決断をした隊長は、辻政信からしつこく自殺を強要された、ということです。

どんなに拒否しても、一週間、毎日毎日「説得」のために人が来るのです。
そして結局、その「隊長」は自決しました。

そんな事実が語られた後に、のんびりと世間話でもするように、笑い声も混じった会話を聞いた時、この人たちの頭の中や心の中はどうなっているんだろう、と思いました。

でも、もっと言えば、あの福島の事故の後の原子力安全保安院の人々の雰囲気の中にも、同じものを感じました。

とんでもないことが起っているのに、人ごとのように話す人たちにびっくりしました。

何か問題が起った時、「きちんと対処することが出来ない幼稚さ」を感じます。
そして、多分それは、私自身の中にもあるのではないか、と思います。

 

 

 

「ただ奇妙に感じたのは、そのことが戦場への回顧につながらず、無意識の内にも逆にそれを切断するかに見える、それに応じて反射的に起った一連の会話だった。「一句いかがですか」「アハハハ、駄句りますか、御馳走を」とつづき、話題はたちまち俳句に転じた。


将官たちの間には、病的といえるほど俳句が流行しており、食事はたちまち句会となった。そして、「〇〇閣下」「✕✕閣下」とたのしげに声を掛け合いつつ語り続ける会話は、何の屈託もないご隠居の寄り合いのように見えた。


俳句以外の話題といえば、専ら思い出話だったが、それから完全に欠落しているのが、奇妙なことに太平洋戦争であり比島戦であった。話題は常に、内地時代、教官時代、陸大時代などの話や、それに関連する共通の知人たちの話など、いまここにいる将官たちにとって、絶対にあたりさわりのない話題であって、それが、たとえ偶然にでもだれかの責任追及になりそうな話題は、みなが無意識のうちに避けているように思われた。

 

この会話を録音して、それがどこの場所でだれが行った会話かをつげずに人々に聞かせたら、それらが、陸海空、在留邦人合わせて四十八万余が殺され、ジャングルを腐爛屍体でうめ、上官殺害から友軍同志の糧秣の奪い合い、殺し合い、果ては人肉食まで惹起した酸鼻の極ともいうべき比島戦の直後に、その指揮官たちによって行われた会話だとは、だれも絶対に信じまい。

 

だがこの傾向は、彼らだけではない。レイテの最後にも、内地のA級戦犯にも、これとよく似た和気藹々の例がある。その状態は一言でいえば、部下を全滅させ、また日本を破滅させたことより、今、目の前にいる同僚の感情を傷つけず、いまの「和を貴ぶこと」を絶対視するといった態度、というよりむしろ、それ以外には何もかもなくなったかんじであった。


だがこれは果たして戦前の将官だけの態度だったのか。環境が変わると一瞬にして過去が消え、いまの自分の周囲に、何らかの形で自己が充足できるような形で対応することにより、それだけで自己のすべてを正当化できるという点で、この態度と「虐殺の森」のか凄惨なリンチの主役永田洋子の態度は、ほぼ同じと言わねばならない。

 

「獄中者組合」の支援で”獄中闘争”を展開中の彼女を取材した「週刊朝日」の記者は次のように記している(「週刊朝日」50年7月11日号)。


「……空色のシマ模様のサマーセーターに花模様のカーディガンを羽織り、短めの髪をおさげのようにたばねて……。ごく当たり前の若い女性。……アジトで「総括」という名のリンチが行われた時、最も冷静で最も残酷だったと言われるその面影はまったく見られない。

 


どちらが本当の彼女なのだろうかと、戸惑ってしまうほど、あのイメージと違うのだ」こういう印象の彼女が、能弁に語る、「……レンセキ(連合赤軍事件のこと)の敗北を総括しながら生きて行くことの意味は何だろうかって考えたの。……人間が人間として生きて行くためにはどうあらねばならないか。

 

ここにいる人はおおむね下層労働者の農村出身者でしょ。その人たちの団結をかちとり、同時に、拘置所に対する要求の実現をかちとっていく、つまりレンセキ総括の実践的なものとして私たちの運動はあるのだろう、というふうに考えるのよ」と。そのことを言うと彼女は「じゃあ」ニコッとほほえむと、ゆっくり立ち上がり、ドアの向こうに姿を消した。

 

ややあって思い扉が閉まる音がした。”総括”した同志の夢を見ることはないのだろうか。彼女のあまりの明るさに、そんなことを考えてしまった」と。


これは一体どういうことなのか。おそらくそれは「いま」の目前の対象を、「いま」の時点だけの臨在感で把え、「いま」それに自分を対応さすという形で反応することにより過去が消失するという、異様な精神状態を示している。


これは恐らく彼女の”戦後”なのであろう。こうなれば人間には、責任も反省もない。否、想起すらあり得ない。たとえ想起のようにン見えても、それは自分を「いま」に対応さす再構成_彼女の言葉を借りれば「つまりレンセキ総括の実践的なもの」にすること_にすぎない。

 

彼女はこの状態を「人間が人間として生きる」ことだと考えているのであろうか。もしそうなら、「いま」の対象を臨在感で把えてそれと和合すれば、すべては赦されることになる。」

 

将官だけでなく、帝国陸軍そのものがきわめてこれと似た状態にあり、従ってその意味での無責任・無反省集団であって、それは、軍の内部ですら批判のあった「処罰されるべき人間が”人間的和によって”逆に昇進した」という事例に、よく現れている。(略)

 

 

だがこの責任感という言葉は「自らの発想、自らの決断、それに基づく自らの意志で行った故に私の責任である。それを非とされるなら、軍法会議という公の法廷で争おう」という意味の責任とは全く別の言葉、むしろその逆であって、自らの責任を回避するため盲従すること、いわば命令への盲従度を計る言葉であった。

 

帝国陸軍には、客観的な「法」が存在するという意識も、将官であれ二等兵であれ、法に基づく「法的秩序」に等しく従うべきだという考え方も皆無であった。


従って、たとえば、砲弾のない砲を、人力で三百キロ引っ張って来いと命令されたら、そのため部下を何人殺そうと命令に盲従して引っ張ってくれば「責任感旺盛」な立派な将校だが、自らの決断、自らの責任で砲をパラナン川にたたきこめば、それは、自決させるべき破廉恥な無責任将校であった。(略)

 

砲弾のない砲を、あるいは爆破しあるいは捨てたため、多くの下級砲兵将校は、自決し自決させられ、また死地に出されて帰らなかった。前述のように砲兵は「……火砲ト運命ヲトモニスベシ」であり、砲を失ったら、少なくともその直接責任者である下級将校は、生きていてはならない。

 

これは、「刀は武士の魂」と武器を神聖視、これを奪取されれば切腹を強いられた徳川時代以来の伝統と思うが、その点では砲兵も、乗機と運命を共にする「特攻」と変わりはなく、特高だけが特異な現象ではない。」


〇この本を読んで、斬込隊が座布団爆雷を持って戦車に飛びつく、というのも、
特攻隊と同じだと知りました。帝国陸軍は、人命を全てそのように扱っていたのだと改めてわかりました。


「戦後、そのため自決させられた下級砲兵将校の話を聞くたびに、私は一種、身につまされる思いがする。前述のように私は、正規の筆記命令なく自らの手で、野砲・自走砲・十二榴など四門をアパリ正面で爆破し、サンホセ盆地へ撤収の途次、旧式山砲一門をカガヤン川の支流に叩き込めと命じた。そしてこの命令は明確に私の独断であった。(略)


これを話した時、「やれやれ山本さんよ、日本が徹底的に負けて良かったな。たとえ勝たなくとも、ノモンハン型の停戦だったら、あなたなんぞ、何度腹を切らされても追いつかなかったよ。なんで気易く、正規の筆記命令もなしにそんな役目を引き受けたのさ」などと言われ、また前述のAさんは、私が書いたものを読むたびに、「彼がものを書くとは、いいご時勢なんだね。ありゃあ、元来は軍法会議で銃殺もんなんだよ。え、小野田さん、ああ、ああやりゃ昔も今も金鵄勲章ものさ」と冗談交じりに言う。


私がそのとき和気藹々たる閣下たちに感じた異常な違和感の背後には、このことがあった。この閣下たちのうちのだれかは、おそらく誰かを自決させるか自決に追い込んでいるかは、しているであろう。

 

そして、情況のほんのわずかの変化で、それは私であったろう。ではこの人たちはたとえ「オレを自決させておいても、平気で、こうやって和気藹々と句会をやっていけるわけか」と言うに言われぬ異様な感じである。それは人びとが、獄中の永田洋子から受けたであろう感じとは、到底比較にならない、一種、もう表現しきれないような異様な感じであった。」

 

 

 

「和気藹々はその日だけではなかった。そしてそれが二、三日続くと、今度はこちらが、肩透かしをくったような妙な虚脱感を覚え、閣下なんぞについて何かを考えるのはもう面倒だ、最初に記をつかったこちらが馬鹿正直だっただけだ、といった、一種投げやりの無関心なっていった。


そしてそれを過ぎた時、私はやっとこの将官たちを、一応そのままの姿で、「見る」余裕を獲得した。そして見れば見るほど、それは、不思議な存在に思われた。

 

なぜあの人たちが指揮官でありえたのだろう。なぜあの人たちの命令で人々が死に得たのであろう。なぜ自決を命ぜられて人が自決し得たのだろう。(略)


閣下がお互いに閣下閣下と呼び合うものだとはこのときはじめて知ったが、鉄柵の中でのその呼びかけが逆に妙に空虚にひびき、そこにいるのは結局、それ以前にも今と同様、そう呼び合っていただけの、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかった無個性無性格者の集団だったとしか思えなかった。(略)

 


一体これは、どういうことなのか。選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者(リーダー)の資質があるなら、今でも何かを感ずるはずだが、それは感じられない。

 


野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば、最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。

 

私が最初、師団長の顔を見たくないと思ったのはそれで、具体的に言えば彼の部下である砲兵隊の最後も砲の処置も、砲兵出身である彼に語りたくないのが理由だったが、そういう苦悩があるとさえ感じられない。

 

一体この人たちは何なのだろう。まるで解放されたかのように、この現在を享受しているかに見えるこの人たち。この人たちの頭脳の奥に、本当にリアリティーをもつ存在があるとすれば、それは一体何なのであろうか。私にはただただ不思議であった。

 

彼らが「世界的定義」における軍人ではなかったことは確かである。従って米軍は日本軍を「軍隊として」尊敬していなかった。ロンメルのような形で敵軍にすら称揚され、世界的水準で一定の評価を得ている伝説的将軍は日本軍にはいないし、いるはずもない。

 

もちろん、お家芸の「仲間ぼめ」は今でもある。(略)それらを除き、彼らが真から例外的に高く評価していたのは自暴自棄のバンザイ突撃に最後まで反対し、冷徹な専守持久作戦で米軍に出血を強い続けた沖縄軍の八原高級参謀だけであったろう。

 

「慮人日記」にも出てくるが、米軍は一兵士に至るまで「沖縄の作戦はスマートだった」「あれを徹底的にやられたら参るところだった」と言って、出血回避という米軍の弱点を巧みにさ逆に捕え、綿密な計画通り一歩一歩撤退した見事さを評価していたが、他は全く問題にせず、日本国内だけで評価されている”自画自賛的命参謀”などは、話題にすらなっていなかった。

 

敵の意識にすらのぼらない”メイ参謀”などは、はじめからお笑いである。(略)

 

幕舎の入口に不意に人影がした。振り向くとそこには、見知らぬ人が立っていた。(略)いわば将官的カガシ的印象が皆無で、本当に生きているという感じが、その全身から溢れていたのである。その人は、昭和十七年の入隊以来私が接して来た人々とは全く別の人であった。

 

物静かで穏和で謙虚、少しも居丈高でなく、それでいて何やら侵し難い威厳と自信といったものが感じられた。私はいつしか椅子から立っていた。その人はごく自然に幕舎に入って来た。そして机の上の宝石箱を見ると、「あ、あなたですか。いやL中尉がしきりと宝石箱を話題にするので、ちょっと拝見したくなって……」と言った。(略)

 

私はしばらく茫然と立っていた。その人の印象は余りに強く、同時に、そういう人が現実にこの場にいることがどうしても信じられなかったからである。(略)

 

軍医さんは椅子にかけ、二人が向き合っていっぷくつけると、彼は「芸術家同士は仲がいいねえ、テンヤさんと何話してたの」と言った。「テンヤさんて?」「いま来てたでしょう」「あ、あの方、テンヤさんと言うんですか」「本当はノブヤかな。「あの旗を撃て」ですよ」(略)


こんな調子で軍医さんは説明してくれた。いま来たのが画家の阿部展也氏、奥さんがドイツ系のフィリピン人で、「あの旗を撃て」という映画の主演女優。そして、「絶世の美女ですよ。あなたなんか一目見たら腰をぬかすよ」ということであった。(略)


「…だけど芸術家はいいなあ、大日本帝国がひっくりかえっても、奥さんと別れても、自分の世界があるからなあ。もっとも将官連にいわすと「絵空事をやっとるヤツはのん気なもんじゃ」ということになるけど」

 

この一言が、私を憤慨させ、自制を失わせた。カーッと血がのぼって来た。そして、あらゆる罵言が次から次へと出て来た。「絵そらごと」とは何事だ、頭の中に絵そらごとしかなかったのは、あの将官たちじゃないか。軍人たちではないか。自分たちだけが祖国・民族のことを思いつめているような顔をして一人よがりのシナリオを自作自演し、その舞台から他の同胞を見下し、他の職業人を、やれ「のん気」「自覚がない」「意識が低い」などと蔑視していたくせに、その実態は空虚なカガシではないか。今こそ解放されたような顔をしているではないか。


一体、日本の将官、指導者に欠けていたのは何なのか、一言でいえば自己評価の能力と独創性・創造性の欠如ではないか。またその前提であるべき事実認識の能力ではないか。


阿部さんが対象を正確に見て、それを把握して自らの手でカンバスの上に創造する、あらゆる面での、そういった種類の能力が全く欠如していた。そのはずだ、それを可能にする自らの世界がはじめから「から」だったのだ。

 

否、彼らだけでない、日本軍の全てが、新しい発想もなければ、想像力もなく、変転する情勢への主体的な対処もできず、対象を正確に直視して、その弱点を見抜くことさえできなかった盲目的無能の集団だったではないか。

 

その点、比島人ゲリラにすら劣っていたではないか。日本と言う枠内での、軍部という井の中の蛙が、仲間ぼめという相互評価で、土地ころがしのように軍部の評価を高めて無敵無敵と自称したところで、それは単なる自画自賛で国際的評価としては通用しない。


だが戦争はまさに国際的事件であり、国際的評価に耐え得ないものは、はじめからこれに対処できるわけはない。それすら理解していない。一人よがりの思い込み集団。その状態はまさにこの将官幕舎と同じではないかったのか、鉄柵の中で「閣下」「閣下」と言い合っているこの状況と。その連中が何で他人の仕事を「絵そらごと」だなどと軽蔑できるのだ、と。」

 

「従ってそう言いながら私は、自らの現状と対比しつつ、多くの暴将や暴参謀を思い出していた。それは何かが気にさわれば、狂ったように暴力を振い、「将校を殴り倒すのが唯一の趣味」といわれた師団司令部のK少佐参謀や「慮人日記」の「陣地へ女を連れ込んだ参謀」だけではない。収容所の中には、この種の上級者への怨嗟が文字通り渦巻いていた。


ああいう種類の人たちは結局「軍人」を演じただけで、内実は「から」だったのだ。軍人としての能力は皆無だったのだ。今にして思えばこれを敷衍したものが日本軍だった。


こういう人の気違いじみた暴力と暴言の背後にあるものは、一言でいえば「無敵皇軍」という自画自賛的虚構を、「虚構」だと指摘されまいとする、強弁であり、暴言であり、暴行であり、犠牲の強要である。そして陸軍全体がそうであった。

 

陸軍の能力はこれだけです。能力以上のことはできません」と国民の前に端的率直に言っておけば何でもないことを、自らがデッチあげた「無敵」という虚構に足をとられ、それに自分が振り回され、その虚構が現実であるかの如く振舞わねばならなくなり、虚構を虚構だと指摘されそうになれば、ただただ興奮して居丈高にその相手をきめつけ、狂ったように「無敵」を演じ続け、そのため「神風」に象徴される万一の僥倖を空だのみして無辜の民の血を流しつづけた、その人たちの頭にあったものこそ血塗られた「絵そらごと」でなくて、なんであろう。妄想ではないか。(略)


軍医さんは私の興奮に、あきれたように言った。
「山本さんよ、ぼくがそう言ったわけじゃないよ。ま、そう怒らずにさ、もっとよく将官たちを見てごらんよ。私はずっと見ているわけだけど、あなた、今のあの人たち、何だと思う」
「何だ、というと」
「出家ですよ。戦に敗けたので頭を丸め、墨染めの衣を着て、出家陰性した人ですよ。だからネ、みんな悟ってますよ。面白いよ。あの悟り。

 

腹を切らなきゃ、出家。これが昔からの日本の責任の取り方ですよ。それ以外に、どうすりゃいいって言うの、あなた?そんなこと、もういいじゃない、それより、タバコについて、もう一度語ろうや」


後で思えば、出家責任説は彼だけでなかった。山田乙三大将がソヴェトから帰った時、「高僧のような」という表現が、ある新聞に載っていたし、岸前首相は収容されて以後の東条前首相を「俳句など読み、人間的に大変に立派になった」、いわば「悟りを開いた」といった意味のことを言っている。


出家!出家とは何なのか、生きながら死者の籍に入ることにより、死者の特権を獲得し、生者の責任を免除されることなのか?(略)


「将校たるものに、当番兵の食卓の片すみで食事をさせるとは何事じゃ」と叱られましてね。将官テーブルの末席があなたの席ですから」と。それからニヤッと笑い、「ご苦労さま」と言って出て行った。


その笑いは、実態を失っても、将官とか将校とか兵隊とかいった形式だけにこだわる将官たちへの、冷笑のように見えた。これで「出家」なら、生ぐさ坊主である。従って、敗戦後にもなお、階級的特権に基づく「食卓」すなわち恩給だけを、彼らが要求したとて不思議でない。」