読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 下    第十九章 文明は人間を幸福にしたのか 

「過去500年間には、驚くべき革命が相次いだ。地球は生態的にも歴史的にも、単一の領域に統合された。経済は指数関数的な成長を遂げ、人類は現在、かつてはおとぎ話の中にしかありえなかったほどの豊かさを享受している。


科学と産業革命のおかげで、人類は超人間的な力と実質的に無限のエネルギーを手に入れた。その結果、社会秩序は根底から変容した。人間心理も同様だ。


だが、私たちは以前より幸せになっただろうか?」


「もしそうでないとすれば、農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?

歴史学者がこうした問いを投げかけることはめったにない。(略)だがこれらは、歴史について私たちが投げかけ得る最も重要な問いだ。現在のさまざまなイデオロギーや政策は、人間の幸福の真の源に関するかなり浅薄な見解に基づいていることが多い。

国民主義者は、私たちの幸福には政治的な自決権が欠かせないと考える。共産主義者は、プロレタリアート独裁の下でこそ、万人が至福を得られるだろうと訴える。


資本主義者は、経済成長と物質的豊かさを実現し、人々に自立と進取の精神を教え諭すことによって、自由市場だけが最大多数の最大幸福をもたらすことができると主張する。


本格的な研究によって、こうした仮定が覆されたらどうなるだろう?」


「農業革命で人類が農耕・牧畜の手法を習得した時、周囲の環境を整える、集団としての能力は増大したが、多くの人間にとって、個人としての運命はより苛酷になった。」


「進化は、私たちの心身を狩猟採集生活に適合するように形作った。それにもかかわらず、先ずは農業へ、次いで工業へと移行したせいで、人間は本来の性向や本能を存分に発揮できず、そのために最も深い渇望を満たすこともできない不自然な生活を送らざるをえなくなった。」


「地球全体の幸福度を評価するに際しては、上流階級やヨーロッパ人、あるいは男性の幸福のみを計測材料とするのは間違いだ。おそらく、人類の幸せだけを考慮することもまた誤りだろう。」

 

〇ハラリ氏は、物質的な要因や社会的、倫理的、精神的要因について述べ、人々の幸福度を評価しようとした心理学者や生物学者ら被験者の質問表や、その他のデータについて説明します。

「<幸福度を測る> 以上から、過去二世紀の物質面における劇的な状況改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺されてしまった可能性が浮上する。

となると、現在の平均的な人の幸福度は、1800年の幸福度と変わらないのかもしれない。非常に重要視されている自由でさえも、私たちに不利に働いている可能性がある。私たちは配偶者や友人や隣人を選択できるが、相手も私たちと決別することを選択できる。


自分自身の人生の進路に関してかつてない絶大な決定権を各人が行使するようになるにつれて、深いかかわりを持つことがますます難しくなっているのを私たちは実感している。

このように、コミュニティと家族が破綻をきたし、しだいに孤独感の深まる世界に、私たちは暮らしているのだ。」


「私たち現代人は、鎮静剤や鎮痛剤を必要に応じて自由に使えるものの、苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する堪え性がはなはだ弱まったために、おそらくいつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じていると思われる。」

 

「豊かな現代の社会では、毎日シャワーを浴びて衣服を着替えることが習慣となっている。だが、中世の農民たちは、何か月にもわたって身体を洗わずに済ませていたし、衣服を着替えることもほとんどなかった。」


「幸せかどうかが期待によって決まるのなら、私たちの社会の二本柱、すなわちマスメディアと広告産業は、世界中の満足の蓄えを図らずも枯渇させつつあるのかもしれない。

もしあなたが5000年前の小さな村落で暮らす18歳の青年だったら、自分はなかなか器量が良いと思っていただろう。(略)同じ学校の生徒は醜い連中だったとしても、あなたの比較の対象は彼らではなく、テレビやフェイスブックや巨大な屋外広告で四六時中目にする映画スターや運動選手、スーパーモデルだからだ。」


「ホスニ・ムバラク政権下の平均的エジプト人は、ラムセス二世やクレオパトラの統治下のエジプト人に比べて、飢餓や疫病、あるいは暴力によって命を落とす可能性は格段に低い。

大半のエジプト人の物質的な状況は、かつてないほどに良好だ。2011年にはエジプト人たちは通りに繰り出して踊り回り、そんな幸運をアッラーに感謝していたことだろうと、あなたが考えたとしても無理はない。


ところが彼らは感謝するどころか怒りに燃えて蜂起し、ムバラク政権を打倒したのだ。彼らが比較対象にしていたのは、ファラオ治世化の祖先ではなく、オバマ政権下のアメリカで暮らす同時代人だった。」


「貧しい者は、自分は死を免れないのに、金持ちは永遠に若くて、美しいままでいられるという考えには、到底納得できないだろう。」

 

「<化学から見た幸福>  生物学者の主張によると、私たちの精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されているという。

他のあらゆる精神状態と同じく、主観的厚生も給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。そうではなく、神経やニューロンシナプス、さらにはセロトニンドーパミンオキシトシンのようなさまざまな生化学物質から成る複雑なシステムによって決定される。」

 

「地上に楽園を実現したいと望む人全員にとっては気の毒な話だが、人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を比較的安定した状態に保つようにプログラムされているらしい。(略)

幸福と不幸は進化の過程において、生存と繁殖を促すか、妨げるかという程度の役割しか担っていない。それならば、進化によって私たちが極端に不幸にも、極端に幸福にもならないように形作られていても、不思議はないかもしれない。」

 


「学者の中には、人間の生化学的特性を、酷暑になろうと吹雪が来ようと室温を一定に保つ空調システムになぞらえる人もいる。状況によって、室温は一時的に変化するが、空調システムは必ず室温をもとの設定温度に戻すのだ。」


「ここでしばらく、あなたの家族や友人のことを思い浮かべてほしい。おそらくあなたの周囲にも、どんなことが降りかかろうと、常に比較的楽しそうにしている人もいれば、どれほど素晴らしい巡りあわせに恵まれても、いつも不機嫌な人もいるだろう。(略)

ほんのつかの間、生化学的状態を変動させることはできるが、体内のシステムはすぐに元の設定点に戻ってしまうのだ。」


「既婚者が独身者や離婚した人たちよりも幸せであるのは事実だが、それは必ずしも結婚が幸福をもたらすことを意味しない。幸せだからこそ、結婚できたのかもしれない。

より正確にいえば、セロトニンドーパミンオキシトシンが婚姻関係を生み出し、維持するのだ。(略)というのも、生活を共にするなら、幸せで満足している配偶者とのほうが、沈みがちで不満を抱えた配偶者とよりも、はるかに楽だからだ。


したがって、既婚者の方が概して独身者よりも幸せであるのは事実だが、生化学的特性のせいで陰鬱になりがちな独身者は、たとえ結婚したとしても、今より幸せになれるとはかぎらない。」


「中世フランスの農民と現代のパリの銀行かを比べてみよう。農民は近くのブタ小屋を見下ろす、暖房もない泥壁の小屋に暮らしていた。一方、銀行家が帰るのは、テクノロジーを駆使した最新機器を備え、シャンゼリゼ通りが見える豪華なペントハウスだ。


私たちは直感的に、銀行家の方が農民よりもずっと幸せだろうと考える。だが、泥壁の小屋やペントハウスシャンゼリゼ通りが私たちの気分を本当に決めることはない。セロトニンが決めるのだ。


中世の農民が泥壁の小屋を建て終えたとき、脳内のニューロンセロトニンを分泌させ、その濃度をXにまで上昇させた。2014年に銀行家が素晴らしいペントハウスの代金の最後の支払いを終えた時にも脳内のニューロンは同僚のセロトニンを分泌させ、同じようにその濃度をXにまで上昇させた。

脳には、ペントハウスが泥壁の小屋よりもはるかに快適であることは関係ない。肝心なのは、セロトニンの濃度が現在Xであるという事実だけだ。」


「遺伝の宝くじで運良く陽気な生化学的特性を引き当てた人は、革命前も、革命後と同じように幸せだった。陰鬱な生化学的特性を生まれ持った人は、かつてルイ16世やマリー・アントワネットについて愚痴をこぼしていたのと同じぐらい苦々しく、ロベスピエールやナポレオンについて不平を並べたのだ。」


世界恐慌のさなか、1932年に出版されたオルダス・ハクスリーディストピア小説素晴らしい新世界」(黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫、2013年、他)では、幸福に至上の価値が置かれ、精神に作用する薬物が警察や投票に取って代わって政治の基礎をなしている。そこでは誰もが毎日、「ソーマ」という合成薬を服用する。この薬は、生産性と効率性を損なわずに、人々に幸福感を与える。(略)

ハクスリーの描く世界は、多くの読者にとって恐ろしく感じられるが、その理由を説明するのは難しい。誰もがつねにとても幸せであるというのに、そのどこが問題だというのだろうか?」

 

 

「<人生の意義> すると、自分の日常生活について、多くの人々の見方の中に一見矛盾しているように思われる点が見つかった。子供の養育にまつわる労働を例に取ろう。


カーネマンの研究から、喜びを感じるときと単調な苦役だと感じるときを数え上げてみると、子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。労働の大半は、おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪を宥めたりすることが占めており、そのようなことを好んでやる人などいない。

だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。これはつまり、人間には自分にとって何が良いのかが良くわかっていないことを意味するのだろうか?

そういう見方もできるだろう。だがこの発見は、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを立証しているとも考えられる。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというのだ。


幸福には、重要な認知的・倫理的側面がある。各人の価値観次第で天地の差がつき、自分を「赤ん坊という独裁者に仕える惨めな奴隷」と見なすことにもなれば、「新たな命を愛情深く育んでいる」と見なすことにもなる。


ニーチェの言葉にもあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえも極めて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。」


〇少し前に、「子育ての例をあげて、人間は自分に何が良いのかわかってない…」というようなことを書きました。それがこの場所です。2度目に読むとまた少し違って感じられます。

この、メモをしながら読むというのは、時間がかかって大変に感じることもあるのですが、私のように頭の働きに問題のある人間には、案外良い方法かもしれない、と最近は思います。


「では、中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか?まさにそのとおりだ。そうした空想を打ち破る者が出ないかぎりは、幸せだったに違いない。


これまでにわかっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。(略)

したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。

人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に取り憑かれているのだ。

それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものである限り、私は自分の人生に人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見出すことができるというわけだ。

これはなんとも気の滅入る結論ではないか。幸福は本当に、自己欺瞞あってのものなのだろうか?」

 

 

 

「<汝自身を知れ>  歴史上、大半の宗教やイデオロギーは、善や美、正義については、客観的な尺度があると主張してきた。そして、凡人の感情や嗜好には信用を置いていなかった。


デルポイアポロン神殿の入り口では、「汝自身を知れ」という碑文が巡礼者たちを迎えた。これは暗に、普通の人は自分自身の真の姿を知らず、それゆえに真の幸福についてもおそらく無知であることを示唆していた。フロイトもきっと、この見解に賛同するだろう。

キリスト教神学者も同じ意見だと思われる。ほとんどの人は、どちらを選ぶかと問われれば、神に祈りを捧げるよりも、セックスをする方がいいと答えるだろうということを、聖パウロと聖アウグスティヌスは実によく承知していた。

それでは、セックスこそが幸せを手に入れるための鍵であると言えるだろうか?聖パウロと聖アウグスティヌスは、そうは考えなかった。これはたんに、人間は生まれながらにして罪深く、簡単に悪魔に誘惑されうることを証明しているにすぎない。 キリスト教の立場からすれば、大多数の人間は、程度の差こそあれ、ヘロイン中毒者と同じ状況にある。」

 

「以上のような立場から、宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とは全く異なる探求方法をとってきた。中でもとくに興味深いのが、仏教の立場だ。仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる。

2500年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。」

〇科学界では、仏教に関心が高まっているとは知りませんでした。
ただ、以前、NHKの「心と脳の白熱教室」というのを見た時(記憶がハッキリしないのですが、確か、この中でだったと思いますが)、自分の気持ちを安定させるために、何も考えず何もせず、ただ静かにジッとしている時間を持つことが大事だ、という話をしていて、まるで禅だ、と思ったことがあります。

この番組です。http://books.bunshun.jp/sp/noukagaku

 

「たいていの人は、自分の感情や嗜好、好き嫌いと自分自身を混同している。彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに、彼らは決して気づかない。

もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。

古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?」


「歴史書のほとんどは、偉大な思想家の考えや、戦士たちの勇敢さ、聖人たちの自愛に満ちた行い、芸術家の創造性に注目する。かれらには、社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播についても、語るべきことが多々ある。

だが彼らは、それらが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、何一つ言及していない。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と言える。

私たちは、この欠落を生める努力を始めるべきだろう。」