読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

道ありき

〇 先日帰って来た息子が、「三浦綾子が面白かった」と言ったので、

ちょっとびっくりしました。「塩狩峠」を読んだそうです。

私が三浦綾子のものを読んだのは、高1の時でした。

「道ありき」を読みました。強烈な印象と強い感動があって、

この本は、もう一度…と繰り返しては読まない、と思いました。

読むたびに最初の感動が変質していくのが、嫌だったのです。

そして、道ありきがある種の「ドキュメンタリー」だとしたら、この人の作った「フィクション」から、ここにあるもの以上のものを汲み取る力は、私にはない、と思いました。

私の中では、「道ありき」は特別な本になりました。

 

 

でも、内容はほとんど忘れてしまっていました。また、今回読み返してみて、一体何にそれほど強く感動したのか、今となってはよくわからない、という気持ちになりました。

ただ、受洗に関連して「賭け」の話が語られていたことや、聖書の中の「伝道の書」について書かれていた部分を読んで、忘れていたけれど、私は、この本を読んで、キリスト教に導かれたのだと、あらためて思いました。

 

この本からは、一部分だけ、メモしておこうと思います。

 

「綾ちゃん

お互いに、精一杯の誠実な友情で交わって来れたことを、心から感謝します。

綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人でした。

綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。

 

万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!

一度申した事、繰り返すことは控えてましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申し述べたいことです。

 

 

生きるということは苦しく、また、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。

綾ちゃんのこと、私の口からは誰にも詳しく語ったことはありません。

頂いたお手紙の束、そして私の日記(綾ちゃんに関して書き触れてあるもの)歌稿を差し上げます。

これで私がどう思っていたか、又お互いの形に残る具体的な品は他人には全くないことになります。

 

 

つまり、噂以外は他人に全く束縛される証拠がありません。つまり、完全に「白紙」になり、私から「自由」であるわけです。焼却された暁は、綾ちゃんが私へ申した言葉は、地上に痕をとどめぬわけ。何ものにも束縛されず自由です。

 

これが私の最後の贈物

      念のため早くから

   一九五四、二、一二夕

                正

 

綾子様」

 

〇実は、この本に関しては、ある思い出が重なります。

三浦綾子という名前は知っていても、私は、それほどの

読書家ではなく、その著書を読んだことはありませんでした。

ただ、高校に入って間もなく、この三浦綾子さん本人が、私たちの

学校に来て、講演をして下さったのです。

その内容は忘れてしまったのですが、とても面白くて引き込まれたのはしっかり覚えています。

 

それで、私は本を読んでみたい…などと誰か友人に言ったのか…

いえ、誰にもそんなことは言いませんでした。高校に入って間もなくですから、

そんな親しい話をする友人はまだ居ませんでした。

 

でも、その講演から2~3日後、同じクラスのある男子が、「道ありき」を学校に持ってきて、私に貸してくれる、というのです。その男子とは、私はほとんど口をきいたことがありませんでした。でも、その時、私は何故か、その貸してくれるというその男子の気持ちがわかるような気がしたのです。

 

「同類の魂」を感じました。多分、向こうもそうだったのだと思います。

その後も、その人とは少しも親しくならず、二年になると、クラスが変わり、それっきりになりました。

 

でも、「同類の魂」って、互いに感じるものなんだ…ということは、

その時にしっかりと経験しました。

そんな思い出のある「道ありき」でした。

 

また、小林多喜二の母を描いた「母」を今回、初めて読みました。

その感想とメモは、次回にしたいと思います。