読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「第4話  いちばん怖かったこと

 

介護をするときに怖いこと

 

死にゆくプロセスを家で看取る。ガンの末期の家族を家で看取る。

本書のテーマはそのことである。それは、そんなに怖いことではなくて、家族が決意すれば可能なように思う、ということを、末期ガンの夫を看取った経験を振り返りながら書いている。

 

 

家で看取ること自体は、怖いことではなかった。むしろ残るものが励まされるありがたいことだった。でも、一連のプロセスの中で、怖いことは、やっぱりあった。(略)

 

 

 

人を介護する時に怖いのは、金銭的な子とも含めて、自分の限界を超えるようなことを求められるのではないか、ハードでヘビーな現実的体験があるだろう、と思うのが怖いのではないだろうか。

 

 

いちばん怖かったフェーズのことを書いてみよう。人によってフェーズは違うかも知れないけれど、やっぱり「すごく怖いフェーズ」は誰もがどこかで乗り越えなければならないのではないか、と直感で思うからだ。でも、おそらく、「すごく怖い」フェーズは、そんなに長く続くまい。そのフェーズは終わるし、終わらないとしても、慣れる。そして、そのフェーズはおそらく、死にむかう、最後のフェーズではない。

 

 

「容態の急変」と「排泄」

(略)

「いざというとき」、と言う言い方を私たちはたくさんするけれども、誰かの看病をしているときの、この、「いざ」というのは、多くの場合「容態の急変」だと思う。具体的には、ばったり倒れる、だったり、意識を失う、だったり、ものすごい痛みで七転八倒する、だったり、わけのわからないことを叫び出したり、言い出したりする、とか、そういうことなのではあるまいか。(略)

 

 

もうひとつ怖いこと。それは、「排泄」に関わることではないか。排泄物との闘い。要するにウンチとかおしっこ。このウンチ、おしっこの持つ力はすごい。わたしたちの近代的暮らしは、ウンチ、おしっこを遠ざけるところから始まっている。

 

 

五〇代後半であるわたしの年代にとって、ウンチ、おしっこの臭いは、幼い頃には馴染みのある者だった。私が小学生の頃、母の生まれ故郷、山口県のいなかでは、トイレはもちろん汲み取り式トイレであり、しかも畑をつくっていたから、汲み取り式トイレにたまった糞尿はバッキュームカーが来て吸い上げるのではなく、叔父が「肥桶」で定期的に汲み取り、畑に持っていくものであった。

 

 

 

肥桶に入れられた排泄物は畑のそばにある「肥だめ」にしばらくためられてから、肥料として畑に撒かれる。子どもたちの誰かが、山で遊んでいて、ときおり肥溜めに落ちる、というのは何の珍しいこともない、田舎の日常であった。畑のある地方に育った人なら、こんなことは誰でも知っている。(略)

 

 

だいたい今の若い人たちは、トイレに入って、下にたくさんの排泄物がたまっているところにしゃがんで用を足す、という状況自体におそれを感じるのではあるまいか。だが、二〇一〇年代に五〇代以上の方は、おそらく家のトイレが汲み取り式だった時代の記憶が明確にあるだろう。(略)

 

 

排泄物の存在とにおいのすごい力

 

ほんの半世紀ほど前には、日本人のほぼ全員が、そんな滞留された排泄物と、共存していたのである。これは、西洋社会の方々には驚愕を持って受け止められていたようであった。

 

 

「汲み取り式便所」を英語でpit latrine(ピット・ラトリン)と言うが、これは西洋社会では前近代社会の象徴であり、未開社会のシンボルなのである。

 

 

上水道、下水道が整っていないからこそ、ピット・ラトリンが存在するのであって、要するに糞尿をためているような社会に、近代は訪れないと考えられていた。

ヨーロッパを代表する公衆衛生校のひとつであるロンドン大学衛生熱帯医学院は私の母校であり、一〇年働いた職場でもあったが、そこにいた衛生学の専門エンジニアである同僚は、日本のことを、近代社会が確立されたあともピット・ラトリンと共存している社会、と定義しており、アフリカや南アジアからの留学生を驚かせていたものである。

 

 

ラテンアメリカやアフリカ、アジアの都会を含む西洋社会と西洋植民地社会の都市では、すでにわたしの二世代前位から、「水洗便所」が整備されている家に住んでいるから、近代都市におけるピット・ラトリンとの共存は、彼らにとって驚異なのである。

 

 

もっとも、上下水道の整備が近代社会の条件下と言うと、もちろんそうではなくて、なんと紀元前二五〇〇年頃に栄えた、インダス文明の遺跡であるパキスタンモヘンジョダロでは、びしっと上下水道が整っている姿が見られるそうだから、いったい人間の文明と言うのは、時間軸ともに進んでいるのか、遅れているのか、さだかではない。(略)

 

 

 

排泄物の存在とにおいにはものすごい力があって、理性は吹き飛び、人間存在の原初に引き戻される。恐ろしいことである。介護や人を看取るプロセスでも、大きな力を発揮する。家で介護していて、もうダメだ、これは家では看取ることができない、と家族が判断する大きな要因のひとつが、このウンチとおしっことの闘いである、と言わねばならない。

 

 

排泄のコントロールができなくなる人があり、排泄物で部屋が汚れ、そのにおいが家中に漂うようになることに、近代生活をしている私たちは耐えることが出来ないのだ。

怖いこと。だから、それは「容態の急変」と「排泄」のことに集約されていく。わが家でもそうであった。一番怖かったフェーズは、夫が「ばったり倒れ」、排泄コントロール不能になったフェーズであった。(略)

 

 

「ばったり倒れる」フェーズ

 

ばったり倒れる。これは怖い。本当に怖い。ばったり後ろ頭から昏倒する。なんと言ってもこれは、怖かった。六八歳で死んだ夫は、余命あと半年、と言われてから二年生きた。家で死んだのでそのプロセスをずっと見て来た。いま思い返して、いちばんつらかった、というか、一番参った、というか、いちばんこたえたのが、この「ばったり倒れるフェーズ」であった。それとくらべたら、「最後の日々」、死にむかう日々は、むしろ輝かしいような日々だった。

 

 

 

この「ばったり倒れる」フェーズは二度あった。(略)

要するに、死ぬ一年前と、二年前に、この「ばったり倒れる」フェーズがしばらくあった、ということである。(略)

 

 

頸部リンパ節転移の末期ガンが見つかった時点では、脳出血の手術の後遺症はてんかん視野狭窄だが、てんかん自体は薬でよくコントロールえていて、何の症状もなかった。身長一七五センチ、体重七〇キロ。

 

 

首が少し腫れていることに気づいた以外は、自覚症状は全くなかった。首に気づかなければ、そのまま、ガンだとも思わずに生活し続けたのだろうと思うくらい、元気にしていた。(略)

 

 

初めて倒れたときのこと

 

診断時点では何の症状もなかったけれど、一週間ほど経つと、声がときおりかすれてきた。やっぱりこういうものなのかなあ、と話す。激烈な「怖い」症状が出始めたのはガンの診断から二週間ほど経った、五月三日の夜のこと。いつものように、結構な量のお酒を飲み(もちろん、脳外科医からも、耳鼻科医からも、てんかんの主治医からも、お酒を好きに飲んでいいと言われているはずもないが、人間は飲む)、風呂に入った。

 

 

いつもひとりで風呂に入るのだが、この日はなぜか一緒に入った方がいいような気がして、わたしは風呂場にいた。

まだ、わたしが脱衣場にいるとき、湯船に入った本人が、ずいぶんふらつく、と言う。トイレに行きたいと言って、湯船から立ち上がると、ああ、だめだ、と言って風呂場に便失禁する。

 

 

本人は風呂場の隣りにあるトイレに行こうとして脱衣場で便をもらしながら歩き、トイレの前の廊下で倒れた。わたしがそばにいたので、なんとか頭から倒れることは避けられたが、相手は七〇キロ、こちらは五〇キロ程度なので支えられない。そのままトイレの前で真っ青になり、便失禁は続いた。(略)

 

 

「ばったり倒れる」フェーズの第一期が、このとき、始まったのである。四月半ばに首が腫れたことに気づいて、ガンの診断がくだされ、五月八日に入院して放射線、抗ガン剤で治療することが決まっていた、そのわずかな期間に、このフェーズが始まったのだ。(略)

 

 

子どもも育てているし、老人介護もやったから、排泄物に不慣れなわけではない。しかしおとなが派手に便失禁したあと、というのは、なかなか、ハードな状況である。風呂場から脱衣所、廊下に至るまでの大量の便とそのにおいは、わたしをして、「ガンの末期患者がいるのだ」という覚悟を決め、ハラを据えさせるに十分なインパクトがあった。これが、本人が亡くなる約二年前のできごとで、ふりかえってみると、この「倒れる+便失禁」が、いちばん「怖い」時期であったと思うのだ。」

 

 

〇義父の病状が急変して、救急車を呼ぶ前、義父にも便失禁がありました。「案ずるより産むがやすし」とように、どれほど大変だと言っていても、子どもは生まれて来る…

それと似ていて、便の始末も、大変だ……と言っていても、そういう状況になってしまえば、大抵の人は、「立ち向かって」やってしまうと思います。でも、その状況をあとで振り返ったり、いろいろ案じたりしている時には、とても「怖くて」逃げ出したくなります。

 

「排泄物の存在とにおいにはものすごい力があって、理性は吹き飛び、人間存在の原初に引き戻される」と言う言葉を読みながら、本当にそうだと、思いました。