読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第一部 よき人生をはばむもの

 

ただしこの「護送船団」システムが公式に認められたことは一度もない。日本は法律によって銀行を保護してきたのではないからだ。日本の多くの経済活動の実態は、法律によって許容されている内容とは大きく異なっているのである。(略)

 

 

政治化された社会がどのようなものかを説明するのは容易ではないため、事例を挙げたうえで後述したい。なぜならこれは日本の市民が覚えておくべき一番重要な概念のひとつだからだ。(略)

 

 

抑圧される中産階級

ちなみに政治化された日本社会というのは、先ほども簡単に触れたように、戦後に日本が成し遂げた第二の偉業でもある。真に民主的な国ならば、利益を度外視してでも生産能力を無限に拡大するといった国家目標を掲げるなど不可能である。(略)

 

 

欧米の先進諸国と比較しながら、日本の政治社会をつぶさに見る時、ある特異な事実に気づくはずだ。それは政治に影響力を持つ中産階級がこの国にはほぼ完全に欠けているということだ。これについては少し説明を要するだろう。(略)

 

 

日本の中産階級はなぜ政治的に無力になってしまったのだろうか?なぜ日本の当局者は日本社会の中で強力な要素になる可能性を秘めた中産階級を抑圧するのだろうか?これを理解するために、我々はふたたび企業に目を向ける必要がある。そして今度は内部からそれを検証することにしよう。(略)

 

 

もし働く中産階級のための本当の意味での労働市場が日本にあるのなら、話はまったく違ってくる。サラリーマンの大半に仕事を変える可能性があり、そしてもっと給料の高い、あるいは労働条件のいい別の会社に転職する可能性があるとすれば、日本の労使関係は劇的に変化するだろう。(略)

 

 

日本人の集団をめぐる神話

(略)

新入社員はみんな一斉に箒を手に道路掃除をさせられ、冷たい川につかり、あるいは山を行進して登らされ、屈辱的で、心身がへとへとになるようなことをやらされる。集団での徹底的な訓練や互いに告白し合ったりと、文化人類学者ならこれぞ浄化、イニシエーションの儀式であると大喜びするような訓練の数々には、重要な目的がある。つまり軍隊の新兵訓練と同じで、個人の意思を打ち砕こうとしているわけだ。(略)

 

 

 

日本の若者たちが成長の過程ですっかり調教され、会社と一体化するうえでの心理的な抵抗がすべて取り除かれていたとしたら、新入社員に対して、仕事は生計を立てる手段というより、むしろ神聖な任務であるなどと、大騒ぎをして教え込む必要などない。(略)

 

 

この数年、日本人の中には世間にはびこるのが偽りであることを暴き出そうとする者がいる。たとえば有名なソニー盛田昭夫は、「文芸春秋」誌の中で、進出先の地域とは相容れないのに、自分のやり方を変えずにいれば、日本は困難な事態に陥るだろうと述べて、世界的に注目された。しかし経営手法については曖昧に述べただけで、ほかの国々との大きな相違点をはっきりさせることはなかった。

ソニーの社員の何人かは新聞の中で、もし盛田が提唱したように、世界の多諸国に合わせてやり方を変えたのでは、この会社は終わってしまうだろうと発言していた。彼らにはなにがおびやかされようとしているかがわかっているらしい。(略)

 

 

なおざりにされる家族

(略)

しかし日本人の場合は、温かい感情を示そうとしても、それを阻まれることがある。これもまた大抵の場合、企業の圧倒的な影響力が原因だ。サラリーマンは会社と「結婚」するよう期待されているので、彼らの妻の多くは、本来なら夫から与えられるはずの愛情が欠けた分を埋め合わせなければならない。そこで息子に過剰な関心を寄せることになる。

これが不健全な影響をおよぼすことについては、これまでたびたび指摘されてきた。(略)

 

 

プライバシーと女性たちの抗議

(略)

女性たちには「良妻賢母」となる義務があった。彼女たちはどんな形であれ、政治に拘ることは許されなかったが、赤ん坊を産むという政治的に重要な役目をになっていた。というのも生まれた赤ん坊の半分、つまり男の子たちは日本をさらに強い国にするため、兵士や労働者に育てられるからだ。

 

 

一九四五年以降、日本人すべてにさらなる自由が認められたことで、当然、日本女性の地位は大きく変化した。(略)

公式的には政治活動を禁じられてはいないので、日本女性はたてまえ上は市民である。そして実際、彼女らの多くがその権利を行使した。一九六〇年代と七〇年代の婦人会やほかの女性活動グループは、日本各地で政治的にも人々の注目を集めるような重要な存在になった。

 

 

ところがそれを見た官僚やビジネス官僚たちはほぼ同時に、この政治現象の封じ込めに乗り出した。

そのため、たとえば消費者運動は大幅に政府によって「乗っ取られ」てしまい、消費者ではなく当局にとって有利な基準を支持するようになってしまった。また日本の農業市場からさまざまな海外産食品の相当数を締め出していくことにも一役勝って来た。(略)

 

 

エコノミストたちの論理にしたがえば、円の価値がこれだけ上がったのだから、物価が大幅に下落するのが当然であった。ところが物価にそれが反映されていないということは、消費者運動が政府やビジネス界に丸め込まれてしまったことを意味している。(略)

 

 

 

ほとんどの読者はよく知っていると思うが、いまや日本人女性は世界のどの国の女性よりも晩婚である。しかも結婚しないと決めた女性の数も増えている。(略)

日本の社会評論家たちのなかには、これを現代のサラリーマン生活に対する無言の抗議のあらわれだと認める者もいるが、本書の議論の視点でこの問題を見る私には、いまやより多くの日本女性たちが、この国の戦後のもっとも偉大な成果のつけはあまりに高すぎると訴え、ひとり孤独な人生に逃げ場を求めているのではないか、と思えてならないのである。」

 

〇「戦後のもっとも偉大な成果のつけ」というのが、何を表しているのか、私の理解で書いてみたいと思います。

 

・「政治化された社会」の一員として、際限なき経済成長を追求する目的を担う男や子どもを支え、育てる役割を果たすこと。会社と「結婚」した男と結婚し、会社と結婚する男を育て、その男と結婚する女を育てるという役割を、機嫌よく果たすには、どうすれば良いのか。

「愛」など求めなければ、それなりにやっていける。でも、それを求めるなら、最初から結婚などしない、となってしまう。

 

 

だから「母親」なのだと思いました。

つまり、「母親というのは、愛するけれど愛されようとはしない人」

ということで、です。

そんな形で、一応「愛」のある家庭がなりたっていたというのが、

日本の家庭だったのかな、と。

 

あの「死にゆく人のかたわらで」の中で、三砂さんは、「育児や介護など、弱い人のお世話をするときには、女性性が必要とされる。だから女性が担って来た。」として、「家で看取ることはよきことで、女がその仕事を担うのが本来の姿」と主張されていました。

 

そして、私はそのように言う三砂さんが好きだと書きました。

でも、「女性に育児や介護を押し付ける考え方が好きだ」ということではありません。そんな形ででも「愛のある家庭」、もっと厳密にいうなら「愛のある人間関係」を女が主体的に作ろうとしましょうよ、と言っている姿勢が、好きだと思ったのです。

 

 結婚を愛し愛されることと考えるなら、「風俗」に行くのが当然だという男を相手に、どうすれば、愛など信じられるのか、となります。女に便利な母親を求める男と結婚などしない、となると思います。

私も、「抗議」ではなく、孤独の中に「避難」していると見る方が、当たっていると思います。