読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

〇 一二行ずつ簡単にメモして行こう、と思いながら、気になる部分については、ついメモが長くなってしまいます。

 

「公式的な行政の長がまったく実権を持たないという国もある。しかしそうした国でもそれに代わって権力を行使する別の人間や組織がある。ところが日本では統治システムのなかには、それを支配する人間も組織もまったく存在しない。

 

 

政権を築く政治家たちは、たてまえ上は支配下にある省庁に対して、ほとんど影響力を持たない。政策を立案し、それを調整するのはキャリア官僚や官僚たちである。だがほかの官僚すべてを支配する権限を持ち、だれもが同意するような日本の政策を決定できる官僚グループなど、ひとつもない。

 

 

事実上のトップとして行動できるような集団が日本にはいないのである。

私はこれこそ日本という国についてのもっとも重要な点だと思う。なぜならこれこそが日本が抱える大きな問題の数々の元凶だからだ。根本的な欠陥はここにあるのだ。

 

 

私はこれを「政治的説明責任の中枢の不在」と呼んでいる。この欠陥があるからこそ、日本は近代国家と見なされもしなければ、この国の方向性をみちびく満足のいく「舵とり」も存在しないのである。

 

 

第二部で詳しく述べるように、「舵とり」がないからこそ日本はあてもなく漂っているのだ。日本は説明責任ある「国家」ではない、いわば国家なき国である。そのような日本のいまの政治システムは、市民としての日本の人々を裏切っている。

 

 

なぜならだれも説明責任を負わず、国の指針もなければ、リーダーも不在であり、市民としての国民が国の命運について理にかなった話の出来るような彼らの代表者、すなわち議員もいないからだ。

 

 

 

説明責任を果たさぬ支配者たち

日本の政治評論家のなかには、この欠陥を明らかにし、日本の政治責任に言及した者がいる。よく知られているのが日本の政治史学の泰斗・丸山真男である。丸山教授はこれについて戦前の状況に関連づけ、次のような一節にまとめたことで名高い。

 

決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為関係(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。<中略>無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。

   (「日本の思想」岩波新書 一九六一年)

 

 

もちろんその通りなのだが、特にいまの状況については、「責任」と「説明責任」を区別する必要があると思われる。(略)

私も多くの日本の官僚たちが強い責任感を示すのを、目の当たりにしてきた。

彼らに欠けているのは説明責任である。つまり自分たちがなにをし、なぜそうるうのかを、省庁外の人々に向かって説明するよう求められることがない、ということだ。(略)

 

 

説明責任が重視される主な理由は、それをまっとうすることで、独断的う非公式な権力をできるだけ排除し、古い政策が国民の利益にならないことが明らかになった場合、新しい政策を採用する道を開くことに繋がるからである。

 

 

日本の官僚制度の本質をひとことで言い表すならば、それは自分たちの縄張り、つまり公式に管轄する経済や社会活動といった分野の中で、省庁はなんでも好き勝手にできるということだ。しかも自分たちの決定にて説明する必要もない。(略)

 

 

こうした官僚たちは自分たちが本気で国益を考えていると思っている。この事実は重要である。(略)しかし彼らが言う国益とは、自分の省庁の立場から解釈したものにすぎない。彼らは日々の活動の中で、国にとって何が望ましく、政府組織にとって何が有利であるかの見分けがつかないのである。そしてたとえどんなベテラン官僚であっても、両者の間に違いがあることが理解できないのだ。(略)

 

 

日本の役人たちは、彼らが所属する省庁にとって最善なら、日本にとっても一番いいと当たり前のように考えている。ところがほかの省庁がそれとはまったく違うことを、日本にとってベストであると見なしていることが明らかになるや、頭を抱えてしまう。

 

 

戦前、さまざまな官僚グループは一様に、自分たちは「天皇の意思」を実行しているのだと主張していた。しかしその「天皇の意思」が命じる事柄に関して、相矛盾する見方をしていたために、結果として彼らは日本をそれぞれ別々の方向に引っ張っていくことになった。そしてだれもが知っているように、そこに軍部が介入したために、日本は破滅に追い込まれた。

 

 

戦後、国民は官僚による政策決定をみちびく存在ということになった。しかし旧時代の思考パターンの大半はそのまま受け継がれた。だからこそいまなおなにが国民にとっていいかに関して、官僚同士の間では見方が大きく異なっているのだ。

 

 

しかも官僚同士は対立し合うばかりで、自分たちにとってなにが望ましいのかを国民にたずねようともしないのだ。(略)

 

 

つまり日本にとって重大な意味をもつ多くの問題について、だれも考えようとすらしない、ということだ。これは危険である。もし役人たちが説明責任を求められなければ、自分の行動を納得がいくようなやり方で分析するスキルを身に着けることはできない。だからこそ彼らは国家の命運にかかわるきわめて重大な事柄についても、どうやって説明していいかわからないのである。」