読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

 「一九九六年になると、厚生大臣だった菅直人が、一〇年前に起きた汚染された血液製剤を流通させたことは政府に責任があると認め、被害者に直接謝罪する一方で、厚生官僚たちに一〇年前になにをしたか正確に説明するよう迫った。彼のこの行動は説明責任とは何かを直接的に示すものであった。彼以前の大臣でこんなことをした人間はひとりもいなかった。(略)

 

 

もっと一般的に考えてみても、日本でエイズが拡がる可能性があるにもかかわらず、厚生官僚がそれに真剣に取り組もうとしなかったことだけでも、非難に値する。彼らは大勢の日本人が苦しむ可能性があったにもかかわらず、それを最小限に食い止めるための措置をなんら講じなかったのだ。

 

 

官僚が思うがままに権力をふるうことで日本の人々に害をおよぼすとしたら、それは当然、日本の国土にもおよぶそして残念ながら、それを止めさせる有効な手立てはない。建設省(現在は国土交通省)はダムやトンネルといった建設プロジェクトを推進し、日本に残された大切な自然環境を破壊してきた。公共事業がどんなに無計画に行われているかを、十分に認識している日本の納税者はあまりいないだろう。(略)

 

私は実際に、日本市場にいくつかの製品を参入させないよう、政府が規制をしていることについて、日本の消費者がうるさいからと官僚が言いわけするのを聞いたことがある。これも真実とはほど遠い現実であるわけだが、そのことを素直に信じている彼らの大半は、そう確信しているらしかった。だが読者には、「コンセンサス民主主義」が官僚独裁主義を婉曲に言い表しているにすぎないことを忘れないでほしい。

 

 

 

この独裁主義がどのように始まったかはほとんど知られていない。事実、日本の権力システムを理解するカギのひとつは、非公式権力がいかに政治的現実の形成にかかわっているかを認識することである。(略)

 

 

たしかに日本社会にはたくさんのルールがある。実際、外国人のなかには日本にはルールが多すぎるとコメントする者もいる。日本人の暮らしのあらゆるレベルには、職務を遂行し秩序を維持するために利用できるたくさんの規則がある。

 

 

ところが日本で一番肝心なものは、公式的なルールによって規制されないのである。私はたびたびそれを目の当たりにしてきた。日本の政治構造には法的基盤がない。すでに述べたように、日本の巨大経済機構のなかで一番重要な部分も、法律にもとづいて形をなしているわけではない。

実際、日本で行われる経済の全般的な活動は多くの面で法律に違反しているのである。

 

 

 

系列グループという構造からして、日本の独占禁止関連法(アメリカの法律をまねたもの)そのものを物笑いの種にしているようなものだ。(略)

 

 

ここで重要な疑問が思い浮かぶ。成文法の原則は、不文律によってつちかわれた慣例に勝るのだろうか?そして成文法を起草し、成立させ、それにしたがって裁くのはだれなのだろうか?このことをはっきりさせておくべきではないだろうか?

 

 

日本ではこのふたつ目の質問の答えは単純明快である。法律はそれをつくった官僚たちが支配している。法律は官僚がなににも増して、よく利用するツールなのだ。官僚たちは法律を使って社会秩序を守るのみならず、望み通りの制度や条件を確立する。それはたとえば経済発展における一定の目標を達成するのに役立つ。

 

 

日本史の中で、法律はこれまで権力者を支配するのに役立ったことがなく、したがって日本国民全体を統制するような超然たる地位をみとめられたこともない。

 

 

 

またごくわずかな例外を除いては、日本の個人も法律を自分たちに役立つものとは見ていない。官僚に支配されている彼らには、自分たちの生活に影響をおよぼすような変化を求めて、法に訴えるという習慣がない。また日本の国民は官僚を相手取って訴訟を起こすための有効なすべを持たない。(略)

 

 

法的根拠はなにもないのに、官僚たちは消費者に精油を大幅に安く供給できたはずのこの取引を中止させたのだ。日本の銀行はライオンズ石油に融資しないよう指示された。さらに驚いたことに、通産省の非公式な影響力はシンガポールの銀行にも及んだのであった。

 

 

 

ほかの先進国であれば、ライオンズ石油の経営者は損害賠償を受けることができただろう。だが日本ではそのようなことはない。日本でも建設事業などをめぐって、特に地方自治体の官僚などに訴訟を起こす団体はある。しかしそうしたケースはきわめて少ないばかりか、興味深いのは、当の官僚が、この種の法的措置を不当な暴力を加えられたかのように受け止めることである。(略)

 

 

もうひとつ忘れてはならない重要な点は、日本の司法制度もまた官僚に掌握されているということだ。この最高機関である最高裁判所を支配するのは事務総局であり、事務総局は保守的な法務官僚の支配下にある。これは日本の大半の人々が認識している以上に重大な問題である。

 

 

 

もし官僚が気まぐれや思いつきで支配する社会ではなく、だれもが平等にあつかわれるような法の支配する社会に暮らしたいのであれば、そうした社会を実現するためには、行政権と司法権の分離が絶対に必要である。当然、日本国憲法によってその必要性は認められている。ところが日本の実態は憲法に完全に逆行している。

 

 

 

裁判官は検察を含めた法務官僚から独立していなければならないはずだが、現実は違う。下級裁判所などには、独自性を失わない裁判官がたまにいるが、彼らとて官僚たちの意向にどの程度さからえるのか、注意しなければならない。(略)」