読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「失われた栄誉

 

私は国民に神秘的な特性が備わっていると言われても、それを信じないし、国民が歴史の力によって動かされるとも思わない。歴史の力など、わからないことの方が多いのだ。問題が難解であるからと言って、それを国民の精神などという推しはかりがたいもののせいにするような、非現実的な考え方には注意しなければならない。(略)

 

 

 

いまここでは生産能力の無限の拡大による国力の強化という使命を解き明かす、三つの答えの第一番目、栄誉について検討することにしよう。(略)

 

 

栄誉は分かち合いやすいものだ。地域社会といった集団で成し遂げたなにかが評価されれば、地域にみなぎる喜びを我々もまた感じることになる。(略)

 

 

政治哲学史における巨人マキアヴェリが、長年、否定的な評価を受けて来たことは、読者も恐らく知っているだろう。彼が為政者に与えた助言は、皮肉っぽく、無節操で、ごまかしに長け、不実で道義をわきまえていないというのが、一般的な解釈であった。しかし彼が生きた時代には、その助言はイタリア都市国家の栄誉という、道理ある目的にかなうものであった。

 

 

国の栄誉を求めるあまり、おびただしい数の人間が虐殺されたことは、周知の通りだ。何世紀もの間、戦争に勝利し、国民すべてを征服することこそが、国にとっての究極の栄誉であると考えられてきた。(略)

 

 

みずからの領土を拡張して栄誉を獲得しようと争った諸国の中で、日本は特異な位置を占めていた。その理由のひとつは、近代史のなかでの日本の開国は、時期としてはやや遅すぎたからである。(略)

 

 

アメリカに負けた日本には、まったく正反対のものが与えられた。敗戦は日本にとって屈辱だった。それまで数十年にわたって日本がつちかってきた民族主義的な感情も、エネルギーも、敗戦によって打ち砕かれた。イギリスやオランダ、そしてフランスのように、過去に築いた帝国や大国としての地位が、集団に、自分たちは十分な栄誉を獲得したと記憶されているのとは違って、多くの日本人は世界という舞台で日本は適切な役割を果たしていないと強く感じていた。それはまぎれもない事実であった。(略)

 

 

一九六〇年代と七〇年代、日本は世界平和のために特別に貢献したと、実に多くの人々が考えていることに、私はいつも驚いたものだ。だがやがて、日本の人々はそれを国の栄誉と考えているのだ、と理解するようになった。

 

一九四五年以降、日本人はそれを切実に求めていた。しかしまもなく日本は経済大国として、ほかの追随を許さない、並ぶ者なき国際的な栄誉手にすることになる。(略)

 

 

二〇世紀の初め、日本の政治エリートだれもが、強国となって世界で尊敬される存在にならなければならない、と一致した見方をしていた。唯一意見が食い違っていたのは、そのやり方だった。外交と軍事力を通じてこそ優位を獲得できると考える人々がいる一方、経済成長こそが日本にとって理想的な道だと説く人々がいた。(略)

 

 

しかし日本では、武士の精神こそがこの国の最高のものであるとされ、商人や彼らの考え方は何世紀にもわたって見下されてきた。だから一九三〇年代の日本で、軍隊が軍事征服を通じて栄誉を追求しようと強引に決定したことは、なんら不思議ではなかったのである。(略)

 

 

人々はGNPを日本の偉大さをあらわすものとして信奉するようになった。

ではさらに拡大することで、どれほどの栄誉がもたらされるというのだろうか?すでに述べたように、四〇年ほど前の時点で、大半の日本の人々はGNPに魅力を感じなくなっていたように私は思う。(略)

 

 

しかし世界の大きな変化に日本が手をこまねき、変化を経済政策に反映いずにいる間に、こうした楽観論は大きな打撃を受けた。そしてバブル崩壊後に噴出した問題によって、半世紀でもっとも長期にわたる景気停滞へと日本経済が追い込まれると、こうした見方はさらに後退した。

 

 

 

ここで重要な点は、従来の成長をあらわす数値に頼って、経済力の拡大や縮小について考えるようなやり方は、的外れだということである。一番重視しなければならないのは、経済活動の方向性である。

 

 

経済はなんのためにあるのだろうか?もっといい暮らしをするために、経済になにを期待するのだろうか?

どんな経済関連の議論においても、こうした疑問を無視することはできない。経済帝国の建設という統計上の成果が日本人の最終目標に掲げられているかぎり、経済力を通じて栄誉を切望する日本の人々がこうした疑問について考えることはないだろう。この点については最終章であらためて検討したい。」

 

 

〇 「何のために…」という価値観について議論する習慣が、私たちにはない、というか、むしろそれは個々人がそれぞれに考えるものなので、「集団」があからさまに語り合って結論を出すようなものではない、と避ける空気があると思います。

 

生きることに意味などない、と考えるのが、最も真実な生き方だ、と

する人がたくさんいる社会では、「経済の意味」を語り合う土俵がないとも言えます。

 

西欧の価値観では、経済は何のためにあるのか、と考えるのは当然でも、生きることに意味などない、と言っている人は、様々なことの「意味」など考えないでしょう。

 

その一番の根本が違っているので、「何故議論がないのか?」とこの著者が問題視する都度、そのことを考えてしまいます。