読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「状況の論理

このことについてもっとつぶさに検証してみよう。企業や銀行、業界団体、企業内労働組合、インフラ整備などを含め、日本という生産マシーンは飛行機にたとえることができるかもしれない。

 

 

飛行機と同様、これは基本的には不安定である。強い風や雷などに見舞われれば飛行機は激しく揺れ動くが、不景気やエネルギー危機もそれと同じようなものだ。

パイロットは予定のコースを大きく外れたり、機体が墜落しないよう、絶えず修正を加え続けなければならない。

 

 

 

これは退屈だし疲れる作業でもある。そこで飛行機を地球の形に沿って、安定的に、適正な高度を保つため、自動操縦装置というものが開発された。

自動操縦装置は機体を決まった飛行コース上に保つ慣性航法装置に連動しており、方向舵、昇降舵、スロットルなどにどのような指示を送らなければならないかを「知っている」。

 

 

 

機体全体が飛行コースを「知っている」のは、航路上の位置を意味するウェイポイント、要するにフライト・プランであり、任務にしたがって、あらかじめ航空士によって多くの数字が入力されているからだ。

 

 

本書ですでに明らかにしたように、日本という生産マシーンの主要なフライト・プランはずっと以前からすでに確定していた。すなわちそれが、戦後の日本にとっての、生産能力を無限に拡大するという使命であった。(略)

 

 

 

飛行コースは決まっているが、いつまでたっても目的地に達することはない。日本という生産マシーンをどこに連れて行くつもりなのか、操縦士が我々に教えてくれたことはない。なぜなら操縦士などいないからだ。

 

 

国会も、首相もほかのだれも操縦士の仕事をやっていない。なぜなら日本には政治的な説明責任というものが存在しないからだ。(略)

 

 

そして彼らには説明責任が要求されないので、有権者やメディアから日本が快適に着陸できる目的地へ向かって真剣に舵取りを行う時期がきた、などと促されることもない。ちなみに日本にとっての着陸地点とは、単なる成長に次ぐ成長ではない、それ以外の経済活動の望ましい目標とはなにかを検討することにほかならない。

 

 

読者も自分自身の経験から、私の言う「状況の論理」が理解できるのではないだろうか。たとえばあなたは理由があって何かをやってきたのに、その理由について考えなくなってしまったとする。読者がそれをやってきたのは、周囲の人々があなたにそれを期待したからである。

 

 

世界中の多くの政治活動はなんらかの目的があって行われているわけだが、それでいて目的はとうの昔に忘れられてしまっている。(略)

 

 

日本の官僚機構には大規模で、きわめて重要な記憶がそなわっている。つまり時の流れと共に状況が変化しても、あれこれ考え、省庁間で議論を行うといった骨の折れるプロセスを経る必要がなかったということだ。(略)

 

 

それぞれの組織には行き届いた集団的な記憶があって、それは個人の記憶よりはるかに価値あるものであった。(略)

つまり大抵の場合、なにか意志決定が必要な事態に直面する時、官僚たちは進むべき方向はただひとつであると強く感じるのである。(略)

 

 

彼らは状況に左右される。しかしもっと高いレベルでの選択、すなわち日本という国家の目標に関わるような選択は排除される。

官僚たちをこうした高いレベルの選択について考えるよう仕向けられる権力、あるいは政治的な意見を持つ人間は一人もいない。

 

 

 

これを示す最近の悲しい事例が、東日本大震災での福島第一原子力発電所の自己であった。日本の将来の世代の健康や安全に大きな影響を及ぼしかねない深刻な事故であったにもかかわらず、この国を運営する最上層を占める人々は、原発という規定のプログラムをそのまま継続するのみで、政策を変えようとはしなかった。

 

 

 

もちろん日本の人々は政策の転換を求め、それを声高に叫んでいた。ところがそうならなかったのは「原子力村」と呼ばれる、従来の原子力政策の継続によって利益を得る企業や専門家など関係者の働きかけによるところが大きい。

 

 

このことからも政府の官僚やビジネス官僚たちが手を組み、いかに強力に日本の民主主義を押さえ込んでいるかがわかる。(略)

 

 

しかしここには複雑な要因がある。官僚たちも人間であり、そして人間は過ちをおかすものだ。ところが日本の省庁は自分たちが間違いをおかした事実を決して認めようとはしない。そんなことをすればすべてが台無しになってしまうからだ。彼らがするのはせいぜい国民のことを十分に考えなかったと詫びるくらいのものだろう。重大な過ちをおかしたなどとも認めるわけにはいかないのだ。(略)

 

 

 

物事をうまくとりはからうことが出来るとの定評があるからこそ。彼らが権力を握っても構わないと世間は見なしているのである。それ以外に彼らを信頼する根拠はない。(略)

 

つまり、日本の官僚グループは、過去の彼らのやり方が間違っていたと示唆するような、政策的な変更を行うことができない、ということになる。ひとつでも過ちを認めれば、世間の信頼に基づいた彼らの立場が揺るがされることになるからである。(略)

 

 

すでに述べたように、日本の管理者たちは通常、自分たちの行動について説明するよう求められることはない。彼らには説明責任がないのである。つまり彼らは自分自身やその職務について、客観的に検証する訓練を受けていないということだ。

もしあなた個人が、一度も批判されず、なにをやっているのか説明するよう要求されなければ、いわゆる自覚を高めるチャンスはほとんどないことになる。同じことが日本の官僚機構についても言える。(略)

 

 

 

日本の官僚機構の最高レベルを占める人々には、社会のなかでみずからを正しく位置づけることができない。なぜならそれに必要な自覚が備わっていないからだ。

彼らには国全体と自分たちとの関係についてまったく事実が見えていない部分がある。

官僚たちは状況の論理にしたがいながら、自分たちはつねに日本にとっての最善の行動をしていると、当然のように考えている。(略)

 

 

日本では無限の産業発展という目的が適切かどうか検証されることはないのに、国を守るための当然の使命と受け止められている。そしてこのことが管理者たちにとっては現体制の維持を可能にしてくれるものであり、さらに日本にとって現体制の維持とは、生産力を拡大し続けていくことなのである。」