読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第三部  日本人はみずからを救えるのか?

 

第一章 さらなる変化に見舞われた世界

 

いま、世界は本書が最初に出版された当時と比べれば多くの点でまったく変わってしまった。(略)

いまアメリカは世界で圧倒的な大国となり、その地位をおびやかすほどのライバルはひとつもない。

同時に、世界でのこの国の役割も大きく変わってしまった。このことは世界のあらゆる人々に重大な影響をおよぼさずにはいない。

 

 

経済をどう運営すべきかにだれもが確信を持てなくなり、今後も不況が長期にわたって続きかねないことから、人々も将来についての見通しを変えざるを得なくなった。(略)

 

 

二〇一一年三月には、日本の有史以来、最大級の災害に見舞われた。この国がいかに脆弱であるかを日本の人々は思い知らされた。そしてそこから新しく、なおかつ強い影響力を及ぼしかねない政治不安が生じた。

 

 

これは日本の人々の考え方が変化したことと無縁ではない。自分たちは守られている、当局もちゃんとやってくれていると当然のように受け止めて来た彼らは、それが本当なのだろうか、当局の能力は大丈夫なのだろうかと、真剣に見直そうとしている。

 

日本のどこを見回しても、騒ぎや混乱が起き、なにひとつとしてたしかなものはない。

しかしそれでも、第一部と第二部で論じた日本にとってもっとも根本的な問題は、当時と比べていまなお少しも変わっていないことはすぐにわかる。我々は「物事は変われば変わるほど、同じであり続ける」という名高いフランスのことわざを思い出さずにはいられない。

 

 

だからこそ本書の考え方が若い世代にも伝わるようにと、出版社は新版を出そうと決めたのである。(略)

 

なぜならこの二〇年間で、日本の人々は政治に劇的な変化が起きてもおかしくないという考え方に馴染んで来ているからだ。(略)

 

しかしながら、たとえ民主党が初期のマニフェストに掲げたような、日本の有権者たちが望むように日本をつくり変えるための政治プログラムが、二〇一二年一二月の選挙後に台無しにされてしまったにせよ、それでも非常に大きな政治の変化は本当に可能である、という事実が多くの人々の心に刻まれたことに変わりはない。

 

 

そして日本の人々の心にその可能性がとどまり続けるかどうかが、民主党政権後の日本の政治にとって実に重要な意味を持っているのである。(略)

 

 

これほど大勢の人々が異議を唱えて街に繰り出したのは、一九六〇年代以来のことである。

しかも霞が関に集まる通常の抗議デモとはいくつかの点で違っていた。というのも、デモには遠方から子供連れで駆け付けた母親たちが、若者たちとともに参加していたからだ。

 

 

彼らの存在はこのデモのなかでは重要な意味を持っていた。それにもかかわらず日本のメディアがそれにまったく関心を向けようとしなかったために、一般の人々の中でもこの事実が十分に認識されていないのだ。(略)

 

 

 

バランスが悪いと言ったが、実際には完全にバランスを書いている。政権の座についてまもない民主党がこの政治の基本にかかわる状態をただそうとすると、激しい妨害が起こった。理想を掲げた人々だれもが大きな打撃を受けた。民主党内の相当数の政治家たちが、二〇〇九年の選挙で掲げた公約に真っ向から反対する動きを支持したからである。

 

 

野田が首相に就任した後、果たして彼は所属する政党がどのような意図を持って設立されたのかがわかっているのだろうか、と思うことがしばしばあった。なぜなら彼は、選ばれた政治家に政策決定権を取り戻そうとするどころか、民主党を分裂させ、有権者が選んだわけでもない官僚による自動操縦状態にこの国を託す方向へと、突き進んでいるように見えたからだ。(略)

 

 

 

官僚がのさばっているからこそ、そうした状態を変える必要があるというのに、根本的な改革をしようとの考え方そのものが、当の官僚にやすやすと乗っ取られてしまったかに思われる。小泉純一郎が首相になったとき、彼こそ日本が待ち望んできた偉大なる改革者だと言って、メディアがどんなにうかれ騒いだかを覚えているだろうか?(略)

 

 

小泉はネオリベラリズムという名で知られる経済政策の右傾化を、日本にとって必要な改革であると取り違え、それをやすやすと信じ込んでしまった。だがこのような政策こそ、アメリカやヨーロッパの社会経済に大変なダメージをもたらしたものなのだった。

 

 

地位の高い日本人政治家というのは、たとえ初めは改革精神にうながされていたとしても、財務省の役人に睨まれると、大抵の場合はその志を持続できなくなってしまうものらしい。

 

 

菅直人も例外ではなかった。私は彼が財務大臣在任中に、官僚によって洗脳されてしまったのだ、という気がしている。彼には官僚を支配するい必要な知識がなかった。首相就任後の彼は、惨めにも失敗した。特に二〇一一年三月の大震災後、大規模な支出をともなう計画を打ち出す英断がなによりも必要であったにもかかわらず、彼にはそれが出来なかった。(略)

 

 

 

小沢、鳩山と協力して取り組んでいれば、菅は官僚たちの権力に対して、もっと強く立ち向かえたはずである。ところが菅は二人から遠ざかることで民主党の亀裂を深めた。

そして野田が首相になった。(略)

 

 

野田の脳みそは財務官僚のそれと目に見えない線で繋がっているのではないかと思えるほど、彼はロボットさながらに財務官僚たちの言いなりになった。

彼が消費税増税を主張して止まなかったのもそのあらわれだった。(略)

 

 

日本の政党政治の歴史を研究している人間なら誰であれ、自分が所属する政党の力を削ぐに決まっているのに、なぜ野田がそのような行動をとったのかまったく理解できない、と考えることだろう。

 

 

幅を利かせる財務省

 

この第三部の冒頭で財務省に焦点を絞って議論を進めてきたのは、鳩山由紀夫以来の民主党の首相に同省がおよぼしてきた影響力が、重要な意味を持っているからである。それは東日本大震災以後の出来事のみならず、今後の日本の将来についても当てはまる。

 

 

 

この国を政治的にしっかりと統轄することがいかに重要であるかは、大震災後の状況のなかでこれまでになくはっきりと浮き彫りになった。大地震と大津波に見舞われた後、日本は実に多くの点で対応を誤った。そのために、大変な被害に見舞われた地域経済を復興させるための、大きなチャンスを取り逃がすことになったのだった。

 

 

民主主義にのっとって良好に機能する公式の政治システムのなかで、頂点に位置する政治家たちは、なにを優先課題にすべきかを決めなければならない。つまりその時々でなにが国にとって一番重要であるかを見定めなければならない、ということだ。多くの地域が壊滅的な被害を受け、国民に多数の死傷者が出た大災害後の危機的な状況で、このことがなによりも重要なのはすぐにわかるだろう。(略)

 

 

これはそれまであまり顧みられることのなかった東北地域にメリットをもたらす、と思われた。ところがこのチャンスは、これを書いている現時点で、活かされているとは言えない。被災地の多くの人々はちゃんとした住居ができるのを未だにまっているような状況である。

 

 

こうした事実に加え、工業国・日本を再活性化させ、日本の人々にとってもっと住みよい場所にするというビジョンに、財務省の役人たちが心動かされることはない。それどころか、彼らはすでに遠い過去にさかのぼる、かつての政策にいまだに従っている。同省のなかで主流派に属するキャリア官僚たちの間には、財政保守主義と呼ばれる根強い伝統がある。(略)

 

 

経済大国を築くという目的達成のために、経済機構の官僚と共に、日本の省庁の官僚たちが最善の方法と目していたやり方は、ドッジが勧めたものとはまったく違っていた。しかしこのドッジ・ラインがいつまでも忘れられないらしく、キャリア官僚たちはその後もときどき、これこそが正しいやり方であるかのように話題にするのだ。(略)

 

 

いまの財務省のキャリア官僚たちに共通して見られる財政保守主義も、こうした歴史に根差している。さらに右翼思考の影響を受けた海外経済の流行がこうした傾向をいっそう助長することになった。

 

 

別の著書のなかで私はこの世界的流行をウィルスに例えたことがある。最初に感染したのはアメリカである。同国では大富豪が政治を牛耳るようになり、彼らにおあつらえむきのイデオロギーを提供し、貢献するエコノミストたちは、公共サービスのための予算は削減すべきであるという考えを、まるで宗教の教義ででもあるかのように強く主張する。(略)

 

 

日本の財務省の官僚たちも同じウィルスに感染していることは疑いない。消費税増税とともに、この流行を推進するアメリカの圧力とも言える。直接的な影響も受けているのだろう。(略)

 

 

もちろん日本の政府赤字がGDP比で大変な額に上っていることは事実でも、アメリカやヨーロッパ諸国など苦境に陥った国々とは違って、日本が外国の金で負債をまかなっているわけではない。日本の政府債務はすべて国内でまかなっているのである。(略)

 

 

多くの人々に現実が理解できないのは、彼らが日本政府のふるまいを自分たちの家計に重ね合わせて理解しようとするからである。もし読者の家計が借金を抱えていて、将来、それを返済する手立てが見つからなければ、いずれ破産するだろう。しかし国の財政は家計のやりくりとは全く違う。(略)

 

 

日本の国民が消費税増税を望まないのは当然だし、人々の反応からもそれははっきりとわかる。しかし日本の健全な将来のために増税が絶対に必要だという主張を、四六時中見聴きしていれば、いまの状況をどう判断すればいいのかがわからなくなってしまう。(略)

 

 

日本の政界における巨人・小沢についてこれまでもたびたび執筆してきた私は、小沢こそ、彼の人格と志をおとしめようと、長期にわたって繰り広げられてきたキャンペーンの被害者だと思っている。これは検察と日本の大新聞の幹部編集者たちが展開する、きわめて有害なキャンペーンである。

 

 

日本の司法関係者と大新聞の編集者たちはともに、どんな手を使ってでもいまの日本の既存の政治体制を維持したいのである。そして官僚の力を削ぐすべを心得、しかもそれをよく理解している政治家がいれば、彼らはほぼ自動的にその影響力を抹殺しようとする。

しかもそのような試みは成功を収めることが多い。

 

 

 

小沢と彼らとの闘いには、本書の第一部と第二部にも記したような、日本の政治にまつわる多くの面があらわれていた。それは日本を統治する究極の権利を有するのはだれか、をめぐる闘いでもあった。」

 

 

〇 消費税増税など必要ないというこの著者の主張と、「ジャパン・クライシス」の主張は正反対です。いったいどっちが正しいのか。

どちらの著者も「いかがわしい嘘つき」には、見えません。むしろ見識ある、良心的な人に見えます。一体何をどう考えて、何を信じて良いのか、分からなくなります。