読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「日本政治における真の闘い

 

しかし日本の一般の人々はいま私が述べたような見方をしない。それは現体制を維持しようと、日本の管理者たちが利用する偽りの現実がまんまと功を奏しているからである。

 

 

その中で一番弊害が大きいのは、日本のいまの政治とは、単に政治家たちが世界の政治家と同様に、みずからの党を支配しようと、権力と地位を求めて互いに争い合うことに過ぎない、とするとらえ方である。(略)

 

 

現実には政治家とキャリア官僚とが闘っているのである。そして政治家を自らに従わせるのはキャリア官僚であり、自分の利益を追い求めるのは政治家ではない。政治家は、融通のきかない官僚的な思考が生み出した政策をやめさせようとしている。なぜならそのような政策は日本にとって有害だからだ。(略)

 

 

これに関して、これ以外にはあり得ないといった絶対的な選択をする必要などないことくらい、どんな人にもすぐ理解できるはずだ。政治家も官僚もともに協力しながら変化する状況に応じて、もっとも適した政策とはなにかを明らかにしていくべきなのだ。

 

 

その際、大前提となるのは、すぐれた政治家の想像力を、従来のように官僚に妨害させてはならない、ということだ。日本の政治家の中には官僚の言いなりにならず、しかもうまく仕事のできる者が居る。小沢はそんなひとりだと私は思う。一方、野田は違った。

 

 

 

いまの民主党の内部分裂にかっかりするあまり、まともな政治システムを日本に実現させるのは無理なのかもしれない、と政治意識の高い多くの日本人は考えがちだ。ここで言うまともな政治システムとは、選ばれた政治家が国のために重要な優先事項を決定すべく、力を発揮できるような体制である。

 

 

日本の状況に関心を抱き、またよく知る海外の人々は、またしても日本の政治家が全てを台無しにしたと見ている。だがこうした外国人たち、そして日本を観察する多くの人々は、徹底した妨害をするのは、偽りの政治的現実を生み出す者たちである、という事実に目を向けようとしない。この事実はこれまで書かれることがなかったため、ほとんどまったく知られていない。

 

 

 

日本の政治記事の中では、政治家によってめざすものがまったく違うという事実が、ほとんど見過ごされてきた。これを具体的に理解するには、梯子と舵とりについて考えてもらうとわかりやすいだろう。

 

 

梯子は高い所に上る時に利用するものだ。そして舵取りをするのは、自分が進む方向をコントロールしたり、コースを変更するためだ。

一九六〇年代のある時点を境に、自民党の政治家たちの大半は党を梯子代わりに利用するようになった。

 

 

自民党に属していれば、副大臣や大臣、あるいは首相など、多くの栄誉と特権を与えてくれるポジションに上り詰めることができたからだ。しかも国の運営は官僚任せにできた彼らには、地位獲得のための党内派閥時に関心を集中させる余裕があった。

 

 

たしかに特定の政治家たちが打ち出した政策について論じる記事や論説は多く、稀に舵取りをすることで変化をもたらした大臣もいた。しかしそれも官僚たちがすでに決定した路線に従ってやったか、省庁間の官僚の間で意見の食い違いがあった場合がおとんで、そんなときに自民党の政治家は仲介役となって調整することが出来たのである。(略)

 

 

結局、日本の有権者は、民主党が政治の新しい方向をめざして針路を変更すると掲げ、選挙戦に打って出た二〇〇九年まで、待たなければならなかった。同党は、実際に政策を打ち出す前に、なにを優先課題とすべきかを真剣に討議し、比較検討し、意思決定の中枢となるような内閣をつくろうとした。民主党による、政治の舵取りを生み出す本格的な試みは、一九五〇年代の終わり以降では初めてだった。(略)

 

 

 

無関心と無能さについて

日本の政治エリートとして頂点に立つ者を含めて、大勢の人々が、官僚ではなkじゅ、政治家が日本の政策を決定できるよう、彼らの地位を引き揚げるために、この国には抜本的な改革が必要だと考えている。

 

 

ところがそれにも関わらず、日本ではいまなおおかしな状況が続いている。そこでここで一歩退いて、その理由を検証してみようと思う。

民主的な先進大国のなかにあって、根本的な改革を望む機運が、何度も蒸し返されるのは日本だけである。少なくとも私には日本以外にそうしたはっきりした傾向を持つ国はほかに思い浮かばない。

 

 

だれもが望みながら、しかしそれは一向に実現しそうにない。改革のチャンスが訪れるたびに、なぜ日本は取り逃がしてしまうのだろうか?

 

 

民主党が政権の座に就いた時が、絶好のチャンスであった。すでに述べたように、チャンスを逃したのはもちろん妨害されたからだ。あらゆるあ規格の試みを阻止する手段を有する管理者たち、キャリア官僚たちには、舵取り機能を奪い返そうとする政治家たちを打ち負かせるのである。

だが理由はそれだけだろうか?(略)

 

 

奇跡の成長を成し遂げた日本には、その後も産業力がさらに向上するという見通しがあったのだから、どこに向かえばいいかはたやすく思い描けたはずだ。という意見は多い。(略)

 

 

個人としての日本人と、政治システムとしての日本を比較する時、そこに矛盾があることがわかる。しかもなぜ矛盾しているかがわからないので困惑させられてしまう。日本人一人ひとりは怠慢とは対極の勤勉な人々であるのに、、政治機構としての日本は無気力そのものなのだ。(略)

 

 

内部にいる人々が組織の状態が悪化していることに気づいても、内部崩壊を食い止めようとしない状態を、無気力の害と呼ぶことにしよう。関係者がおかしいと十分に気づかなければ、しかもこのような陰鬱な流れを阻止しようとする強力な人物もあらわれなければ、こうした事態は起きる。

 

 

 

なぜ無気力の害が生じるのだろうか?大災害などを通じて、そうした姿勢をなんとしてでも変えるべきであるという事実がはっきりしてなお、なぜ現状を放置したままにできるのだろうか?

 

 

みずから自滅の道を突き進む様々な機構を観察した私は、そこにはふたつの原因があることに気づいた。ひとつは根本的に無関心だからであり、二番目は無能だからである。

 

 

 

同じことが国についても言える。もちろん日本が専門団体かなにかのように消滅することはないだろう。だがこの国をむしばむ無気力の害は国民にもおよんでいる。その原因は無関心と無能さにある。

 

 

 

ちなみに国や組織は、ふたつのグループに分けることができる。一方は状況を取り仕切ろうとの責任感をそなえたグループであり、他方は積極的に行動しようとはしないが、事態を切りまわすグループを眺めながら、このグループのやり方がまずければ介入しようとするグループである。

 

 

 

一国の中ではこのふたつのグループをまとめて、通常、政治エリートと呼ぶ。そして無気力の害は最初のグループの無能さと、第二グループの無関心さから生まれる。

 

 

ところで日本の官僚を無能だなどと言えるのだろうか?彼らは戦後日本の驚異の復興と、大変な経済的な成功を生んだ、社会・政治・経済マシーンを確立するうえで、重要な役割を果たしたのではなかったか?もちろnそうだ。

 

 

しかしすでに述べたように、当時の官僚たちには、自分たちの方向性を思い描くことができた。だがいまの彼らにはそれができない。(略)

 

 

有能かそうではないかは、やるべきことや、期待されることをやるかやらないかで判断される。(略)

 

 

もちろん我々は日本の官僚たちを、同じように判断する。(略)

大蔵省の官僚たちは世界でもっとも有能な部類に属するだろう。彼らは「バブル経済」の収縮をコントロールし続けた。そしてバブル後に銀行やほかの金融機関が実際には破綻していたにもかかわらず、世間にほとんど気づかれないまま、こうした機関をみちびき続けたのだから、彼らはたしかに称賛に値する。だが彼らは無能でもある。彼らは一番重要な取り組みに関して無能なのである。

 

 

 

大蔵省の役人たちは、日本にとってもっとも重要な活動でおもな意思決定をなす立場へと自分たちを押し上げた。しかし日本が直面する問題が変化したにも関わらず、それに政治的に的確な対抗ができないまま、彼らはいまだに自分たちの役割を見直そうとはしない。

 

 

つまり管や野田ら首相を洗脳したことからも明らかなように、彼らはいまなお日本を運営しようとしている、ということだ。(略)」