読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

少し感想

〇 「なぜ議論をしないのか」「なぜ政治に拘るのは良くないことだと考えるのか」「なぜ公的領域(市民たちが互いに意見を言い合う場)がないのか」
この類の問いを聞くたびに、私は徳川政権の「弾圧」のせいだけではない、それ以前の私たち日本人の気質的なものに関係があるのではないかと感じて
しまいます。

私自身を題材に、具体的に考えてみます。

例えば、私たちの社会にある、祝儀不祝儀に幾ら包むか…という問題ですが、
私は、昔からそのようなことに疎く、若い頃は、かなり非常識な
行動をとっていました。

非常識な人を人はどう見るか…
1.非常識な人だ。でも、特に悪意があるわけではないだろう、と考え、
  今まで通りに付き合ってくれる。

2. 非常識な人は、許せない。不快感が生じる、陰口悪口の対象にし、付き合わない。

3.そもそもそのような形式的なことは、気にしない。

「非常識な私」から見ると、人間は大きくこの三種類に分かれます。
今、目の前にいるAさんは、このうちのどれ?
Bさんは?Cさんは? ニコニコ笑ってるけど、心のうちではどう考えてる?
などと考え、そう簡単に信じるなんてできません。


何を言いたいかと言うと、社会にはこうすべきという型があって、
その型から外れることは悪とされてしまうことが多いので
型どおりに出来ない人は、なにかと誤解されるし、自分自身でも、
微妙な罪悪感や劣等感を持ちながら生きるしかないところに
追いつめられる、ということを言いたいのです。

ここでは、「祝儀不祝儀」を例にあげましたが、
実際、私たちの社会には、様々な問題でそのようなことがあると
感じます。



「意見を言う」ということは、自分とは違う意見の人に
どのように受け取られるかわからないという、リスクを冒すことになります。

頭の中に、様々な思惑が、生まれます。
目立とうとしている。カッコつけている。偉そうにしている。
本来の「議論」から外れて、そう言われることも多い社会ですから、
かなりの鬱陶しさを乗り越えられる強さがなければ、
なかなか発言できません。

そのような「発言しない」という態度を、為政者は、集団に黙って従う民族なのです、と理解するのでしょう。

人は様々なことを考えますし、性格も能力も様々です。

そのような人間が誰一人、存在を否定されることなく、表現の自由が保障されている、というのは、キリスト教的な価値観からきていると思うのですが、キリスト教的価値観を持たない、私たちの社会では、人権という言葉は掲げられていても、ものの考え方の中には、根づいていないのだと思います。

 

だからこそ、違うことや型破りを悪と見る考え方があり、それは、間違っている、と思いながらも、もし「空気の流れ」が「違うことは悪だ」と流れている場合には、「そんなのおかしい!」と思いながらも、黙ってそれに関わらない様に、見ないようにして、自分を守るのが、弱い人間の生き方だったのです。

 

この「おかしいなぁと思いながらも、黙って逆らわない」というこの態度は、小学校から高校まで続きます。かなり年季の入った熟練された態度です。そしていまや、大人になっても、しっかり「様子見をし」「空気を読んで」行動しているのです。

 

あえて言います。

共通の価値観を持たない人間同士は、信頼し合えません。

価値観については議論せず、システムだけで、しっかりとした社会を築こうとしてきたのが、これまでの日本ではないかと思いますが、

信頼し合えない人間同士の社会は、大丈夫なのでしょうか…。