読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第三章 日本民主主義の可能性

 

(略)

日本の民主主義も後退の一途をたどっていると考える人もなかにはいる。だが日本の民主主義をアメリカやヨーロッパと比較するにつけ、そうではないと私は強く思うようになった。大西洋の両岸では、民主主義を支えて来た制度や状況が、ひどく蝕まれている。

 

 

この傾向は特にソ連が崩壊し、世界中に民主主義が広がるという希望に満ちた将来を多くの人々が思い描いていたときからわずか一〇年後にあたる、今世紀の初めから加速しているのだ。

 

 

アメリカで金権政治が民主主義を征服してしまったことは、悲劇としか言いようがない。(略)

 

 

アメリカ人たちはかつて世界に名高かった公民権法に保護されているとは、もはや感じなくなってしまった。なぜならいまやアメリカ大統領は、テロリストを支援しているのではないかとの疑いがあるだけで、市民を選び、裁判にかけずに殺すことが出来るようになったのだから。

 

 

EUの加盟国はブリュッセル本部の官僚たちに多大な主権を渡してしまったため、少なくとも経済問題に関して、自国内の政権が変わろうが、さしたる違いが生じなくなってしまった。

民主的な制度はEUの加盟国によってかなり異なるが、結局のところ、EU内部で市民たちが引き続き発言権を持てるよう、連邦といったこれまでにない形の政治的な統一体へと、みずからを発展させることはなかった。ヨーロッパではこの状態は「民主主義の欠陥」と呼ばれている。

 

 

ヨーロッパ各国政府の長は定期的に集まっては危機を打開しようと試みている。しかし彼らの政治的な思考や効果的な政策を生み出す能力は、EUという構想を生み出した一九五〇年代や六〇年代の各国政府のトップと比べればあまりにおそまつである。

 

 

こうした諸国に比べれば日本で民主主義を求める機運はずっと強い。(略)

 

 

いずれにせよいまの日本が欧米の政治機構から学べるようなことはほとんどなにもない。むしろこうした機構は日本にとっての反面教師である。小泉政権下での経済政策の立案者たちは欧米のやり方をまねようとしたが、今の日本は欧米のやり方を導入すべきではない。(略)

 

 

 

多くの人々の目に、日本はつねに「追いつこう」としていると映る。明治時代に急いで工業・軍事化を進め世界の列強に政治面でも重視されるような大国になろうと、日本が大変な努力をしたことが、こうしたイメージを生み出すのに大きく影響していたことはたしかである。(略)

 

 

たとえば日本人が武道を学び、あるいは舞台で稽古をする姿勢に、この「追いつこう」とする精神を見て撮ることができる。訓練をはじめたばかりの者は師匠を完璧にまねるよう強く求められる。何かに熟達するには、完璧なモデルと自分自身との間にたちはだかる障害物を取り除かなければならない。

 

 

私が一九六〇ねんだいに初めて日本にやってきたとき、外国人の音楽教師は、日本人はそういう学び方をするから、個人の感情を自発的に表現する能力が不十分おだと不満を述べていたものだ。(略)

 

 

 

恐らく本書の読者すべてが、日本は本来あるべき姿になっていないと考えていることだろう。改革をめざす日本の人々はもちろん、たちどころにそう考える。しかし残念なのは、戦後の日本には、そのときどきの日本の状況を判断するのに、アメリカに近づいたかどうかではかろうとする傾向があることだ。(略)

 

 

ボトムライン」つまり経済利益偏重の管理方式という、アメリカのネオリベラル主義によって生み出されたやり方を採用したところで、一生涯を一つの企業で働くサラリーマンにとっても、その家族にとっても、日本の企業の状況は少しも快適なものになってはいない。

 

 

政治的な解決を要する、日本にとってもっとも差し迫った課題は、本書が初めて出版された二〇年ほど前とまったく同じわけではない。しかし重要なのは、解決策を探るうえで、やはり良好な舵取り機能が欠けていることがいまなお大きな障害になっているという点である。

 

 

本書の全編を通じて、我々はこうした比較的新しい問題について検討してきた。その中で喫緊の課題がなんであるか、私にははっきりわかる。それはアメリカに依存し続ければ必ず見舞われることになる大きな危険を避けるには、新しい政治の針路へと方向を転じることが急務だ、ということだ。(略)

 

 

日本を守ってはくれず、日本の同盟国にもなり得ないアメリカは、日本に威圧的に命令をする主人でしかない。日本はアメリカの地政学的な戦略目的のためのツールである。そしてアメリカのこの戦略は必然的に、日本の隣人である中国やロシアとの間にいさかいを、おそらくはもっと悪い事態を引き起こすことになるだろう。それは世界全体にとっても望ましいことではない。

 

 

日本の政治家がもっと関心を持つべき、もうひとつの差し迫った問題は原子力エネルギーに変わる電力源として、太陽光エネルギー技術の開発を急ピッチで進めることだろう。(略)

 

 

海外には代替エネルギー開発などを除いては、日本が見倣えるような明確な手本がない。なにをなすべきかを示すのは、国内の才能ある人々だろう。つまり日本人は他国に追いつき、他国のようになろうという考え方から自らを解き放たなければならないということだ。

 

 

海外から思想を輸入するというのが日本の伝統だったわけだが、それがわざわいして、新しい現実に適応するにはつねに外国の考え方に学ぶ必要があると誰もが考えるようになった。あるいは逆に、それに対する強いナショナリズム的な反発を生み出しもした。

 

 

国体思想という、日本をコンセンサスによって運営される調和溢れる独特の存在と見なすイデオロギーが、いかにこの国をゆがめてきたかについて、本書では既に述べたが、その背後には、日本社会の急激な変化に支配者階級が不安を強めてという事情があった。このような不安への反応としてイデオロギーが生まれたことは理解できる。(略)

 

 

物事を変えたいと強く望む日本人も、変化を望むことに罪の意識を覚えるのではないだろうか。というのも日本では成熟するとは、物事をあるがままに受け入れ、反抗心を抑えることだとする考え方が一般的だからだ。

 

 

いまなお日本に広まり続ける国体思想の影響を過小評価するのはたやすい。体制に順応するよう人々をうながすその影響力は並外れている。日本を変えたいと思う市民は、このことを意識しておくべきだろう。

 

 

自分が政治にかかわりながら、信念に従ってやっていることは正しい、と考える勇気ある日本人に対して、それは普通の日本人らしからぬ行動だと思わせるようなトリックが、繰り返し、幾度となく用いられるからだ。

 

 

日本の人々が生来、調和を重んじるのであれば、そして自らが所属する集団のために自分を犠牲にしても構わないのであれば、それに反するふるまいをする人間はだれであれ本当の日本人ではないと評価されてしまうのだ。

 

 

 

ある国民の基本的な習慣をテーマにするような政治関連著作は誤解を受けやすい。(略)

しかし私が異文化の思想を日本人に押し付けた、つまり日本文化に対してやってはいけないことをやったと言って、批判されもした。なかには、「欧米中心的」であると本書を批判していた日本のインテリもいた。

 

 

だが私はNHK交響楽団がベートーベンを演奏するのと同様、自分の著書が「欧米中心的」であるとは感じていない。私が論じるのは、日本の人々が問題だと語っていた事柄についての解決策である。私は一瞬たりとも、日本の政治エリートがどこの国であれ欧米の政治システムをまねるべきだなどと考えたことはない。」