読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「有害なるものぐさの克服

日本の市民たちが、社会に蔓延するものぐさという弊害を克服しなければならないことは明らかだと思う。これを読んだ読者はすぐに、私がこの第三部の執筆をはじめたときに感じたと同じような絶望感にかられるかもしれない。


結局のところ、我々個人は小さな存在である。これまで誰もが幾度となく自分がにとるに足らない存在であるかを思い知らされてきた。大きな機構が目の前に立ちふさがれば、我々は自分がちっぽけに感じられることだろう。


だからこそ。個人である読者も、みなさんが自分の周囲の世界に変化をもたらしうるばかりか、さらに一歩進んで、日本の変化に手を貸すこともできる、という私の度重なる主張を聞いて、どうかしていると思うかも知れない。


しかし本章の冒頭に記したように、アメリカやEUに比べれば、日本の状況にはまだ希望が持てる。(略)



数十年前のある時期、日本は国際社会から「日本株式会社」と呼ばれた。この表現には日本の政府官僚や政治家たとちの心地よく、うまみのある関係があったからこそ、日本企業は非常に強力になったという意味合いがある。もちろん現実はもっと複雑だった。


いずれにせよ、ヨーロッパなどの他諸国であれば、本来、政治的な影響力の強い中産階級が占めるはずの重要な位置を、日本では企業が占めているのだ。
大西洋の両岸に見られるような巨大企業に一番近い存在は、数世紀前の封建支配級だ。
EUに加盟する各国政府やEUレベルの機構は、一般の人々の経済環境が悪化するとわかっていながら、苦境に陥った銀行の救済保護に動いた。それによってかつてブルジョアジーと呼ばれた中産階級は抑圧されることになった。(略)

 

 

日本の歴史に一度としてブルジョアジーが登場したことはないと、私は著書で論じた。農業や医薬品業界にたずさわる利益団体は政治的な影響力を及ぼしても、都市部の労働者、つまりサラリーマンを代表する団体はない。民主党はほかの改革派政治家たちとともに、そうした状況を変えようとした。

 

 

政治的には中立とされてはいても、政治構造のなかで中間を占める銀行や巨大企業などは、実質的には政治的存在である。なぜなら彼らは巨大な権力を握っているからだ。不当にも政治的な判断で救済されたヨーロッパやアメリカの銀行や巨大企業は、市民と国家の中間に位置している。

 

 

もちろんこれまでもつねに政策に影響力を及ぼしてきたが、いまや彼らが政策を決定する場合が多い。こうした展開は、かつて近代化をはかった時代に日本がめざした方向に重なるものだ。

 

 

 

しかし第二次世界大戦後、日本では政治的に重要な中産階級が存在しない代わりに、それを成文法や不文律といった規定によって補おうとする政治文化が発展した。そのために、ますます官僚に対して政治支配が及ばなくなっていった。

 

 

当局は特に都市部の人々の希望に配慮するようになった。それを求めて活動を繰り広げる市民運動は成果を上げ、またそうした当局の態度に活動はうながされていった。

 

福祉制度も大いに改善された。地元の役人たちに接近することも以前より容易になった。要するに、市民を長期的に代表するような存在がなかった日本で、それを埋め合わせようとしたことによって、市民と国家の関係が和らげられたということだ。

 

 

日本と欧米を比較するならば、欧米の市民たちは、国はますます自分たちを世話えくれなくなり、最近の政治展開のなかで、自分たちの政治的な存在意義が失われたのではないかと感じている。

 

 

このような日本の状況があるため、この国の政治活動家たちは、みずからが求める目的の正当性をはっきりと打ち出すチャンスを与えられている。(略)

いちばん最近では二〇一二年の夏と秋である。将来、それがどんな結果を生むのかはまだわからないが、この先も日本の政治の抜本的な変化は可能ではないのか、という希望を大勢の人々が抱いたことは確かだった。

 

 

 

首相官邸を何十万という人々が取り囲んだのだ。これほど政治的な行動がほかにあるだろうか!インターネット上に時事報道やブログがあふれていることも、日本人の政治エネルギーのもうひとつのあらわれである。

 

 

読者もようやく興味を駆り立てられることになるに違いない!もしそうでなければ読者はなぜ本書を手に取ったのだろうか?つまり日本人が、生来、政治に無関心だなどと考える根拠などない、ということだ。(略)

 

 

 

また必然的に多くの政党が派生しては連携することになるだろう。しかしその場合でも政党同士の結びつきは弱いものになることだろう。さらに大勢の政治家たちが政党を梯子代わりに見立てて、出世をめざしそれを這い上がっていくであろうことは疑いない。

 

 

私はかねがね、政治家をわきに追いやり日本を運営し続けることこそが、キャリア官僚にとっての理想の状態なのだろうと思っていた。だが恐らくはこうした状況を続けることももはや容易ではなくなるだろう。

 

 

なぜなら政治の舵取りの確立という理想を失わず、それを政治家としてのDNAに刻み込んだ人々はなおも存在するだろうからだ。

 

 

彼らは当然、助けや励ましを必要としている。そして人々が有力紙に何千通も投書してくれればいい、と願っている。混乱が起きる時、本書で論じて来た問題に取り組むための新しい政治活動のチャンスも生まれるのである。」

 

 

〇 棚から牡丹餅の民主主義は私たちの社会には根づかなかった。でも、それがメチャメチャに破壊されようとしている今、多くの人がその中で、発言し行動し、なんとか民主主義を守りたいと頑張っています。

この著者が言うように、今のこの体験が、次の世代に受け継がれて行けば…と

そこに、希望を持ちます。