読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

武士道

「第十一章  克己

 

一方において勇の鍛錬は呟かずして忍耐することを銘記せしめ、他方において礼の教訓は我々自身の悲哀もしくは苦痛を露すことにより他人の快楽もしくは安静を害せざるよう要求する。この両者が相合してストイック的心性を産み、遂に外見的ストイック主義の国民的性格を形成した。

 

 

私が外見的ストイック主義というわけは、真のストイック主義は一国民全体の特性となりえざることを信ずるが故であり、また我が国民の作法および習慣中外国人の観察者に無情と映ずるものがあるかもしれないからである。しかしながら我が国民はじっさい天下のいかなる民族にも劣らず優しき情緒に対して敏感である。(略)

 

 

武士が感情を面に現わすは男らしくないと考えられた。「喜怒色に現わさず」とは、偉大なる人物を評する場合に用いらるる句であった。最も自然なる愛情も抑制せられた。父が子を抱くのは彼の威厳を傷つくることであり、夫は妻に接吻しなかった ― 私室においてはともかく、他人の面前にてはこれをなさなかったのである。(略)

 

 

というのは、汽笛が鳴って列車が動き出した時数千の人は黙って脱帽し、その頭を垂れて恭しく別れを告げ、ハンカチーフを振る者もなく、一語を発する者もなく、ただ深き沈黙の中に耳をすませば僅かに歔欷嗚咽の洩るるを聴くのみであった。

 

 

家庭生活においてもまた、親心の弱さに出ずる行為を気づかれないように、襖の陰に立ちながら病む児の呼吸に終夜耳を澄ませた父親がある!臨終の期にもその子の勉学を妨げざらんがために、これを呼び返すことを抑えた母親がある。我が国民の歴史と日常生活とは、ブルタークのもっとも感動すべきページにも善く匹敵しうる英雄的婦人の実例に充ちている。(略)

 

 

 

軽々しく霊的実験を語ることを奨励するは、第三戒 ―[「汝の神エホバの名を妄りに口にあぐべからず」] ― を破ることを教唆するものである。日本人の耳にとりては、最も神聖なる言葉、最も秘かなる心の実験を烏合の聴衆の中にて述ぶるは真に耳ざわりである。

 

 

 

「汝の霊魂の土壌が微妙なる思想をもって動くを感ずるか。それは種子の芽生える時である。言語をもってこれを妨ぐるな。静かに、秘やかに、これをして独り働かしめよ」と。

ある青年部氏は日記に書いた。

 

 

人の深奥の思想および感情 ― 特にその宗教的なるものを多弁を費やして発表するは、我が国民の間にありては、それは深淵でもなく誠実でもなきことの間違いなき徴であるとなされる。諺に言う、「口開けて、腸見する柘榴かな」と。

 

 

感情の動いた瞬間これを隠すために唇を閉じようと努むるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民においては言語はしばしば、かのフランス人[タレラン]の定義したるごとく「思想を隠す技術」である。(略)

 

 

 

じっさい日本人は、人性の弱さが最も酷しき試煉に会いたる時、常に笑顔を作る傾きがある。我が国民の笑癖についてはデモクリトスその人にも優る理由があると、私は思う。けだし我が国民の笑いは最もしばしば、逆境によって擾されし時心の平衡(バランス)を恢復せんとする努力を隠す幕である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘である。

 

 

かくのごとく感情の抑制が常に要求せられしため、その安全弁が詩歌に見出された。(略)

死せる児の不在をば常のことく蜻蛉釣に出かけたものと想像して、おのが傷づける心を慰めようと試みた一人の母[加賀の千代]は吟じて曰く、

 

 

蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら

 

 

私は他の例を挙ぐることを止める。何となれば一滴一滴血を吐く胸より絞り出されて稀有なる価値の糸玉に刺し貫かれたる思想をば、外国語に訳出しようとすれば、我が国文学の珠玉の真価をかえって傷つくるものなることを、私は知るからである。(略)

 

 

 

克己の修養はその度を過ごしやすい。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧うことがありうる。それはすなおなる天性を歪めて偏狭畸形となすことがありうる。それは頑固を生み、偽善を培い、情感を鈍らすことがありうる。

 

 

いかに高尚なる徳でも、その反面があり偽物がある。吾人は各個の徳においてそれぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして克己の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平かならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて言えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤの状態に到達するにある。

 

 

吾人は次に自殺および復仇の制度を考察しようとするのであるが、その前車において克己の極致は達せられ、かつ最も善く現れている。」