読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第6章 現代の契約)

「銀行家はなぜチスイコウモリと違うのか?

 

(略)今日では誰もが成長で頭が一杯なのに対して、近代以前の人々は、成鳥など眼中になかった。君主も聖職者も農民も、人間による生産は概ね一定しており、他人から何かくすねない限り豊かになれず、子孫が自分たちよりも高い水準の生活を送れるとは思っていなかった。

このような停滞状態に陥っていたのは、主に、新しい事業のために資金調達が難しかったからだ。(略)

 

 

二〇一四年夏に西アフリカでエボラ出血熱が拡がった時、この病気の薬やワクチンをせっせと開発していた製薬会社の株式に何が起こったと思うだろうか?

テクミラ社の株価は五割、バイオクリスト社の株価は九割値上がりした。中世に疫病が発生したときに上向くのは人々の顔で、それは彼らが点を仰いで神に自らの罪の許しを求めて祈ったからだ。

 

 

 

近頃の人々は、新しい致死的な感染症のニュースを耳にすると、スマートフォンに手を伸ばしてブローカーに電話する。証券取引所にとっては、感染症の流行さえもビジネスチャンスなのだ。(略)

 

 

これは理論上は単純に聞こえる。それならば、なぜ人類は近代になるまで、経済成長に弾みがつくのを待たなければならなかったのか?人々が何千年にもわたって将来の成長をほとんど信じなかったのは、愚かだったからではなく、成鳥が私たちの直感や、人間が進化の過程で受け継いで来たものや、この世界の仕組みに反しているからだ。自然界の系の大半は平衡状態を保ちながら存在していて、ほとんどの生存競争はゼロサムゲームであり、他者を犠牲にしなければ繁栄はない。(略)

 

 

 

自然界の貸し手として最も有名な例がチスイコウモリだ。チスイコウモリは洞窟の中に何千匹も集まり、夜な夜な外を飛びまわって餌食を探す。寝ている鳥や無防備な哺乳動物を見つけると、その肌に小さな切込みを入れ、血を吸う。だが、すべてのチスイコウモリが毎晩餌食を見つけられるわけではない。

 

 

 

この暮らしの不確かさに対処するために、彼らは血を貸し借りする。餌食を見つけられなかったコウモリは、ねぐらに戻ってくると、運の良かった仲間に頼んで、盗んだ血液を吐き戻してもらう。彼らは自分が誰に血を貸したかをしっかり覚えているので、後日、自分が空腹のままねぐらに戻った時には、前に貸した相手に近づくと、相手は仮を返してくれる。(略)

 

 

血液市場にも変動はあるとはいえ、チスイコウモリは、血液の量が二〇一七年には二〇一六年よりも三パーセント増えるとか、二〇一八年には血液市場が再び三パーセント成長するとか、見込むことはできない。そのため、彼らは成鳥を信じていない。人類は何百年もかけて進化する間、チスイコウモリやキツネやウサギのおと同じような状況にあった。だから、人間も成長を信じるのが苦手なのだ。

 

 

 

ラクルパイ

 

人間は進化圧のせいで、この世界を不変のパイと見るのが習い性となった。もし誰かがパイから大きく一切れ切り取ったら、他のだれかの分が確実に小さくなる。一つの家族あるいは都市は栄えるかもしれないが、人類全体としては今より多くを生産することはない。したがって、キリスト教イスラム教のような伝統的な宗教は、既存のパイを再分配するか、あるいは、天国と言うパイを約束するかし、現在の資源の助けを借りて人類の問題を解決しようとした。(略9

 

 

 

このように経済成長は、現代のあらゆる宗教とイデオロギーと運動を結び付けるきわめて重要な接点となっている。誇大妄想気味の五か年計画を推進したソ連は、アメリカの最も無慈悲な悪徳資本家と同じぐらい、成長に取り憑かれていた。キリスト教徒とイスラム教徒はみな天国の存在を信じており、天国への行き方についてだけ意見が合わないのとちょうど同じで、冷戦のさなかには、資本主義者も共産主義者も経済成長を通してこの世に天国を生み出すのだと信じており、その具体的な手法についてだけ言い争っていたにすぎない。

 

 

 

今日、ヒンドゥー教の信仰復興推進者や信心深いイスラム教徒、日本の国家主義者、中国の共産主義者は、まったく異なる価値観や目標を固守することを宣言しているかもしれないが、その誰もが、経済成長こそ、本質的に違うおのおのの目標を実現するカギであると信じるに至っている。(略)

 

 

 

日本の首相で国家主義者の安倍晋三は、日本経済を二〇年に及ぶ不況から抜け出させることを約束して二〇一二年に就任した。その約束を果たすために彼が採用した積極的でやや異例の措置は、「アベノミクス」と呼ばれてきた。(略)

 

 

 

このように成長にこだわるのはわかりきったことに思えるかもしれないが、それは私たちが現代世界に暮らしているからにすぎない。過去にはそうではなかった。インドのマハーラージャやオスマン帝国のスルタン、鎌倉幕府の将軍、漢王朝の行程は、自らの政治的命運を賭けて経済成長を保障することは、まずなかった。(略)

 

 

 

自由市場資本主義には断固とした答えがある。経済成長のためには家族の絆を緩めたり、親元から離れて暮らすことを奨励したり、地球の裏側から弁護士を輸入ありせざるをえないのなら、そうするしかない。ただし、この答えには事実に関する言明ではなく倫理的な判断がかかわっている。

 

 

 

ソフトウェアエンジニアリングを専門とする人と高齢者の介護に時間を捧げる人の両方がいるときには、より多くのソフトウェアを作り、より多くの専門的介護を高齢者に提供できることは間違いない。とはいえ、経済成長は家族の絆よりも重要だろうか?自由市場資本主義は大胆にもそのような倫理的判断を下すことによって、科学の領域から境界線を越えて宗教の領域へと足を踏み入れたのだ。

おそらくほとんどの資本主義者は宗教というレッテルを嫌うだろうが、資本主義は宗教と呼ばれても決して恥ずかしくはない。(略)

 

 

 

資本主義は、成長という至高の価値観の信奉から、自らの第一の戒律を導き出す。その戒律とはすなわち、汝の利益は成長を増大させるために投資せよ、だ。(略)

 

 

 

資本主義はけっして歩みを止めないという教訓は、至る所で見られる資本主義の無によって子どもやティーンエイジャーの頭にまで叩き込まれている。近代以前に誕生したチェスのようなゲームは、停滞した経済を前提としている。チェスでは双方が一六個の駒で対戦を始め、終わったときに駒の数が増えていることは絶対ない。稀にポーン[訳註 将棋で言えば「歩」に相当する駒]がクィーンになることもあるが、新しいポーンを生み出したり、ナイト(騎士)を戦車にアップグレードしたりは出来ない。だからチェスのプレイヤーはけっして投資を考える必要がない。それに対して現代の盤上ゲームコンピューターゲームの多くは、投資と成長に焦点を当てている。(略)

 

 

新たに村を作れば、次回には収入が増え、(必要なら)より多くの兵士を雇えるだけでなく、生産への投資も同時に増やすことができる。ほどなく、村を町にアップグレードしたり、大学や港や工場を設けたり、あちこちの海を探検したり、文明を打ち立てたりして、ゲームに勝つことが可能になる。」