読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第6章 現代の契約)

「方舟シンドローム

 

とはいえ、経済は本当に永遠に成長し続けられるのだろうか?いずれ資源を使い果たし、勢いが衰えて停止するのではないか?永続的な成長を確保するためには、資源の無尽蔵な宝庫をなんとかして発見しなければならない。(略)

 

 

ウサギの経済が停滞しているのは、草をもっと速く育たせることがウサギにはできないからだ。それに引き換え、人間の経済が成長できるのは、新しい材料やエネルギー源を人間が発見できるからだ。

 

 

世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ。

 

原材料とエネルギーは量に限りがあり、使えば使うほど残りが少なくなる。それに対して、知識は増え続ける資源で、使えば使うほど多くなる。実際、手持ちの知識が増えると、より多くの原材料とエネルギーも手に入る。(略)

 

 

 

したがって私たちには、資源の欠乏という問題を克服する可能性が十分ある。現代の経済にとって真の強敵は、生態環境の破壊だ。科学の進歩と経済の成長はともに、脆弱な生物圏の中で起こる。そして、進歩と成長の勢いが増すにつれて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。

 

 

 

裕福なアメリカ人と同じ生活水準を世界中の人々全員に提供するためには、地球があといくつか必要になるが、私たちにはこの一個しかない。(略)

私たちは、進歩と成長のペースを落せば、この危険を軽減することができるだろう。投資家たちが今年、自分の金融資産で六パーセントの収益を見込んでいるとしたら、10年後には三パーセントの収益で、20年後にはわずか一パーセントの収益で満足する術を学ぶこともできるだろう。

 

 

 

そうすれば、30年後には経済が成長をやめても、私たちはすでに手に入れたもので満足していられる。とはいえ、成長の教義はそのような異端の考え方には断固として異議を唱える。(略)

 

 

私たちは生態環境の破綻が人間の社会階級(カースト)ごとに違う結果をもたらしかねないことも憂慮するべきだ。歴史に正義はない。災難が人々を襲うと、貧しい人の方が豊かな人よりもほぼ必ずはるかに苦しい目に遭う。そもそも、豊かな人々がその悲劇を引き起こした時にさえ、そうだ。(略)

 

 

未来の科学者たちが今はまだ知られていない地球の救出法を発見するだろうという前提に基づいて人類の将来を危険に曝すのは、どれほど道理に適っているのだろう?

 

 

世界を動かしている大統領や大臣やCEOは道理をしっかりわきまえた人々だ。それなのに、なぜ進んでそんな賭けをするのか?それは彼らが、自分個人の将来を賭けているわけではないと思っているからかもしれない。もし状況がいよいよ悪化し、科学者が大洪水を防げなくても、以前として技術者が、高いカーストにはハイテクのノアの方舟を作れるだろう。ただし、他の何十億もの人は取り残されて溺れる羽目になる。

 

 

このハイテクの方舟信仰は今、人類と生態系掩体の将来にとって大きな脅威の一つになっている。ハイテクの方舟で助かると信じている人々には、グローバルな生態環境を任せるべきではない。死んだ後で天国に行けると信じている人々に核兵器を与えるべきではないのと同じ理屈だ。

 

 

では、貧しい人はどうなのか?彼らはなぜ抗議していないのか?大洪水がもし本当に襲ってきたら、その損害は彼らがまともに被ることになる。とはいえ、経済が停滞したら真っ先に犠牲になるのも彼らだ。資本主義の世界では、貧しい人々の暮らしは経済が成長している時にしか改善しない。

 

 

したがって彼らは、今日の経済成長を減速させることによって将来の生態環境への脅威を減らす措置は、どんなものも支持しそうにない。環境を保護するというのは実に素晴らしい考えだが、家賃が払えない人々は、氷床が解けることよりも借金の方をよほど心配するものだ。

 

 

激しい生存競争

 

たとえ私たちが猛然と走り続け、経済の破綻と生態環境のメルトダウンの両方をんとかかわせたとしても、このレースそのものがさまざまな大問題を引き起こす。個人にとっては、このレースはひどいストレスと緊張の原因となる。(略)

私たちがどんな道具をいつでも意のままに使えるかを祖先が知ったら、私たちは何の不安も心配もなく、この世のものとも思えない平穏を楽しんでいるに違いないと推測したことだろう。

 

 

ところが、真相はそんな平穏には程遠い。(略)

近代以前の世界では、人々は社会主義の官僚制における下級官吏のようなものだった。彼らはタイムカードを押し、あとは誰か他の人が何かしてくれるのを待つだけだった。現代の世界では、私たち人間が事業を運営している。だから私たちは昼も夜も絶えずプレッシャーにさらされている。(略)

 

 

 

もっと欲しがるように人を説得するのは、そう難しくはなかった。強欲を抱くのは人間にとっては簡単なことなのだ。厄介なのは、国家や教会のような集団的組織を説得して、この新しい理想に同調させることだった。様々な社会は何千年にもわたって、個人の欲望をほどほどに抑えて安定させるように骨を折ってきた。(略)

 

 

 

今日、知識人は自由市場資本主義をしきりに叩きたがる。資本主義は世界を支配えいるので、実際私たちは、悲劇的な大惨事に至る前に、その欠点を理解するよう、ありとあらゆる努力をするべきだ。とはいえ、資本主義を批判するあまりに、資本主義の利点や功績を見失ってはならない。

 

 

これまでのところ。資本主義は驚異的な成功を収めて来た ― 少なくとも、将来の生態環境のメルトダウンの危険性を無視すれば、そして、生産と成長という物差しで成功を測るのなら。(略)

 

 

というわけで、現代の取り決めは前代未聞の力を与えることを私たちに約束し、その約束は守られた。さて、それではその代償はどうなのか?現代の取り決めは、力と引き換えに、意味を捨てることを私たちに求める。人間たちはこの背筋の凍るような要求に、どう対処したのか?それに従えば、倫理観も美学も思いやりもない、暗い世界がいともたやすく生じ得ただろう。

 

 

 

ところが実際には、人類は今日、かつてないほど強力であるだけでなく、以前よりもはるかに平和で協力的だ。人間はどのようにそれをやってのけたのか?神も天国も地獄もない世界で、道徳性と美、さらには思いやりさえもがどうやって生き延びて、盛んになったのか?

 

 

資本主義者たちはまたしても、市場の見えざる手にいっさいの手柄をさっさと帰する。ところが、市場の手は見えないだけではなく盲目でもあり、単独では人間社会に資することはありえなかっただろう。事実、田舎の市場でさえ、神や王や教会か何かの手助けがなければ維持できないだろう。

 

 

裁判所や警察まであらゆるものが売りに出されたら、信頼は消え失せ、信用は跡形もなくなり、商業は立ちいかなくなる。それでは、現代社会を崩壊から救ったのは何か?人類を救出したのは需要と供給の法則ではなく、革命的な新宗教、すなわち人間至上主義の台頭だった。」

 

 

〇 「現代の取り決めは、力と引き換えに、意味を捨てることを私たちに求める… 神も天国も地獄もない世界…」これは、まさに日本的な世界ではないか…と思いながら読みました。人間至上主義、これは既に私たちの国では普通になっていることではないのか…と。