読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第7章 人間至上主義革命)

「倫理と政治に言えることは、美学にも当てはまる。中世には、芸術は客観的な基準に支配されていた。美の基準は、人間の間の一時的流行を反映することはなかった。むしろ、人間の美的感覚は、超人間的な指図に従うものとされていた。それは、芸術は人間の感情ではなく超人間的な力の働きがきっかけで生まれるものと人々が信じていた時代には、完璧に理に適っていた。

 

 

画家や詩人、作曲家、建築家の手は、学問と芸術を司る女神や、天使、聖霊によって動かされていると思われていたのだ。作曲家が美しい讃美歌を書いたときには、作曲家の功績とはされないことが多かった。ペンの手柄にはならないのと同じ理屈だ。ペンは作曲家の指に握られて導かれた。そして作曲家の指は神の手に握られて導かれるのだった。

 

 

 

中世の学者たちは、ある古代ギリシアの理論に固執していた。その理論によると、空の星々の動きが天上の音楽を奏で、それが全宇宙に響き渡っているという。人間は、肉体と魂の内なる動きが、星々が生み出す天上の音楽と調和している時に、心身の健康を享受する。

 

 

したがって、人間の音楽は宇宙の聖なるメロディを忠実になぞるべきであり、生身の作曲家の考えや気紛れを反映するべきではないのだ。最も美しい賛美歌や歌や調べはたいてい、人間の芸術家の天分ではなく、神聖な霊感に帰せられた。

 

 

そのような見方はもう、はやらない。今日、人間至上主義者たちは、芸術的創造と美的価値の唯一の源泉は人間の感情だと信じている。(略)

 

 

その結果、芸術の定義さえもが、やりたい放題になっている。一九一七年にマルセル・デュシャンがありきたりの大量生産の男性用小便器を買い、それが芸術作品であると宣言し、「泉」と名づけ、サインし、あるニューヨークの展覧会に出品しようとした。

 

 

 

中世の人なら、わざわざそれについて議論することさえなかっただろう。そんなナンセンスの極みについては、口を利くのも馬鹿らしい。ところが、現代の人間至上主義の世界では、デュシャンの作品の登場は、芸術至上の画期的出来事と考えられている。世界中の無数の教室では、芸術を学ぶ大学一年生がデュシャンの「泉」の写真を見せられ、どう思うかという教師の問いとともに大騒ぎになる。

 

 

 

これは芸術だ! いや、違う! いや、芸術だとも!とんでもない!教師はしばらく学生たちに言いたいことを好きなように言わせてから、「芸術とはいったい何でしょう?そして、何かが芸術作品かどうかを、どうやって決めればいいのでしょう?」と問いかけ、議論の的を絞る。(略)

 

 

 

今日、デュシャンの傑作の複製は、サンフランシスコ近代美術館やカナダ国立美術館、ロンドンのテート・モダン、パリのポンピドゥー・センターなど、世界の主要な美術館のいくつかで展示されている(トイレではなく、陳列室に)。

 

 

そのような人間至上主義のアプローチは、経済の分野にも重大な影響を与えて来た。中世にはギルドが生産過程を管理しており、個々の職人や消費者の独創性や好みが入り込む余地はほとんどなかった。家具職人のギルドは適切な椅子とはどういうものかを決めた。パン職人のギルドは良いパンを規定した。(略)

 

 

 

現代の自由市場では、そうしたギルドや君主や議会はすべて、新しい至高の権威る。消費者の自由意志に取って代わられてしまった。

たとえばトヨタが完璧な自動車を生産することに決めたとしよう。様々な分野の専門家から成る委員会を設置し、一流の技術者やデザイナーを雇い、傑出した物理学者や経済学者を集め、社会学者や心理学者たちにさえ相談する。(略)

 

 

 

大学教授や聖職者やイスラム法学者が全員揃って、これは素晴らしい自動車だと、ありとあらゆる教壇や説教壇から声高に言ったとしても、もし消費者が拒絶すれば、それは悪い自動車だ。消費者に向かって、あなたは間違っていると言う権限を持っている人は一人もいないし、政府が国民に特定の自動車を買うよう無理強いするなどもってのほかだ。

 

 

 

自動車に言えることは他のあらゆる製品にも言える。(略)「ハアレツ」紙のインタビューで、記者のナオミ・ダロムは、そうした遺伝子操作は動物たちに大きな苦しみを引き起こしかねないという事実をアンダーソンに突きつけた。すでに今日でさえ、「能力を強化」された牛たちは、あまりに乳房が重いので、ろくに歩くことができず、「アップグレード」されたニワトリは、立ち上がることさえできない。

 

 

だが、アンダーソン教授には、確固たる答えがあった。「もとをたどれば、全ては個々の消費者にたどり着きます。消費者が肉にいくら払う気があるかという疑問に……現在の世界的な肉の消費レベルは、「能力を強化された」現代のニワトリ抜きではとうてい維持できないだろうことを、思い出さなければなりません…

 

 

消費者が私たちにできるかぎり安い肉だけを求めていたら……消費者はそれを手にすることになるのです……消費者は自分にとって何がいちばん重要かを決める必要があります。—価格か、何かそれ以外のものなのかを」

 

 

 

アンダーソン教授は夜、心安らかに眠りに就くことができる。自分が能力を強化した動物の製品を消費者がかっているのだから、自分は彼らの欲望や欲求を満たしているのであり、したがって良いことをしているわけだからだ。

これと同じ理屈で、もしどこかの多国籍企業が「悪をなすなかれ」[訳註 グーグルがかつて掲げていた行動規範]というモットーを侍者が遵守しているかどうか知りたければ、損益を眺めるだけで済む。もしたっぷり収益があがっていれば、厖大な数の人が自社の製品を気に入っている証拠で、それは自社が善に資する力を揮っていることを意味する。(略)

 

 

 

最後に、人間至上主義の考え方が台頭したせいで、教育制度にも大変革が起こった。中世には、あらゆる意味と権威の源泉は外部にあり、したがって教育は、服従を教え込み、聖典を暗記し、古くからの慣習を学ぶことに的を絞っていた。(略)

 

 

それに対して現代の人間至上主義の教育では、生徒に自分で考えることをp教えるべきだとされている。アリストテレスやソロモン王やアクィナスが政治や芸重津谷経済についてどう考えていたかを知るのもいいが、意味と権威の至高の源泉は私たち自身の中にあるので、こうした事柄について自分がどうかんがえているかを知ることのほうが、はるかに重要なのだ。(略)

 

 

 

意味と権威の源泉が点から人間の感情へと移るのにともなって、世界全体の性質も変化した、それまで神々や妖精や悪魔で満ちていた外側の世界は、何もない空間となった。それまではむき出しの感情の、撮るに足りない領域だった内側の世界は、計り知れぬほど深淵で豊かになった。(略)

 

 

 

天国と地獄も雲の上と火山の下にある現実の場所ではなくなり、内部の精神的な状態と解釈されるようになった。人は心の中で怒りや憎しみの日を燃え立たせるいに地獄を経験し、敵を赦したり、自分の悪行を悔いたり、貧しい人に富を分け与えたりするたびに、天国の至福を楽しむのだ。」