読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第7章 人間至上主義革命)

「これこそ、神は死んだと言った時にニーチェの頭にあったことだ。少なくとも西洋では、神は抽象概念になり、それを受け容れる人もいれば退ける非tもいるが、どちらにしてもあまり変わりはない。

 

 

中世には、神がいなければ、人は政治的権威の源泉も道徳的権威の源泉も美的権威の源泉ももちえなかった。だから、何が正しいか、善いか、美しいか判断できなかった。誰にそんな生活が送れるだろう?

 

 

 

それに対して今日は、神の存在を信じないことはたやすい。信じなくても、何の代償も払わなくて済むからだ。人は完全な無神論者であっても、政治的価値観と道徳的価値観tと美的価値観のじつに豊かな取り合わせを自分の内なる経験から依然として引き出せる。

 

 

仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる自己が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。だから、神の存在を信じていると言っているときにさえも、実は私は、自分自身の内なる声のほうを、はるかに強く信じているのだ。

 

 

 

黄色いレンガの道をたどる

 

感情にも、他のあらゆる権威の源泉と同じで短所がある。人間至上主義は、どの人間にも単一の本物の内なる自己があると決めてかかっているが、私がその内なる自己に耳を傾けようとすると、沈黙がかえってくるか、相争う声の不協和音が聞こえて来るかのどちらかだ。

 

 

 

人間至上主義はこの問題を乗り越えるために、権威の新しい源泉だけではなく、その権威に到達して真の知識を獲得する新しい方法もはっきりと示した。

 

 

中世のヨーロッパでは、代表的な知識の公式は、知識=聖書×論理※だった。もし人々が重要な疑問の答えをしりたかったら、彼らは聖書を読み、文章の厳密な意味を理解するために論理を使った。(略)そんなわけで、学者たちは学校や図書館で何年も凄し、できるかぎり多くの文書を読み、文書を正しく理解できるように論理的思考力を磨くことで知識を探し求めた。

 

 

科学革命は完全に異なる知識の公式を提示した。知識=観察に基づくデータ×数学だ。もし何かの疑問の答えを知りたければ、その疑問に関連した、観察に基づくデータを集め、それから数学的ツールを使って分析する必要がある。

 

 

たとえば、地球の本当の形状を知るためには、次のような方法がある。まず世界のさまざまな場所から太陽と月と惑星を観察する。十分な観察結果が集まったら、三角法を使って地球の形だけでなく太陽系全体の構造も推定できる。そんなわけで、科学者たちは観測所や研究所や遠征調査で何年も凄し、できるかぎり多くの観察に基づくデータを集め、そのデータを正しく解釈できるように数学的ツールの制度を上げることで、知識を求める。

 

 

(※この公式が掛け算の形を取っているのは、聖書と論理が互いに影響を及ぼすからだ。少なくとも中世のスコラ哲学によれば、論理がなければ聖書は理解できないという。もしあなたの論理力がゼロなら、たとえ聖書を一ページ漏らさず読んだとしても、知識の総計は依然としてゼロのままとなる。

 

 

逆に、もし聖書を読んだ量がゼロなら、どれほど論理の力があっても役に立たない。この公式がもし足算だったなら、論理の力がたっぷりある人は、聖書を読んでいなくても、多くの知識を持っていることになる。あなたは私は、それは理に適っていると思うかも知れないが、中世のスコラ哲学はそうはならなかった。)

 

 

化学的な知識の公式のおかげで、天文学や物理学や医学をはじめ多くの学問領域が驚嘆するべき大躍進を遂げた。だがこの公式には一つ大きな難点があった。価値や意味に関する疑問には対処できないのだ。

 

 

中世の有識者は盗んだり殺したりするのは悪いことだとか、人生の目的は神の命に従うことだとか、絶対の核心を持って断定することができた。聖書にそう書いてあるからだ。

 

 

化学者には、そうした倫理的判断を下すことはできない。どれだけデータを集めようと、どれだけ巧みに数学を使おうと。殺すのが悪いと証明うことはできない。

 

 

ところが、人間社会はそのような価値判断なしでは生き延びられない。

 

 

 

この難点を克服する一つの方法は、古い中世の公式を新しい科学の手法と併用するというものだった。地球の形を判断したり、橋を架けたり、病気を治したりするといった実際的な問題に直面したときには、観察に基づくデータを集めて数学的に分析する。離婚や妊娠中絶や同性愛を赦すかどうかを判断するといった倫理的な問題に直面したときには、聖典を読む。

 

 

この解決法はヴィクトリア朝のイギリスから二一世紀のイランまで、近代以降のじつに多くの社会である程度まで採用されてきた。

 

 

ところが、それに代わるものを人間至上主義が提供した。人間たちが自分に自信を持つようになると、倫理にまつわる知識を得るための新しい公式が登場した。知識=経験×感性だ。倫理にまつわるどんな疑問に対しても答えを知りたければ、自分の内なる経験と接触し、この上ないほどの感性をもってそれを観察する必要がある。

 

 

 

そんなわけで、私たちは経験を積み重ねるために何年も過ごし、その経験を正しく理解できるように自分の感性を磨くことで、知識を探し求める。

「経験」とはいったい何なのか?観察に基づくデータではない。経験は原子や電磁波、たんぱく質、数からできてはいない。経験と主観的な現象で、感覚と情動と思考という三つの構成要素から成る。

 

 

 

私の経験はどの瞬間にも、私が感じるいっさいのこと(熱、快感、緊張など)や、感じるいっさいの情動(愛、怖れ、怒りなど)、何であれ頭に浮かぶ思考から成る。

 

 

 

では、「感性」とは何か?それは二つのことを意味する。第一に、自分の感覚と情動と思考に注意を払うこと。第二に、それらの感覚と情動と思考が自分に影響を与えるのを許すこと。たしかに私は、そよ風が束の間吹くたびに、それに吹き飛ばされてしまうわけにはいかない。それでも、新しい経験を拒まず、それが自分の見方は行動を、さらには人格さえ変えるのを許すべきだ。

 

 

 

経験と感性は果てしないサイクルをたどりながら互いに高め合う。感性がなければ何も経験できないし、さまざまな経験をしなければ感性を伸ばすことは出来ない。感性は、本を読んだり講義を聴いたりして育めるような抽象的能力ではない。(略)

 

 

こうして私は一杯飲むごとに、感性を磨き、お茶通になった。緑茶を呑み始めた頃には、明朝の磁器でパンダ茶を振舞われても、紙コップに入った安い紅茶ほどのありがたみしか感じなかっただろう。必要な感性なしでは、物事を経験することはできない。そして、経験を積んで行かないかぎり、感性を育むことは出来ない。

 

 

 

お茶に当てはまることは、他のあらゆる美的知識や倫理的知識にも当てはまる。私たちは出来合いの良心を持って生まれてはこない。人生を送りながら、他人を傷つけ、他人に傷つけられ、情け深い行動を取り、他者からの思いやりを受ける。

 

 

 

注意を払えば、道徳的な感性が研ぎ澄まされ、こうした経験が価値ある倫理的知識の源泉となって、何が善く、何が正しく、自分が本当は何者かわかってくる。

人間至上主義はこのように、経験を通して無知から啓蒙へと続く、内なる変化の漸進的な仮定として人生を捉える。

 

 

 

人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識をめいっぱい深めることだ。近代的な教育制度構築の立役者の一人であるヴィルヘルム・フォン・フンボルト

一九世紀初頭に、人間が存在すr目的は「できるかぎり幅広い経験を叡智いて結晶させることである」と述べた。彼はまた、「人生に頂上は一つしかない ― 人間的なものをすべて味わい尽したときだ」とも述べている。これは人間至上主義のモットーとしても十分通用するだろう。

 

 

 

中国の哲学によれば、世界は陰と陽という、相反しつつも互いに補い合う二つの力の相互作用によって維持されているという。これは物理的な世界には当てはまらないかもしれないが、科学と人間至上主義との契約によって生み出された現代世界には、たしかに当てはまる。

 

 

どの科学の陽にも人間至上主義の陰が含まれており、どの人間至上主義の陰にも科学の陽が含まれている。(略)

だが現代世界は贅沢なスーパーマーケットでもある。人間の感情や欲望や経験にこれほどの重要性を与えた文化はこれまでなかった。人生は経験の連続であるという人間至上主義の見方は、観光から芸術まで、現代のじつに多くの産業の基盤を成す神話となった。(略)

 

彼らは斬新な経験を売っているのだ。

同様に、近代以前の物語の大半が外面的な出来事や行動に的を絞っていたのに対して、現代の小説や映画や詩は感情を強調することが多い。

ギリシア・ローマ時代の叙事詩や中世の騎士物語は、感情ではなく英雄的行為の目録さながらだ。

 

 

 

決定的なのは、主人公が内面の変化と呼べるような過程をまったく経ない点だ。アキレスもアーサー王もローランもランスロットも、冒険に出かける前から、騎士道の世界観を持った怖れを知らぬ戦死で、最後まで騎士道の世界観を持った恐れを知らぬ戦士のままだ。

 

 

人食い鬼を殺したり姫を救い出したりする活躍はみな、彼らの勇気と忍耐を裏付けているが、彼らはけっきょく、そこからほとんど学ぶことがなかった。

 

 

行為ではなく感情や経験に的を絞る人間至上主義は、芸術を一変させた。ワーズワースドストエフスキーディケンズ、ゾラは、有閑な騎士や豪胆な行為にはほとんど関心がなく、普通の労働者や主婦がどう感じているかを描写した。(略)

 

 

今日私たちは、中世の騎士たちは鈍感な人でなしだと思うかも知れない。もし彼らが私たちの間で暮らしていたら、私たちはセラピストのもとに送り込むだろう。そうすれば、自分の感情を知るのを助けてもらえるかもしれない。これこそ、「オズの魔法使い」でブリキの木こりの身に起こることだ。

 

 

彼はオズに着いたら偉い魔法使いが心を与えてくれることを期待しながら、ドロシーや彼女の友人たちといっしょに黄色いレンガの道を歩いて行く。(略)旅の終わりに、魔法使いは詐欺師であることがわかる。魔法使いは、彼らが望んでいたものをどれ一つ与えられない。

 

 

だが彼らは、それよりもはるかに重要なことに気づく。望んでいたものはすべて、すでに彼らの中にあったのだ。敏感になったり、賢くなったり、勇敢になったりするためには、神のような魔法使いなど、まったく必要ではなかった。黄色いレンガの道をたどり、途中で出くわすどんな経験にも心を開きさえすればよかったのだ。(略)」