「電気と遺伝学とイスラム過激派
二〇一六年の時点で、個人主義と人権と民主主義と自由市場という、自由主義のパッケージの本格的な代替となりうるものは一つもない。
二〇一一年に西洋世界で猛威を振るった「ウォール街を占拠せよ」やスペインの15M運動(訳註 二〇一一年、反緊縮を訴える市民がマドリードのプエルタ・デル・ソル広場を占拠した運動)のような社会的抗議行動は、民主主義や個人主義や人権に敵対するものでは断じてなかったし、自由市場経済の基本原理にさえ盾つくものではない。
むしろ正反対で、そのような自由主義の理想の実現を怠っているとして政府を非難する。
そして、市場を「大きすぎて潰せない」企業や銀行に支配させたり操作させたりしないで、本当に自由にすることを要求する。豊富な資金を持つロビイストや強力な利益団体ではなく一般市民のために尽くす真の議会制民主主義制度を求める。
自由主義のパッケージの粗探しがお気に入りの暇つぶしである欧米の学者や活動家も、これまでのところ、そのパッケージに優る者は思いつけずにいる。
中国は欧米の社会的抗議運動家よりもはるかに真剣に挑んでいるように見える。
中国は自国の政治と経済の自由化を進めてはいるものの、民主主義国家でもなければ、真の自由市場経済でもないそれにもかかわらず、中国は二一世紀の経済大国になった。ところがこの経済大国は、イデオロギーの影はほとんど落していない。中国人が昨今はなにを信じているのかを知っている人は、中国人自身を含めて誰もいないようだ。(略)
だから中国は現時点では自由主義の真の代替を提示してはいない。自由主義モデルに絶望し、その代わりとなるものを探しているギリシアによって、中国を真似るのは、見込みのある選択肢ではない。
それでは、イスラム過激派はどうだろう?あるいは、キリスト教原理主義や、メシアニック・ジュダイズム(訳註 ユダヤ教の伝統を保持したまま、キリストを救世主と信じる、ユダヤ人のキリスト教信仰)、復興主義のヒンドゥー教はどうか?(略)
神は死んだとニーチェが宣言してから一世紀以上過ぎた今、神は返り咲こうとしているように見える。だが、それは幻想にすぎない。神は死んだ。ただ、その亡骸の始末に手間取っているだけだ。イスラム過激派は、自由主義のパッケージにとっては、真の脅威ではない。なぜなら、狂信者ははなはだ熱烈ではあるものの、二一世紀の世界を本当には理解しておらず、私たちの周り中で新しいテクノロジーが生み出している、今までにない危険や機会について、当を得たことは何も言えないからだ。
宗教とテクノロジーはつねになんとも微妙なタンゴを踊っている。互いに押し合い、支え合い、離れすぎるわけにはいかない。テクノロジーは宗教に頼っている。(略)
だが、二〇世紀が立証したように、人はまったく同じ道具を使ってファシズムの社会も、共産主義独裁政権も、自由民主主義国家も生み出せる。宗教的な信念がなければ、機関車はどちらに進めばいいか決められない。
その一方で、テクノロジーが私たちの宗教的ビジョンの限界を定めることもよくある。ウェイターがメニューを私、客の食欲に対して境界を示すのと同じようなものだ。(略)
イスラム原理主義者は「イスラム教こそ答えだ」という決まり文句を繰り返すかもしれないが、その時代のテクノロジーの現実から乖離してしまった宗教は、投げかけられる疑問を理解する能力さえ失う。AIがほとんどの認知的課題で人間を凌ぐようになったら、求人市場はどうなるのだろう?(略)
バイオテクノロジーのおかげで親の望む特性を持つデザイナーベビーを誕生させ、豊かな人々と貧しい人々の間に前例のないほどの格差を生み出せるようになったら、人間社会に何が起こるのか?
これらの質問のどれに対する答えも、クルアーンやシャリーア(イスラム法)、聖書や「論語」には見つからない。なぜなら、中世の中東や古代の中国で、コンピューターや遺伝学やナノテクノロジーについて多くを知る人など一人もいなかったからだ。(略)
たしかに、何億もの人がそれでもイスラム教やキリスト教やヒンドゥー教を信じ続けるかも知れない。だが歴史の中では、たんなる数にはたいして価値がない。(略)一万年前、ほとんどの人は狩猟採集民で、中東のほんのわずかな先駆者だけが農耕民だった。とはいえ、未来はその農耕民たちのものだった。(略)
産業革命が世界中に拡がり、ガンジス川やナイル川や揚子江をさかのぼって浸透して行った時にさえ、ほとんどの人は蒸気機関よりもヴェーダや聖書、クルアーン、「論語」を信奉し続けた。(略)
工場や鉄道や蒸気船が世界を埋め尽くしていく中にあってさえ、何億もの人が洪やダヤーナンダ、ピウス、マフディーの宗教的教義にしがみついた。
とはいえ私たちのほとんどは、一九世紀が信仰の時代だったとは考えない。先見性のある一九世紀の人物と言えば、マフディーやピウス九世や洪秀全ではなく、マルクスやエンゲルスやレーニンが頭に浮かぶ可能性の方がはるかに高い。そしてそれはもっともだ。(略)
では、洪秀全やマフディーがうまくいかなかったのに、マルクスとレーニンが成功したのはなぜか?それは、社会主義的な人間至上主義がイスラム教やキリスト教の神学よりも哲学的に高尚だったからというわけではなく、マルクスとレーニンが、古代の聖典と予言的な夢を詳細に調べることよりも、当時のテクノロジーと経済の実情を理解することに、より多くの注意を向たからだ。(略)
マルクスとレーニンは、そうした欲求と希望に応えるために、蒸気機関の仕組みや炭坑の操業方法、鉄道がどのように経済を方向付け、電気がどのような影響を政治に及ぼすかを研究した。(略)
一九世紀半ばには、マルクスほど鋭い洞察力を持った人はほとんどいなかった。だから急速な工業化を遂げた国はわずかしかなかった。そして、これらの少数の国々が世界を征服した。ほとんどの社会はなにが起こっているかを理解しそこね、そのため、進歩の列車に乗り遅れた。(略)
二一世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗り損ねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、二一世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を愛する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食料や織物、乗り物、武器の生産にだけ使われるわけではない。
二一世紀の首位ような製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に広がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。二一世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。
一〇〇年前には時代の先端を言っていた社会主義は、新しいテクノロジーにはついていいけなかった。レオニード・ブレジネフとフィデル・カストロは、マルクスとレーニンが蒸気の時代にまとめた考え方にしがみつき、コンピューターとバイオテクノロジーの力を理解しなかった。それに対して自由主義者は、情報時代にずっとうまく適応した。
(略)
イスラム過激派は、社会主義者よりもずっと苦しい立場にありう。彼らは産業革命とさえまだ折り合いをつけられずにいる。遺伝子工学やAIについて当を得たことがほとんど言えないのも無理はない。イスラム教やキリスト教などの伝統的な宗教は、依然として世界に大きな影響力をふるい続けている。とはいえ、彼らの役割は今やおおむね受け身のものになっている。(略)」