〇 第三部のタイトルページに書かれていた言葉。
「 人間はこの世界を動かし
それに意味を与え続けることができるか?
人間至上主義をどのように脅かすか?
誰が人類の跡を継ぎ、どんな新宗教が
人間至上主義に取って代わる可能性があるのか? 」
〇 このタイトルページの裏には、図39として、「コンピューターと化した脳、脳と化したコンピューター。AIは今や人間の知能を越えようとしている。」と書かれています。
「第8章 研究室の時限爆弾
二〇一六年の世界は、個人主義と人権と民主主義と自由市場という
自由主義のパッケージに支配されている。とはいえ、二一世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。科学は価値にまつわる疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのかどうか、あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかどうかは判断できない。
一方、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、抽象的な倫理的判断だけではなく、自らが事実に関する言明と信じるものにも基づいている。そして、そうした事実に関する言明は、厳密な科学的精査にはとうてい耐えられないのだ。
自由主義者が個人の自由をこれほど重視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ。自由主義によれば、有権者や消費者の決定は、必然的に規定されている決定的なものでもランダムなものでもないという。人は勿論外部の力や偶然の出来事の影響を受けるが、けっきょくは、一人ひとりが自由という魔法の杖を振るって、物事を自分で決められる。(略)
森羅万象に意味を与えるのは私たちの自由意志であり、他人は私たちが本当はどう感じているかを知ったり、何を選ぶかを確実に予測したりすることはできないので、ビッグ・ブラザー(訳註 ジョージ・オーウェルの「一九八四年」に登場する全体主義国家の独裁者)の類に頼って、自分の関心や欲望の面倒を見てもらおうなどとするべきではない。
人間には自由意志があると考えるのは、倫理的な判断ではない。それはこの世界について事実に関する記述だと称される。このいわゆる事実に関する記述は、ジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーヤトマスf・ジェファーソンの時代には道理に適っていたかもしれないが、生命かがk需の最新の八件とは相容れない。
自由意志と現代の科学との矛盾は研究室の持て余し者で、多くの科学者はなるべくそれから目を逸らし、顕微鏡やfMRIスキャナーを覗き込むありだ。
一八世紀には、ホモ・サピエンスは謎めいたブラックボックスさながらで、内部の仕組みは人間の理解を越えていた。だから、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねると、次のような答えが受け容れられた。「なぜなら、そうすることを選んだからだ。自分の自由意志を使って殺人を選んだ。したがって、その人は自分の犯罪の全責任を負っている」。
ところが二〇世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスをk¥開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と科学の法則に従っていた。
今日、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねたときには、「なぜなら、そうすることを選んだからだ」という答えは通用しない。代わりに、遺伝学者や脳科学者はもっとずっと詳しい答えを与える。「その人がそうしたのは、脳内のコレコレの電気化学的プロセスのせいであり、それらのプロセスは特定の遺伝的素質によって決まり、その素質自体は太古の進化圧と偶然の変異の組み合わせを反映している」
〇 この本は、実はもう読み終わっているのですが、メモの方が遅れています。今、もう一度読みながら思い出したのは、ハンナ・アーレントの「精神の生活 下」です。
引用します。
「「私は思弁的思考活動のばか騒ぎのことについては既に話した。それは知性の認識能力を超えて思考したいというカントの理性の欲求を解放しようとするところから始まったが、その後を継いだドイツ観念論者は概念を人格化して遊びとしてしまい、科学的妥当性があるのだと要求した。
しかし、それは、カントの「批判」とははるかにかけ離れたものになってしまった。
科学的真理という観点から見ると、この観念論者たちの思弁は、えせ科学であった。
今ではこのスペクトルの反対の端で、何か同様にえさ的なものが進行しているように思われる。唯物論者たちは、コンピュータやサイバネティクス、オートメーションの助けを借りて、この思弁のゲームを行う。彼らの外挿法によっては、観念論者のゲームのような幽霊ではないが、しかし心霊論者の降神会の場合のように、[精神の]物質扱いが行われる。
この唯物論者のゲームにおいて非常に驚くべきことは、その結果が観念論者の諸概念に似ていることである。こうしてヘーゲルの「世界精神」は近年、大型コンピュータのモデルとして造られた「神経システム」の構造に物質化を見出した。すなわちルイス。・トーマスは、世界規模の人間の共同体を一つの巨大頭脳の形で捉えることを提案している。
この頭脳はきわめて敏速に考えを取り替えるので、「人間のたくさんの頭脳は、しばしば機能的に融合を被っているかのように見える」。その「神経システム」としての人類と共に、こうして全地球は「複雑に相互にかみ合った諸部分からなる、呼吸する有機体…となる」。
そしてこの一切は、惑星の大気という保護膜の下で成長している。
こうした考えは、科学でも哲学でもなく、SFである。」
〇 ハンナ・アーレントの時代にはまだバイオテクノロジーもAIもなかったので、SFでしたが、現代においては、現実のことになってきました。ただ、この事実をどう取り扱うかについては、まだまだわかっていない未知の領域があるとしっかり認識していなければならないのだろうな、と思います。
その認識がないまま、精神が全て科学で解明できるかのように考えてしまうと、SFになってしまうと思うのですが。
「殺人につながる脳の電気化学的プロセスは、決定論か、ランダムか、その組み合わせのいずれかだ。だが、けっして自由ではない。たとえば、ニューロンが発火するとき、それは外部の刺激に対する決定論的な反応か、ことによると、放射性元素の自然発生的な崩壊のようなランダムな出来事の結果かもしれない。
どちらの選択肢にも、自由意志の入り込む余地はない。先行する出来事によってそれぞれ決まる生化学的な出来事の連鎖反応を通して行き着いた決定は、断じて自由ではない。原子内部でランダムに起こる偶然の出来事から生じる決定も、自由ではなく、ただランダムなだけだ。そして、ランダムに起こる偶然の出来事が決定論的なプロセスと組み合わさると、確率的な結果が得られるが、これも自由には相当しない。(略)
実は、「自由」という神聖な単語は、まさに「魂」と同じく、具体的な意味などまったく含まない空虚な言葉だったのだ。自由意志は私たち人間が創作した様々な想像上の物語の中にだけ存在している。
事由へのとどめの一撃を加えたのは進化論だ。進化論は不滅の魂と折り合いをつけることができないのとちょうど同じで、自由意志という概念も受け入れることができない。もし人間が自由だとすれば、自然選択が人間の進路を決定することなど、できたはずがないではないか。進化論によれば、住み処、食物、交尾相手お、何についてであれ動物が行なう選択はみな、自分の遺伝子コードを反映しているという。
環境に適応していない遺伝子のせいで、毒キノコを食べ、元気のないメスと交尾うことを選択すれば、その遺伝子は途絶える。ところが、もし動物が、何を食べ、誰と交尾するかを「自由に」選んだら、自然選択には出る幕がない。
人はこのような科学的説明を突きつけられると、しばしばそれを軽くあしらい、自分は自由だと感じていることや、自分自身の願望や決定に従って行動していることを指摘する。それは正しい。人間は自分の欲望に即して振舞う。
もし「自由意思」とは自分の欲望に即して振舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意志がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。(略)
これはたんなる仮説でもなければ、哲学的な推量でもない。今日私たちは脳スキャナーを使って、人が自分の欲望や決定を自覚する前に、その欲望や決定を予測することができる。その種の実験の一つでは、参加者は両手に一つずつスイッチを握った状態で巨大な脳スキャナーの中に入れられる。
そして、いつでもその気になったときに二つのスイッチのうちの一つを押すように言われる。脳の神経活動を観察している科学者は、参加者が実際にスイッチを押すよりもずっと前に、そして、本人が自分の意図を自覚する前にさえ、どちらのスイッチを押すかを予測できる。その人の決定を示す脳内の神経の活動は、本人がこの選択を自覚する数百ミリ秒から数秒前に始まるのだ。(略)
それにもかかわらず、人が自由意志について論じ続けるのは、科学者までもが時代遅れの神学的概念を相変わらず使っていることがあまりに多いからだ。キリスト教とイスラム教とユダヤ教の神学者は何世紀にもわたって、魂と意志との関係について議論してきた。彼らはどの人間にも魂と呼ばれる内なる本質があり、それがその人の真の自己だと決めてかかっていた。(略)
たとえば、イヴはなぜ、ヘビが差し出した禁断の果実を食べたいと思ったのか?この欲望は押し付けられたものなのか?まったくの偶然で彼女の頭に浮かんだのか?それとも、彼女は「自由に」その欲望を選んだのか?もし自由に選ばなかったのなら、なぜ罰せられたのか?
ところが、魂など存在せず、人間には「自己」と呼ばれる内なる本質などないことをいったん受け容れてしまえば、「自己」はどうやって自らの欲望を選ぶのか?」と問うことは、もう意味を成さなくなる。(略)」