読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第8章 研究室の時限爆弾 )

「人生の意味

 

物語る自己は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「問題」のスターだ。この小説は、ミゲル・デ・セルバンテスの有名な小説の題名の由来となったドン・キホーテに関わる。(略)

もしこうした空想を信じているせいでドン・キホーテが本物の人間を襲って殺してしまったらどうなるだろう、とボルヘスは考える。

 

 

 

人間の境遇についての根本的な疑問をボルヘスは投げかける。私たちの物語る自己が紡ぐ作り話が自分自身あるいは周囲の人々に重大な害を与えるときには何が起こるのか?主な可能性は三つある、とボルヘスは言う。

 

 

たいしたことは起こらないというのが第一の可能性だ。(略)

ドン・キホーテは人を殺めた後、途方もない戦慄を覚え、その衝撃で妄想から目覚める。これは若い新兵が祖国のために死ぬのは善いことだと信じて戦場に出たものの、けっきょく戦争の実情を目の当たりにしてすっかり幻滅するというのと同じ類だ。

 

 

だが、第三の、はるかに複雑で深刻な可能性もある。空想の巨人と戦っているかぎりは、ドン・キホーテは真似事をしていたにすぎない。ところが彼は、誰かを本当に殺したら、自分の空想に必死にしがみつく。自分の悲惨な悪行に意味を与えらるのは、その空想だけだからだ。

 

 

矛盾するようだが、私たちは空想の物語のために犠牲を払えば払うほど執拗にその物語にしがみつく。その犠牲と自分が引き起こした苦しみに、ぜがひでも意味を与えたいからだ。

これは政治の世界では、「我が国の若者たちは犬死にはしなかった」症候群として知られている。(略)

 

 

もっとも、政治家だけを責めることはできない。一般大衆も戦争を支持し続けた。そして戦後、イタリアが要求した領土をすべて獲得するわけにはいかなかったとき、この国の民主主義はベニート・ムッソリーニとその配下のファシストたちに政権を委ねた。ムッソリーニらが、イタリア人が払ったあらゆる犠牲に対して適切な保障を獲得すると約束したからだ。(略)

 

 

聖職者たちはこの原理を何千年も前に発見した。無数の宗教的儀式や戒律の根底にはこの原理がある。神や国家といった想像上の存在を人々に信じさせたかったら、彼らに何か価値あるものを犠牲にさせるべきだ。その犠牲に伴う苦痛が大きいほど、人はその犠牲の想像上の受け取りての存在を強く確信する。(略)

 

 

 

それと同じ論理が経済の領域でも働いている。一九九七年、スコットランド政府は新しい議事堂をたてることを決めた。当初の計画では、建設には二年の月日と四〇〇〇万ポンドの費用がかかる見込みだった。ところが実際に要した時間は五年、金額は四憶ポンドだった。(略)

 

 

 

そして政府は、「うーん、このためにすでに何千万ポンドもつぎ込んだのだから、今やめにして、作りかけの骨組みだけが残されたら、私たちは完全に信用を失うだろう。それなら、あと四〇〇〇万ポンド認めよう」と毎回自分に言い聞かせた。(略)そしてそのまた数カ月後、同じ事態が発生し、それを繰り返しているうちに、とうとう実際の費用は当初の見積もりの一〇倍に達した。

 

 

この罠にはまるのは政府だけではない。企業もうまく行かない事業に何百万ドル投入することが多く、個人も破綻した結婚生活や将来性のない仕事にしがみつく。

私たちの物語る自己は、過去の苦しみにはまったく意味がなかったと認めなくて済むように、将来も苦しみ続けることのほうをはるかに好む。(略)

 

 

というわけで、国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけとっておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説、耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。

 

 

この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の

命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振舞う人も少なからずいる。だが結局、それはすべてただの物語にすぎない。

 

 

それならば、人生の意味とは何なのか?何か外部の存在に既成の意味を提供してもらうことを期待するべきではないと自由主義は主張する。個々の有権者や消費者や視聴者が自分の自由意志を使って、自分の人生ばかりではなくこの世界全体の意味を生み出すべきなのだ。

 

 

ところが生命科学自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語に過ぎないと主張する。(略)

自由意志と個人が存在するのかという疑問は、むろん新しいものではない。二〇〇〇年以上前に、インドや中国やギリシアの思想家たちは、「個人の自己は幻想である」と主張した。とはいえ、そのような疑念は、経済や政治や日常生活に実際的な影響を及ぼさない限り、歴史をたいして変えることはない。

 

 

 

人間は認知的不協和扱いの達人で、研究室ではある事柄を信じ、法廷あるいは議会ではまったく違う事柄を信じるなどということを平気でやる。ダーウィンが「種の起源」を刊行した日にキリスト教が消えはしなかったのとちょうど同じで、自由な個人など存在しないという結論に科学者たちが達したからというだけで自由主義が消え失せることはない。(略)

 

 

ところが、異端の科学的見識が日常のテクノロジーや毎日の決まりきった活動や経済構造に転換されると、この二重のゲームを続けるのは次第に難しくなり、おそらく私たち(あるいは私たちの後継者)には、宗教的信念と政治制度の全く新しいパッケージが必要になるだろう。

 

 

三〇〇〇年紀の始まりにあたる今、自由主義は、「自由な個人などいない」という哲学的な考えによってではなく、むしろ具体的なテクノロジーによって脅かされている。私たちは、個々の人間に自由意志など全く許さない、甚だ有用な装置や道具や構造の洪水に直面しようとしている。民主主義と自由市場と人権は、この洪水を生き延びられるだろうか?」