読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

終戦の「聖断」は、憲法を踏み間違えたものか

 

すべてを拾い得たわけではないが、「憲法絶対」と言った発言は数が多い。それは天皇に、「自分は神権的独裁君主ではない、立憲君主である」という自己規定が明確にあったためと思われる。これは決して何かの弁明のための言葉ではなく、「憲法を否定することは自分が天皇であることを否定するようなもの」といった感じさえする。

 

 

そしてその遵守は実に生真面目で「時と場合によっては多少逸脱しても……」と言った余裕は感じられず、少々杓子定規と言った感じさえする。ナチスに心酔し、自らヒトラーの仮装をした近衛文麿などは、この点に不満を漏らしている。

このような「天皇の自己規定」は何に基づき、どのように形成されたのであろうか。だがそれに進む前に、終戦のときの処置を天皇自らがどう考えていたかに進もう(出典・同前)。

 

 

「だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎、当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。

 

 

ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも犯さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。

 

 

……この場合に私が採決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。

しかし、この事は、私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている」

 

 

ただ天皇自身は自分の行為に憲法上疑義があると思っていた。ではこの場合、いわゆる「聖断」が絶対であったかというと必ずしもそうはいえない。天皇の意見は意見として、御前会議が戦争継続を決定すれば、天皇はそれを裁可せざるを得ない。

 

 

というのは、天皇はそれまでも、残されているものが少ないとはいえ、時々「御希望」や「御意見」を述べている。その中には、戦前にもし天皇からこんなことを言われたら大変なことになる、と思われるような発言さえ、黙殺されているのがある。たとえば次のような例がある。

 

 

「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」  (原田熊雄著 「西園寺公と政局」岩波書店刊)

 

 

 

昭和十四年四月の発言である。日本への致命傷となった日独伊の三国同盟の交渉の際、大島駐独大使(陸軍中将)と白鳥駐伊大使が、陸軍の意を受けて、独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦するとの意思を表明した。

 

 

これでは、もし独伊が英仏と戦争状態になった場合、日本は自動的に参戦することになってしまう。こういう重要な問題を本国の訓令も受けず大使が勝手に行なうおは、少々異常である。もちろんその背後に陸軍が、ということは板垣(征四郎)陸相がおり、これを支持している。

これに対して天皇は、板垣陸相にきびしい口調で言われた。

 

 

「元来、出先の両大使が何ら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度を取ることは甚だ面白くない。また閣議ごとに逸脱せることを言うが如きも、甚だ面白くない」

 

軍部はことあるごとに「統帥権干犯」「大権干犯」を持ち出したが、これは天皇の意思とは無関係だから、天皇は何も言っていない。一方、天皇自らがこの言葉を口にしたのは、きわめて珍しいし、当時の常識で言えば、天皇からこう言われれば辞職ではすまない大変な結果になるはず。「大権干犯」といえば、すぐ一人一般の右翼がすっとんで来ても不思議ではない。

 

 

ただ当時は、軍部や右翼が天皇から直接に「天皇の大権を犯した」と言われても何の問題も生じていない。そして板垣・大島・白鳥の三人は、罷免もされず辞職いていない。

 

 

 

一方、三国同盟の方は、突如、独ソが不可侵条約を締結、平沼首相が「複雑怪奇」の言葉を残して内閣総辞職となったため、一時、棚上げとなった。この場合の天皇の言葉は完全に無視されている。」