読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「倫理の教師に、杉浦が指名された理由

 

(略)

実は前々から、この忘れられた「書生道楽」者に眼をつけていたらしい人がいた。それが浜尾新(一八四九~一九二五年)である。かれは東大総長を二度つとめ、文部大臣も経験した教育界の長老だが、重剛が大学南校の学生の頃の幹事で、学校に泊まり込みで生徒の世話をしていた。いわば重剛とは四〇年来の先輩・後輩の間柄であり、彼の生涯をつぶさに見ていたと言ってよい。(略)

 

 

その彼が東宮大夫となり、東宮御学問所副総裁を兼ねるようになって、白羽の矢を杉浦重剛に立てた。東大総長と文部大臣を歴任した彼は、もちろん当時の教育界に精通しており、多くの学界の重鎮といわれる人を知っていた。だがそれらの人が選ばれず重剛が選ばれたのは、彼が中学教育のベテランであったからであろう。

 

 

この名総長といわれた人の判断は的確で、これから中学生になる将来の天皇には、経験を積んだ中学教師が必要でも、大学教授が必要なわけではない。そして理想的なのは、優に大学教授が務まる中学教師で、長らくの経験を積んだ者であった。この点で杉浦重剛こそ適格と見たのであろう。

 

 

 

もちろん浜尾は独断で決めたわけではなく、杉浦の著作を審査したのは山川健次郎(一八五四~一九三一)である。山川は白虎隊から城づきにまわされたので生き延びたという数奇な運命の持ち主である。彼は会津鶴ヶ城で籠城戦を一か月戦い、落城後に、彼の才を惜しむ人に助けられて越後に落ち、江戸に出て開拓使の試験を受け、これに合格してエール大学に留学という苦難の道を歩んでいる。(略)

 

 

国家の興廃は「道徳」にあり

 

では杉浦重剛とはどのような思想の持ち主であったのか。それを要約するのはきわめてむずかしい。理由は簡単で、彼は青少年期に漢学と洋学を学び、イギリスに留学して化学を学んでも、いわゆる「西欧近代思想」を学んではいないからである。(略)

 

 

しかし「倫理御進講草案」をはじめとする彼の著作を読むと、その思想はある程度はつかめる。簡単に言えば、彼は、幕末に漢学を学び明治初期にイギリスに留学した多くの人と、ある面では、同じような思想を持っていた。それを彼自らの言う「日本で発達した日本固有の儒学」と「ヴィクトリア朝的なイギリス思想」との習合といった思想と見てよいであろう。

 

 

当時留学した日本人で、進化論の影響を受けなかった者はいない。それもスペンサーの社会進化論的な考え方で、個人も国家も適者生存で不適者は淘汰されるという考え方である。穂積八束(法学者、陳重の弟)などはこの信奉者で、個人が適者生存・不適者淘汰を継続すれば、その民族は優秀な適者だけになるから、次は、世界における諸民族との競争にも勝ち残るといった考え方を持っていた。

 

 

 

この思想は、きわめて危険な要素を含んでいるが、問題はいかなる要素を持てば適者になれるかである。

重剛もまた精力をたくわえた者が適者になると信じていたが、興味深いことは、彼が、力とは武力・知力・腕力ではなく道徳だと信じていたことである。その点では、道徳至上主義者と言えるであろう。

 

 

 

ここには「徳」に絶対的な価値を置いた儒教の影響があるであろうが、それだけではあるまい。いわば道徳的頽廃が一民族を衰亡に導くことが、ギボンの「ローマ衰亡史」以来、ある程度は常識化していたイギリスの影響もあったと考えてよいであろう。

 

 

 

この考え方も明治にはある程度は共通して見られ、内村鑑三なども道徳的頽廃が衰亡につながると考えている。(略)

 

 

重剛は、栗山潜鋒の厳しい批判――特に後白河法皇への――や、天皇家の頽廃の状態などは、問題化しないように、あくまでも口頭で行って記録に残らぬようにあのであろう。

 

 

彼は日本がイギリスのように、世界の中心的勢力になるべきだとしている。これもヴィクトリア朝時代の留学生に共通していると言ってよい。もっともそれが目標や憧れか明確でない場合もあるが、重剛は、日本は世界の盟主になるべきだとしている。

そういうと誤解されそうだが、彼は、超国家主義軍国主義者ではない。それはあくまでも、道徳という力において最高になることだとしている。これも「保健大記」とよく似た考え方で、潜鋒は、朝廷は「失徳」によって政権を失ったのだから、「徳」をきわめれば幕府は大政を奉還し、他の国々も日本を盟主とすると説いている。

 

 

 

重剛は、道徳がなぜ力であり得るかを自然科学的に説明しているが、これは、今では問題にするに足りない。ただ彼の考え方は道徳至上主義で、道徳的に頽廃すればその国家・民族は滅亡し、当特的に向上すればその国家・民族は興隆すると考えていたことは間違いない。

 

 

さてこうなると天皇は、模範的な道徳的人間にならねばならない。そうでなければ日本は衰亡に向かうことになる。彼は帝王倫理と個人倫理は区別しがたいと言っているが、この点では確かにそのとおりであろう。(略)

 

 

 

大正三年(一九一四年)五月十五日、浜尾は、杉浦家を訪れ、「皇太子裕仁親王倫理教師を引き受けてもらいたい」と言った。全く予期しない話に重剛は驚いた。そんな要請が自分のところに来ようなどとは、夢にも思っていなかったからであろ。彼は一両日の猶予を請い、日頃信頼している関係者に相談して、この大任を引き受ける決心をした。

 

 

浜尾が彼の宅を訪れてから八日後の五月二十三日、彼は宮内省に出頭して辞令を受け、ついで御学問所を見学してから皇太子裕仁親王に拝謁した。初対面であったろう。それから約一か月間、彼は、御進講の草案づくりに没頭する。それが、いま残されている「倫理御進講草案」の草稿であろう。

 

 

 

倫理の「御進講」が、後の天皇に与えた影響

 

以上のような経過を経て、杉浦重剛は皇太子裕仁親王に倫理を講義するようになった。それが天皇にどのような影響を与えたか。それは、さまざまな機会に天皇が口にされた言葉、およびほぼ一貫している生き方と、重剛の残した「倫理御進講草案」とを対比すると、自ずと明らかにてくる。(略)

 

 

前述のように彼が辞令を受けたのは五月二十三日、倫理の教師はまだ決まっておらず、倫理抜きの始業式だった。これは、その人選がどれだけ難航したかを示している。(略)

 

 

 

後の記録を見ると、天皇が最も得意な外国語はフランス語、次が英語であり、ドイツ語は習得されなかったらしい。

興味深いのは、歴史が白鳥庫吉博士で、彼の学問を継承したのが津田左右吉だが、ともに「神話は歴史に非ず」としている点である。(略)

 

なお、東郷元帥も杉浦重剛もともにイギリスへの留学生であったことも興味深い。それが天皇の親英米的傾向にどのような影響を与えたかはあきらかでないが、重剛がドイツをほとんど無視するか、否定的に採り上げるかのいずれかであったことは「倫理御進講草案」を見れば分る。

 

 

さまざまな理由があったであろうが、”時局”も影響したであろう。

彼が一か月の準備を終えて講義をはじめたのが六月二十二日、そして七月二十八日に第一次大戦がはじまり、日英の関係から、日本も八月二十三日にドイツに宣戦布告をしているからである。」