読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「四章 天皇の教師たち(Ⅱ)  =歴史担当・白鳥博士の「神代史」観とその影響

 

天皇は、神話や皇国史観をどう考えられたか

 

アメリカ人が「日本人は天皇をGodと信じ、このGodが戦争の開始を命じたから戦争をし、停止を命じたからやめた」と信ずるのは彼らの自由である。説明すべきことをことごとく説明してもなお彼らがそう信じるなら、そう「信ずることを止めよ」という権利は誰にもない。また、これに同調する日本人がいても別に不思議ではない。外国人の日本観を金科玉条とする日本人は、昔からいたからである。いまそのことを採り上げようとは思わない。(略)」

 

〇 私は特別「外国人の日本観を金科玉条としよう」と思ったことはないのですが、でも、私もずっとそう信じていました。「日本人は天皇を神と信じたから戦争に行き、死ぬことを受け容れて死んで行ったのだ」と。

 

ドラマなどで、「天皇陛下バンザイ」と言って死んで行った…と聞き、天皇陛下と口にする時は、誰もが姿勢を正し、畏まって口にする態度などを見て、天皇に命じられたら、例えそれがどれほど理不尽な事でも、理不尽だとは、感じなくなったのだろうと思っていました。ちょうど、あのイスラムのテロリストが、平気で自爆テロをするように、天皇の命令=聖戦だと思うからこそ、それが出来たのだと。

 

でも、この本を読んで(実はもう最後まで読み終わりました。メモは、なかなか

進まず、少しずつになってしまいますが…)本来の天皇制と、一般庶民の感覚の間には、かなり大きな隔たりがある、と感じました。

 

そのギャップを利用し、庶民の「単純な感覚」を上手く誘導し、戦意高揚に利用しようとした人々が、「天皇は神」という空気を作ったのだろうと、今は思います。でも、それにしても、私は天皇をどう考えればよいのか、正直よくわかっていません。よくわからないまま、この本を読んで、少しその取っ掛かりが、出来たと感じました。

 

「だが問題は天皇ご自身が自らをどう規定していたか、である。天皇はしばしば「立憲君主として」という言葉を使っておられるが、「現人神」はもちろん「現御神として」という言葉も、いくら探しても発見できない。一体、天皇は、日本の神話や皇国史観歴史認識をどう考えていたのであろうか。(略)

 

 

次に神話が出てくるのが第二学年二学期の「御即位式大嘗祭」だが、この中で、時々さまざまな形で取り上げられる「大嘗祭」への杉浦の説明は、ごく簡単で次の通りである。

 

「……御即位の大礼に引き続き行わせらるる大嘗祭は、新帝即位後、始めて新穀を天祖および天神地祇(天の神と地の神)に供え給い、かつ親らも聞し食す所の大祭にして、天皇御一代に一度行わせらるる重大の神事なり」と。

 

 

そして次に、明治四年にこれが行なわれたとき神祇官が上奏した文書が掲載されている。これによると、昔は毎年、新穀が出来るたびに行っていたが、天武天皇のころから、

「毎歳の大儀を省き、全くの式は践祚の大祀を以てす」

となっている。(略)

 

 

ただ今回の維新に当たり、

「……衰頽修飾の虚礼を改め、隆盛純粋の本義に復し」

で、一代一回のみとする旨定められたとあり、その祭りの由来は、瓊瓊杵尊天孫降臨のとき、

「神器を賜り、かつ稲穂を与えさせ給いて」

の結果であるとする。杉浦の言い方はあくまで稲作民族の農業祭で、次のように記す。

 

 

天孫稲穂を携え来たり、これを播種して以て国家万民の食物を供給し給えり。我国において米の尊き事即ち言わずして知るべきなり。かるが故に、天皇新たに御登極の上は悠紀主基(新穀を備える東西の祭殿)の田を定め、ことに神聖に作り上げたる米を以て天祖および諸神を祭らせ給う。これ実に天祖より封ぜられたる日本国を統御せらるるにおいて、まず大祭を行ないて天職を明らかにし、同時に、政を統べさせ給うことの責任をも明らかにし給うの意義なり」と。

 

 

簡単に言えばオカルト的な要素は全くないと言ってよい。

この場合の天皇は祭主であり、祀る側であっても祀られる側ではない。(略)

後年、天皇は、新聞記者の質問に答えて、購入する本は「生物学と歴史」と答えておられる。生物学に生涯御関心を持たれたことはよく知られたことだが、この時のお答えから拝察すれば、研究成果は何も公表されていないとはいえ、歴史にも深い関心を持ちつづけられたと言ってよいであろう。

 

 

となると、他からの見方はさて措き、天皇御自身が「神代史」をどう解釈されておられたかは、きわめて重要な問題である。こうなると、歴史学において、生物学においける服部広太郎博士の位置にいた白鳥庫吉博士の「歴史観」は、きわめて重要な問題を提起する。

 

 

日本に「歴史学」は存在しなかった

 

白鳥庫吉全集の末尾にある「小伝」によれば、氏は慶応元年(一八六五年)千葉県に生まれ、明治二十三年(一八九〇年)帝国大学文科大学史学科を卒業、ただちに学習院教授に任じられている。卒業と同時に教授任命とは、いかに明治の草創期とはいえ少々不思議な気がするが、ここではまず、白鳥博士自らの記す「学習院に於ける史学科の沿革」を少し引用しよう。

 

 

 

「私の若い頃には今日のような小学校はなくて、私は寺子屋で勉強したのでした。もちろん私は寺子屋で歴史を習いはしませんでした。……八、九歳のとき小学校に進んだのでしたが、そこでも歴史科はありません。私が歴史と言い得るものに接したのは、やっと中学に入ってからです。ですから、私は結局 ”日本における歴史の歴史”を述べることになります」

 

と言った書き出しで始まるこの短い文章で、白鳥博士はきわめて重要な指摘をしている。それは日本には「歴史学」という学問はなく、中国史は漢学の付属物、日本史は国学の付属物であったという指摘である。(略)

 

 

「日本には歴史学はなかった」と要約できる白鳥博士の指摘は重要である。私が教育を受けた昭和のはじめは、もちろん明治の前半期と同じとはいえないが、日本史は国学の付属物、中国史は漢文の付属物といった状態がなお尾を引いていたといえる。

 

 

戦前の日本では「神話を歴史として教えた」という言葉は必ずしも正しくなく、「国学の付属物」のように扱われたと言うべきであろう。無理もない。白鳥博士はつづけられる。

「明治二十年、文科大学(帝国大学)には始めて歴史科なる独立した科が設けられ、講師としてドイツの学士であるルドヴィヒ・リース氏が迎えられて、私は最初の史学科の学生として入学しました」

 

 

氏がなぜ、卒業と同時に学習院教授に迎えられたかは、これで理解できる。簡単にいえば近代的な歴史学を学んだものは、他にいなかったからである。(略)

 

 

 

そしてこの白鳥博士の学統を継承されたのが津田左右吉博士だが、この問題については後述しよう。ただ昭和十七年、第二審で免訴となったとはいえ「出版法違反」で第一審で有罪判決を受けた津田博士と天皇が、ともに白鳥博士の弟子であったのは、興味深い。

 

 

 

日本で最初の「歴史学」教授

 

(略)

つづく白鳥博士の記述を読むと、当時の学習院は、新しいエリートを教育するため、新しい教育の先端を切っていたらしい。そして面白いことに、そのカリキュラムは特別で「文部省管轄学校」とは無関係であった。これは当時としては、当然のことであったかもしれない。というのは文部省の方は「文盲一掃」的な義務教育に主力を注がねばならぬ時代であったからである。(略)

 

 

ただ教授に任命されて白鳥博士がなんとしても困ったことは、日本史も東洋史も実は存在していないということであった。

 

「……元来「東洋諸国の歴史」といっては、当時知らないのは私たち二人(白鳥・市村両教授)だけではないので、世界中どこにもいまだ東洋史の研究家はなく、私たちが困ってしまったのは、学習院において改革案を施すに際し、遠く時勢に先んじていたからです。

 

 

東洋諸国の歴史を高等科に置いたことは、卓見と言えば卓見で、実際文部省では、これより十年後において各学校に東洋史を課した位ですから、その教授者があろうはずはありません」

 

 

と白鳥博士は記されているが、これは中学校以上のことで、義務教育では、私の世代になっても、東洋史西洋史もなかった。

以上の記述から見ると、まことに面白いことには天皇は「文部省教育」を受けていないのである。ここには時代の要請もあり、急速な近代化のためには、エリート教育と庶民教育は分けねばならぬといった意識もあったであろうし、学習院こそ全学の先頭に立って新しい教育を行わねばならぬといった意識もあったであろう。(略)」