読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「六章  三代目 —— 「守成の明君」の養成  

  = マッカーサー会談に見せた「勇気」は、どこから来たか

 

「「創業と守成のいずれが難き」

一人間の生涯を考えると、すべてが幼少時の予定どおりにいったという例は皆無に近いであろう。これは天皇とても例外ではない。天皇の自己規定に大きく寄与したと思われる教育者に、明らかに共通している傾向があった。それは若き裕仁親王を、「憲政の王道を歩む守成の明君」に育てようとはしても、決して「覇権的な乱世の独裁君主」に育てようとはしなかったことである。(略)

 

 

戦争であれ革命であれ、これは常に体験者が抱く矛盾した感慨だが、この矛盾は「あの苦しみを二度と体験しないためには、その成果を確実に守れ」という形になる。それが「守成」であろう。

 

 

貞観政要」(唐の太宗と群臣たちとの問答をもとに、政治の要諦を説いた書)の「創業と守成といずれが難き」は有名な言葉だが、この唐の太宗の問いに魏徴が答えているように、守成の方が創業より難しいと言って過言ではない。この「貞観政要」が、「倫理御進講草案」でも採り上げられていることは、「目次」を見ると分かるが、残念ながら本文は残っていない。(略)

 

 

以上のほかに、天皇が教育を受けられた時代も考えてみなければならない。学習院初等科への御入学が明治四十一年、東宮御学問所での授業開始が大正三年、以後七年間ここで学ばれ、ついでイギリスにご外遊、ジョージ五世とイギリスの憲政に深い感銘を受けられ、帰国されて大正十年摂政宮となられ、実質的に政務をお執りになっている。(略)

 

 

議会制度はやや軌道に乗り、「憲政の常道」で議会の多数党の党首に大命が降下するというイギリス的ルールが、確立しそうに見えた時代であった。

維新を生き抜いて来た教育者たちは、これでやっとその成果を守り、その枠内で将来の発展を目指せる「守成の時代」が来たと感じたであろう。ライシャワー博士の持論のように、民主主義は戦後とともに始まったのではなく、軍部により中断された大正自由主義の再生と見るなら、戦後こそ天皇への教育とそれに基づく天皇の自己規定の生かされていた時代と言えるであろう。

 

 

 

外国の皇帝の中で、杉浦が採り上げているのは、前記の反面教師ドイツ皇帝ウィルヘルム二世とナポレオンとペートル大帝の三人だけだが、そのそれぞれに対する杉浦の批評は興味深い。(略)

 

 

さらに、彼は「生まれながらの王者」ともいえる人であったと、次のようなエピソードを紹介している。

 

「提督エデンが未だ少尉なりし時、提督某に伴われてセンtノヘレナに至りて、ナポレオン(原文は「那翁」、以下同)に謁したる時の感想を語りて曰く「ナポレオンは提督と談笑して後、予を顧みたり。予はこのとき始めて、「生まれながらの王者」といえる句の意味を了解したり。

 

 

予は悪魔を憎むが如く仏人を憎めと教育せられたる英人なり。しかれどもナポレオンが予に一顧を与えたる時、彼が威容は荘厳にして威力あり。彼もし予に命じて、伏せ、われ汝の上を歩まんと言わば、われは英国人なりとも、直ちに彼が命令に従いて伏したるならん。ナポレオンの顔色は、その人物の黙示にしてまた精力の表現なり。彼は実に命令せんとて生まれたるものなり。云々」と」(略)

 

 

言うまでもなく、彼の結論は「徳を以て守る所」すなわち「王道的な守成」が出来なかったが故に稀有の才を持ちながら破滅した、である。この点、ナポレオンは天皇にとって、一面教師・一面反面教師であった。(略)

 

 

天皇の書斎にリンカーンダーウィン、ナポレオンの胸像が常に置かれていたことはよく知られているが、ナポレオンが置かれているのは、以上の理由と、もう一つ、すでに記した戦争中も敵国の科学者を厚遇したことであろう。」