読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「七章  「錦旗革命・昭和維新」の欺瞞  =なぜ、日本がファシズムに憧れ

       るようになったのか

 

ファシズムの台頭と、青年将校たちの憧れ

 

前述のように、天皇が摂政になられたのが大正十年(一九二一年)、その翌十一年、イタリアではムッソリーニの率いるファシスト黒シャツ党が有名な”ローマ進軍”を行ない、史上初めてファシスト政権が樹立された。

 

 

しかしこれがすぐに日本人の注目を集めたわけではなく、今でいえば中米の小国のクーデター騒ぎぐらいにしか受け取られなかった。そしてその翌年が関東大震災であり、日本自体が外国の動きに注意を払う余裕はなかった。(略)

 

 

このファシズムの影が、さまざまな形で日本に忍び寄って来るのは、昭和二年の金融恐慌、翌三年イタリア議会のファシスト独裁法可決、昭和四年のアメリカ株式市場大暴落とその影響を受けて生糸価格の暴落、つづく昭和五年の世界恐慌の波及による「昭和恐慌」といった内外の諸要因が、日本に作用しはじめたころであろう。ついで昭和八年、ドイツ議会は授権法可決によってヒトラーの独裁を承認した。

 

 

これで見てもわかるように、ファシズムは議会制民主主義と裏腹の関係にある。いわば国権の最高機関である国会が、その議決によってある人間に全権を付与したのだから、その人間は合法的に独裁権を持つという論理である。

 

 

この論理は必ずしも日本では通用しなかった。というのは総理の任命権は天皇にあったからであり、ここで当然に出てくるのは、天皇を動かせばファシスト政権が樹立出来るという発想である。それに、さらに「天皇は自らの意思を持たない玉または錦の御旗にすぎない」という発想が加われば、天皇を奪取すればよいということになる。これが青年将校が口にした「錦旗革命・昭和維新」の基本的な図式であろう。」

 

 

〇 議会制民主主義では、国権の最高機関である国会が、その議決によってある人間を独裁者にできる……、 でも、日本においてはそうはならない、天皇が更にその上にいるから…

ということなのでしょうか。でも、その天皇は「立憲君主」として議会の決定に従う君主であるので、結局、議会の決定を反故にすることはできない。

 

ここが、とてもわかり難いと思います。

「日本には天皇がおられて、総理の任命権は天皇にある」

議会が選出した総理を任命しないなどということは「立憲君主」としては不可能でしょう。でも、「本当は」天皇の方が上なのでしょう?だったら、任命しないということもありなのでは?と思うのが、普通では…と思ってしまいます。

 

とてもとてもわかり難い。

 

 

「かつての中国の大躍進のとき「ヨーロッパが三〇〇年かかったことを、中国では三〇年で行なう新しい道を発見した」といった意味の論調を読んだが、こういった傾向は、ヒトラーf、ムッソリーニ出現のときも変わらなかった。そして、いずれの場合も、ある面では確かに事実を報道していたのである。

 

 

たとえば、ムッソリーニが出現して、ローマから名物の乞食が姿を消した。ナチス・ドイツには失業者はない。ベルリンから名物の娼婦が消えた。大アウトバーンを建設している。国民車(フォルクス・ワーゲン)がいずれは一家族に一台行わたる。健康保険が完備していて病気になっても一銭もいらない等々。当時の貧しい日本人にアッピールしたのは、私の記憶している限り、以上のような点であった。

 

 

これらを、第一次世界大戦後の殺人的なインフレと疲弊を克服して、急速に成し遂げたヒトラーは、まさに「大躍進の奇蹟の人」に見えた。

そして、一方、自分の周囲を見渡せば、新宿のガード下に乞食がたむろしており、農村は疲弊して娘を娼婦に売り、町に失業者があふれている。病気になっても医療の保証はなく、肺結核にでもなれば本人死亡、一家離散である。(略)

 

 

 

相手は大躍進、日本は停滞と沈淪といった印象を多くの人が持った。もちろん政治にも経済にも奇蹟はない。ただ以上のような「報道された成果」の裏側に何がかを知らなければ、ただ素晴らしいと思うだけである。

若くて純粋、と言えば聞こえはよいが、隔離された特殊教育で純粋培養された世間知らずの青年将校が、以上のことに加えて、まことに颯爽と見えるナチス再軍備にも、強い共感を示しても不思議ではなかった。(略)

 

 

 

「今の陛下は凡庸で困る」

 

日時はあまりはっきりしないが、このころ秩父宮天皇に「憲法停止・御親政」を建言し、天皇は断乎としてこれを拒否されたらしい。というのは「本庄日記」に次のような記述があるからである。

 

「陛下は、侍従長に、祖宗の威徳を傷つくるが如きのことは自分の到底同意し得ざるところ、親政というも自分は憲法の命ずるところに拠り、現に大綱を把握して大政を総攬せり。これ以上は何を為すべき。また憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたるところのものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ずと漏らされりと」

 

 

この言葉は明治憲法発布のときの明治天皇勅語「朕及沈カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ」を遵守し、これを「破壊」するようなことは絶対にしないという宣言に等しい。

 

 

この記述で注意しなければならないのは、直接に本庄侍従武官長に言われたのではなく、侍従長に言われたことの伝聞だという点である。したがって「憲法停止・御親政」が秩父宮の意見なのか、そういう意見が青年将校の中にあると告げられたのか、この点は明確ではない。

 

 

秩父宮二・二六事件の首謀者の一人安藤大尉ときわめて親しかったから、その意見を伝えたことは充分にあり得るが、秩父宮自身がこれにどれだけの共感を持っていたかは明らかではない。(略)

 

 

社会主義国家社会主義(ナチズム)は上下を問わぬこの時代の流行であったから、秩父宮の上申は、無理からぬことと言ってよいかもしれぬ。

以上のように見れば、秩父宮が革新将校にある種の共感を持っても不思議はない。不思議なのはむしろ、まだ二十代の天皇が全く関心を示さなかったことであろう。

 

 

これにはさまざまな理由があろうが、天皇は幼児期から決して器用ではなく、図画や手工は不得手、またいわゆる文学青年の要素は全くなく、作文は苦手であり、また俊敏活発で要領のいい方ではなかった。簡単にいえば、巧みに時流に乗ったり、かつがれたりするタイプではない。この点、秩父宮とは正反対といってよく、小学校の頃の成績は秩父宮より天皇の方が悪かった。(略)

 

 

「陸軍の一部の者が「今の陛下は凡庸で困る」と言っているそうだが……」(「西園寺公と政局」)という言葉が出てくる。また前に触れた三月事件は橋本欣五郎中佐らの桜会グループと、大川周明国家主義思想家)が組んだクーデター計画だが、天皇を廃して秩父宮を擁立しようとした計画もあったという説もある。

 

 

さらに皇太子が生まれると、昭和十五年に天皇は「秩父宮は軽い戒結核で静養しており、私の万一の場合は、摂政は高松宮に願わなくてはならないと思う。それゆえ、高松宮(海軍中佐)を第一線勤務につけないようにしてほしい」と天皇は米内(光政)海相に言われたという。これは「憲法停止・御親政」の秩父宮が摂政になることを、予め封じられたと受け取ることも出来よう。(略)

 

 

そしてこの予測し得ない未来に対して、天皇はまことに「愚直」とも言いたい行き方で進んでいった。文字どおり「自分は憲法の命ずるところに拠り」なのである。この言葉が公表されていたら、当時の日本人はみな驚いたであろう。というのは、ほとんどすべての当時の日本人は、天皇が頂上と信じており、天皇が命ずることがあっても、何かが天皇に命ずるとは信じられなかったからである。

 

 

ここには教育問題もある。というのは戦前の義務教育では、憲法教育は皆無に等しかったからである。「憲法停止・御親政」という言葉は、天皇憲法を停止出来るという前提に基づいており、これは「天皇憲法以上の存在」と信じているが故に、はじめて口に出来る言葉だからである。」

 

〇 天皇制は、庶民にはとてもわかり難い。「立憲君主制」の天皇であろうとする天皇であるうちは、昭和・平成・令和…と今のような天皇制が続いていくのかも知れないけれど、万が一、「憲法停止・御親政」を意図する天皇になってしまった時、どうなるのだろう…と思ってしまいます。