読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「八章  天皇への呪詛

     = 二・二六事件の首謀者・磯部浅一が、後世に残した重い遺産

 

 

決起将校の”読み違い”を招来した一事件

 

天皇への批判はもちろんあるであろう。また怨みを抱いている人もいるかもしれない。しかし、天皇を呪いに呪って呪い殺しそうな勢いで死んだ人間といえば、私の知る限りでは、磯部浅一しかいない。彼は二・二六事件の首謀者、実質的な総指揮官だが、退職一等主計のため部下がおらず、自らを総参謀長と言っていた。

 

 

二・二六事件の首謀者は、判決後一週間で処刑されたので、外部のニュースはあまり入ってこないし、決起の熱気も冷めておらず、また多人数で気勢を上げて気をまぎらわすことも出来る。この点で最も重要なのは「君側の奸」に敗れたと彼らが信じ得たことで、そこで「天皇陛下万歳」を三唱、安藤(輝三)大尉は、さらに「秩父宮殿下万歳」を叫んで処刑された。

 

 

 

この方が幸福だったかもしれない。

というのは磯部と村中孝次(退役士官、磯部の同志)は、つづく裁判の証人として、執行まで一年間独房にいた。その間、面会などを通じて、しだいにニュースが入って来る。そしてついに、彼らの昭和維新を潰し、彼らを処刑に追い込んだのは天皇その人だと彼は知るのである。そのショックがどれくらいすさまじかったか――。

 

 

彼はやがて、半狂乱のような文章で呪詛の言葉を書き綴る。彼らが勝手に「体して」いた「大御心」と天皇の意志とが全く別であったのだ。磯部にしてみれば「裏切られた、天皇こそ元凶であったのだ」という気持ちであったろう。(略)

 

 

同紙によれば山口大尉は「青年将校の中核的存在なので」「言論取締の憲兵は、この状況を上司に報告、これが成り行きに関しては慎重な態度で注視している」と。(略)

 

 

 

ところが彼の友人亀川哲也が次のように言ったと、松本清張氏は記している。

 

「入営兵とその父兄に対する山口訓話が問題になって、憲兵隊は山口を逮捕しようとしたが、天皇のお声がかりでこれが出来なかった。天皇は本庄侍従長に「忠義は大切だから……」と言ったという。

 

 

……二、三日すると山口がやってきて「陛下の一言で逮捕が出来なかったんだよ」と言って笑っていた。山口訓示に対して天皇にはむしろ満足の気持ちがあったのではないか。このことから、青年将校らは、天皇が自分たちの忠誠心を理解されておられると信じたのだろう」

         (「昭和史発掘」8/文春文庫)

 

 

前にも記したが、天皇は個々の部門に対して絶対に容喙しないのが原則である。山口大尉は本庄侍従武官長の女婿だが、だからといって天皇が特別な指示をするとは考えられない。天皇が、誰かを逮捕せよとか逮捕するなとかいった指示をされた例は皆無である。(略)

 

 

憲兵が問題にしたのは演説が何らかの行動の前触れではなかったかという点で、演説そのものではあるまい。一大尉の演説に天皇が何かを指示するなどということはあり得ないが、彼は本庄侍従武官長の女婿だから「陛下の一言で逮捕できなかったんです」という言葉は、何やら信憑性がありそうに思われる。

 

 

こういった気持ちは彼らだけでなく多くの軍人にあり、二・二六事件の後も「天皇が軍人の処刑を許可されるはずがない」と思い、軍法会議の裁判長さえ、陸軍大臣が判決を奏上した日も「あるいは死一等を免ぜらる、というようなことがあったら」と夜おそくまで待っていた。裁判長までこのような状態だから、死刑判決を受けたものはなおさらのことで、処刑の直前まで必ず恩赦があると信じて込んできても不思議ではなく、恩赦・出獄の際の祝賀会まで考えていた者もいた。(略)

 

 

だが天皇の厳命で「二十九日払暁攻撃開始」が決定される。ところが彼らは最後まで天皇がそのような命令を下されるはずはないと信じていた。しかし包囲網はしだいにちぢまり、戦車が轟音を立てて近接し、住民はみな避難した。あり得ないと思っていた「皇軍相撃」が今や始まろうとしている。このとき彼らは崩壊しはじめた。」